秀吉の最期の希望は、茶々が産んだ秀頼でした(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第38回「唐入り」では、天下統一を果たした秀吉が大陸へと兵を差し向け、初めての子である鶴松を亡くした失意のなか男子を授かるまでが描かれました。第39回「太閤、くたばる」では秀吉の暴走が再開したあとで突然、秀吉が倒れることに。『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏がその経緯を解説します。

通説では、小牧長久手の戦いのあと織田信雄と和睦し、家康を孤立させた秀吉は、徳川討伐の準備を進めるものの天正の大地震で、その計画を中止したとあります。その後、秀吉は方針を大転換して家康の懐柔に全力をあげた、というのが一般的な解釈です。

しかし秀吉は、本当に大地震だけで徳川討伐を諦めたのでしょうか。そこにフォーカスし考察していきます。

天正の大地震の影響は徳川領内には比較的少なかったようですが、長引く戦いの連続で、徳川領内は荒廃しきっていました。また信濃での真田昌幸の反乱などもあり、徳川の状況は極めて深刻に。秀吉がその気なら、時期さえずらせば徳川討伐も可能だったでしょう。なぜ討伐しなかったかの理由は、秀吉に臣従した後の家康の扱いから垣間見えます。

早くから秀吉の右腕とされた家康

秀吉は、家康が上洛すると、すぐに正三位に叙任させました。そして、その1年後には、従二位・権大納言に昇格させます。これは、秀吉の弟であり、豊臣政権のナンバー2である秀長と同じ位です。秀吉は、織田家からの権力奪取をする際に朝廷の力を利用しました。自身も関白の位につき、武士社会においても朝廷での位を権力の秩序としたのです。

これは農民出身だった秀吉が、己の野心を正当化する方法でした。それゆえ豊臣政権における朝廷の官位は、そのまま政権内の評価に一致します。その意味では家康は、臣従した初期から秀長と並び豊臣政権のナンバー2として扱われたわけです。

とすると秀吉にとっての徳川征伐は、あくまでも家康を屈服させ配下とするための方法だったと考えられます。

家康に対する秀吉の政策で最も重要なものは、小田原征伐後の関東への転封です。

これは秀吉があえて父祖からの領地であった三河を含め、その領地を召し上げて転封を命じることで、その忠誠を確認する非情な命令だったというのが昔からの通説でした。その意図ももちろんあったと思われます。

秀吉から家康に内示があった?

家康がこれに反抗すれば、今度こそ徳川征伐を行うことになったでしょう。しかし、どうも秀吉は、家康が拒否するとは考えていなかったように思います。

転封に関しては、事前に秀吉から家康に相談があったことを示す資料も残っており、秀吉は奥州への抑えとして家康を抜擢し、天下統一へのスピードを上げる目的があったようです。

その証左として、小田原征伐の前に、家康は関東・奥両国惣無事令を行うことを目的として、左近衛大将および左馬寮御監に任じられています。

豊臣政権は朝廷の官位で序列を決めていましたから、この人事は、家康が豊臣政権ナンバー2として、関東以東の治安・運営を任されたことを意味するものです。

この時点で秀吉と家康の間には、なんらかのコンセンサスがあったように思われます。

ただ、家康としては父祖伝来の領土を手放すのですから、家臣の説得は難しかったでしょう。秀吉はそれも含めて、旧領150万石から100万石を加えた250万石という法外な加増を行いました。

もちろん滅びたばかりの北条氏の領地であり、当時は沼地が多く決して肥沃な土地ではなかったことを考えれば、そこまでの加増ではないという意見も頷けます。徳川家中でも同じような意見を述べる家臣も多くいました。

しかし家康としてはこれを請ける決断をします。このとき秀吉は重要なアドバイスを家康に送りました。江戸に本拠地を置くことを勧めたのです。大坂に一大都市を築いた街づくりの天才・秀吉は、江戸が大坂と同じように発展することを見抜いていました。

家康は秀吉のアドバイスを受け入れ、大坂をモデルとして江戸を開拓していきます。大坂からたくさんの商人を厚遇で迎え、商業都市として発展させていきました。

このことからも秀吉と家康の間には、我々が想像する以上の深い信頼関係があったようです。

秀吉の家康への信頼

関東へ転封以降、秀吉の家康に対する信任は一層厚くなります。石田三成ら秀吉子飼いの官僚たちは家康への警戒心は強かったようですが、秀吉の信任は変わりませんでした。


三成の描く天下は家康の描く天下に通じるものがありました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

秀吉の中では、東日本は家康に任せるという意思があったようで、秀吉の後期の最大の失策とも言われる朝鮮出兵にも家康は外されています。これは、東日本の安定が家康の役割だったからです。

それでは、なぜ秀吉は、ここまで家康を重用したのでしょうか。

秀吉の晩年の徳川の領地は、豊臣直轄の領地を上回っていました。もちろん貿易の収入など、領地からの収入によらない富は豊臣家に集中していましたが、それでも家康に関してはほかの諸侯とは比べ物にならないほどの厚遇です。

ここからは私の私見ですが、やはり秀吉にとって、自身の政権は正統性の薄いものだったのではないかと思われます。農民から身を起こした秀吉には譜代の家臣はおらず、臣従した諸大名は皆、同僚か敵ばかりでした。

いくら朝廷を使って官位制度で形式を整えても、戦国大名たちの心をつかむには至らなかったのではないでしょうか。信長のような圧倒的なカリスマも、織田家という組織がもともとあったから発揮できたもの。秀吉は、どちらかというと民の人気を得ることで、のし上がっていきました。

民からの圧倒的な人気だけでは政権維持は困難

しかし人気取りだけでは政権を維持できません。諸侯を信服させるのに必要だったのが徳川家康という存在でした。秀吉の政権のベースは信長です。その信長の唯一の同盟国であった家康を正式に自分に臣従させることは、信長を超えることでもありました。

家康は信長の晩年には実質的には服従してその傘下に入っていましたが、それでも体面的には同盟国のままでした。その家康が正式に自分の家臣になると表明することは、秀吉自身の権威を高めるうえで絶大な役割を果たすことになったのです。

だからこそ秀吉は、自分の妹や母親を家康に人質に差し出しても、彼を上洛させ、居並ぶ諸侯の前で自分の臣従を誓うセレモニーにこだわったのでしょう。

家康には信長や秀吉に認めさせる人間力があったように思います。家康は信長の9歳下、秀吉の6歳下です。年齢の若い家康に対して信長は、厳しい要求もしましたが、あくまでも同盟国としての建前を崩さず、自ら安土城で家康を接待する気遣いを見せました。

秀吉も、家康が臣従して関係を持つようになってからはいっそう気を遣い、何かと家康の顔が立つようにします。家康には、信長や秀吉のような派手さや激しさはありませんが、相手の信頼を得る独特の魅力があったのではないでしょうか。

戦国の諸将から支持が厚かった

もし、家康がただの野心家であれば、信長や秀吉はどのような手を使っても家康を排除したでしょう。とくに秀吉に関しては、家康が臣従してからの家康に対する信頼は絶大なものでした。それは同時に家康を支持する諸侯が多かったことでもあると言えます。

そして秀吉の死後、家康の人望は大きく天下を変えていくことになるのです。


(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)