「AIみたいな美少女」と言われる「藤咲凪」本当の姿
生放送での告白後はじめて自身の生い立ちを語ってくれた(撮影:今井康一)
「AIだと疑われる」ほどの美少女として今話題の藤咲凪をご存じだろうか。
彼女の写真を見た人が「これはAI画像ではないか」と疑いネットが沸騰し、藤咲本人が「私は実在する人間です」と反論。ABEMAニュースの生放送にも出演し「生きているのに……すごい時代になってきた」と語り大きな反響を呼んだ。
出演した『サンデージャポン』(TBS)では突如「2人の子どものシングルマザー」であることを告白し、人気漫画になぞらえ「リアル推しの子」などとよばれる彼女。
だが、そんな藤咲自身のことはほとんど知られていない。いったい彼女はどういった人物であるのか。
今回、“初めてのこと”を含めて自身の半生を語ってくれた。
*この記事の続き:「AI的美少女✕2児の母」藤咲凪、再活動"驚く真相"
長女が生まれたときは「本当にかわいかった」
「長女が生まれたときは本当にかわいかったですね。この子をしっかりと育てていこうって強く思いました」
2019年、藤咲凪は地元である北海道で長女を出産した。藤咲凪は1児の母となった。
とはいっても厳密にはこのときはタレント活動を休止しており、あくまでも一般人としてである。
もう表舞台に出ることはないだろうと覚悟しての出産だった。まさか今のように母としてテレビに出たり、ステージに立っているとは想像もしていなかった。いわく、「ジェットコースターのような人生」。
いかにして今の藤咲凪が誕生したのだろうか。
北海道十勝地方。帯広市を中心に雄大な自然が広がるこの場所で藤咲凪は生まれた。
「小学校の頃は1年生から5年生まで本当に内気な性格で学校では誰とも話せませんでした。声が出ないんです。家では普通に話せるんですけど。友達もいないし……。朝の会とかで出席確認の『はいっ!』って返事もできないくらいで。ずっと保健室登校でした」
やっと話せる友達ができたのは、5年生の頃に通ったダンス教室がきっかけだった。同学年の子とダンスを通して打ち解けることができ、話すことも自然とできるようになった。
思えば、このダンスレッスンが藤咲の芸能活動の原点であったのかもしれない。ダンスが好きになり、その後3年間通い、基礎を磨いてきた。
実はこの頃、母親と死別している。くしくも藤咲の母は結婚するまでは東京の芸能事務所に所属しタレント活動をしていた過去を持つ。
小学校時代、家では普通に話せるが外では話せなかったという(撮影:今井康一)
次第にぐれた中学時代
母との突然の別れ。話せる友達もおらず、藤咲の心は少しずつむしばまれていく。
中学校では自身の声をからかわれ、自分に自信が持てなくなった。次第に中学も不登校になり、逃げるように地元の不良グループに合流。学校をさぼり遊ぶようになる。
「この頃は本当にぐれてましたね。周りにたくさん迷惑をかけました」
学校に居場所なき藤咲が見つけた唯一の居所だった。仲間といるときは救われた気がした。
ほとんど中学に通うことはなかったものの、なんとか高校に進学。けれども素行の悪さは変わらなかった。だが、高校を必ず卒業することだけは家族と約束をしていた。
そんな藤咲にも「変化」は徐々に訪れる。
アニメや漫画が好きで、人生を共に成長してきたというバイブルは『NARUTO-ナルト-』。
そうしてアニメをみているうちに次第に「声優になりたい」と思うようになった。周囲にもそう話していくうちに仲間からも、「その声ならなれるよ!」と応援の声が増えてきた。
「私にもできる!」「声優になれる!」何か根拠があるわけではないが、仲間の声に背中を押され、なぜかできる自信があった。
この根拠のない自信こそが時を経て、今の藤咲凪を作り上げることになる。
「声優になりたい」
この思いをすぐに行動に移したいが、実際に声優オーディションはそうあるものではない。ましてや十勝にいては、なおさらだ。
そこで、藤咲はオーディション情報をくまなくチェック。芸人の田村淳氏プロデュースアイドルのオーディション情報を見つけ、「これだ!」とすぐに応募。見事合格し、東京でアイドルとしてデビューすることになる。
「声優のオーディションがなくて、田村淳さんのプロデュースだったら『有名になれるんじゃないか。声優になるための勉強になる!』と思って応募しました。だから最初からアイドルになりたいって思っていたわけではないんです」
あくまでも声優になるために知名度を上げるためのスタートという位置づけ。所属グループ「ぶっ壊れRe:論‰」(ぶっこわれろんぱーみる)にも、いろいろな夢を持つ女の子が集まっていた。
こうして藤咲は東京でアイドルとしてデビュー。今とは別の芸名で活動をスタートさせる。
だが、地元北海道と東京の往復は厳しく、やむなく高校を中退。家族とは高校卒業認定試験を受けることを条件に、17歳で東京の親戚を頼って上京することになる。
おりしもアイドル戦国時代真っただ中。「声優になりたい」という思いとは裏腹にライブアイドルとして、毎日ライブにレッスンと忙しい日々を過ごしていた。
藤咲はこの頃、運命ともいえる出会いを果たしている。現在活動してる音楽ユニットの相方、「最終未来少女」のメンバー、小野緑と出会ったわけだが、そちらは後編に記させていただく。
高校中退後に高等学校卒業程度認定試験を受け、無事合格している(撮影:今井康一)
順調に見えつつも「もがき続けた日々」
2018年、女子高生ミスコン「2017-2018」に参加。関東グランプリとなり、全国大会でも受賞する。
同年、「ぶっ壊れRe:論‰」が解散しアイドル活動はやめたが、「青春高校3年C組」(テレビ東京)に出演。『週刊プレイボーイ』(集英社)でグラビアデビューを果たすなど、徐々に世間に認知されはじめていた。
しかし、「声優になりたい」という藤咲の心は満たされることのないまま、時間だけが過ぎていった。
その後、縁あって所属した声優事務所も、仕事に関する方向性の違いからやむなく退所。
うまくいかないことに焦り、自暴自棄になり、自ら傷つけることもあった。次第に「辞めたい、北海道に帰りたい」そんな思いが強くなってきた。
2019年、藤咲は、とある騒動を起こす。
ミスiDというオーディションで「ミスiD賞」を獲得する。その授賞式のフォトセッションで、ずっと顔を隠したまま帰ってしまい周囲を困惑させた。ミスコンで写真を撮らせないという前代未聞の事態である。当時のことを、こう振り返る。
「真ん中にグランプリの子がいて、それを見るのは悔しいじゃないですか。出るからには絶対負けないって思っていたので。グランプリじゃないし、端っこで(顔隠して)写真なんかいらないかなって当時は思ってて帰りました。負けずぎらいなんですよ。調子にのってました(笑)」
当時の藤咲を象徴するとがったエピソードだ。昔から負けず嫌いで、出るからには勝たないと意味がないと思っていたという。
小さい頃から負けず嫌いな性格でチャレンジしてきた(撮影:今井康一)
芸能活動をやめ、決意した結婚
はた目には芸能活動が順調にいっているかに見えたが、藤咲は結婚を決意する。結婚後、第1子を妊娠。
「妊娠がわかったときは迷うことなく「産もう。この子は私が育てるんだ」って思いました」
迷うことはなかった。
声優事務所も辞め、身も心もボロボロになっていた藤咲に、もう東京に残る理由はなに一つなかった。
芸能活動をやめ、地元である北海道での新たな生活がスタートした。そして、2019年長女を出産。家族3人での生活が始まる。
慣れない子育てに一人奮闘する日々を送る。これまでの芸能活動とはまったく違う日常にもそれなりに満たされていた。
2022年には、次女を出産。家族4人での順風満帆の生活に見えたが、現実はなかなか難しく、悩んだ末に離婚を決意。子どもたち2人は藤咲が育てることになり、シングルマザーとしての新たな生活がはじまった。
「不安はありました。わからないことも多かったので。ただ、産むことを決めた瞬間から、どういう状況でも必ず子どもを育てていく『覚悟』があったので、新たな生活への楽しさのほうが上回ってましたね。決して楽観的に考えてたわけじゃなくて、この時期は不安、楽しみ、両方の意味で頭の中は子どものことでいっぱいでした」
そうして、「子どもたち2人は自分が育てる」という強い覚悟のもと2022年、再び上京することになる。
時間を効率的に使うことで、子育てとアーティスト活動を両立させている(撮影:今井康一)
「母」として「アーティスト」として
上京後、芸能活動を再開させた藤咲。子育てとの両立は大変ではないのだろうか。
「うちの子たちは本当にいい子で手がかからないんですよ。夜泣きとかも少ないし。元々ショートスリーパーなので少し寝れば大丈夫です」
笑ってはいるものの、3歳と1歳の女の子を2人育てるのは本当に大変なことだろう。ましてや芸能活動と並行してだ。
「全然大変だとかは思わないです。楽しいですよ! でも家で子どもたちと一緒に泣いちゃうことはあります。なんか涙がとまらなくなって……」
つらくはない。自分自身が選ん道だ。わかっている。それでも感情があふれるときもある。
だが、藤咲は子どもを産むとき、そして北海道を離れるとき、都度決意してきた。母として子どもたちは私が育てると。
だからこそ、シングルマザーとして子育てをしながら再び芸能の道に戻ってきた。
「ジェットコースター」のような人生はまだまだはじまったばかりなのかもしれない。
*この記事の続き:「AI的美少女✕2児の母」藤咲凪、再活動"驚く真相"
(松原 大輔 : 編集者・ライター)