「10代から変わらない」師匠語る藤井聡太の本性
藤井聡太八冠が対戦で「意識しない」こととは(写真:東京スポーツ/アフロ)
王座戦を大逆転で制し、前人未到の八冠を達成した藤井聡太。順風満帆に八冠に辿り着いたように思えるが、けっしてそうではない。苦手棋士に完膚なきまでに負けて連敗、前半の長考で対局時間を使いきり、後半での大逆転負けの日々……。
「藤井の最大の特長は同じ過ちを繰り返さないこと」と師匠の杉本昌隆八段は述べる。「将棋は人生の縮図である」……窮地に立たされた時、勝利を手中に収めた時、土壇場で力を最大限に発揮する方法を明らかにする(本稿は、杉本氏著『藤井聡太は、こう考える』からの抜粋です)。
ライバルを意識することはない
藤井はライバルを見ることをしません。自分の走りだけを見ている。実際に今は同世代のライバルがいないということもありますが、おそらく若い頃からライバルを意識することはありませんでした。
ライバルの存在に関する質問に答えていたのを見たこともありません。もしくは、質問はされたけれど、答えていないから記事にもされていないのでしょう。そういう質問をされること自体、少し困るのかもしれません。
ライバルも目標にしている人もいない、そういった存在は……あるとしたら、自分自身 なのでしょう。
ただし、いわゆる「孤高の人」というわけでもありません。みんなで集まって研究することも好きですし、その折の様子はとても楽しそうです。
藤井が目指す先には、他人の存在や、どこか知らないところでつくられた権威のようなものはない。だから記録にも関心がないのでしょう。タイトル獲得後の記者会見やインタ ビューでも気持ちを高揚させることなく落ち着いているのは、タイトルを獲ることが最終的な目的ではないからです。
人は誰でも得意や苦手があります。好き嫌いと言い換えてもよいかもしれません。しかし、その発想が平常心を妨げるのです。
「得意」「苦手」で対戦相手を見ていない
対人戦として考えると、藤井には苦手な相手がいません。誰と対戦しても勝っているから? そういう意味ではありません。
そもそも、この人は苦手だ、この人は得意だという目で対戦相手を見ていない。あれだけ負けていた豊島将之九段になぜ勝てるようになったのか。当時の状況から豊島九段は藤 井にとっての「壁」といわれていました。
2017年の棋王戦から、2020年の王将戦まで、藤井は豊島九段に一度も勝つことなく6連敗を喫していたのです。ただ、藤井は技術的な力不足を感じることはあっても苦手という意識では見ていなかったのでしょう。
誰かを苦手だと思ってしまうと、どうしても対戦するたびに、それが頭をよぎってしまいます。その思考が自分を縛ってしまうのです。
藤井が規格外なのはその逆の場合、例えば現時点ではほとんどの棋士に対して大きく勝ち越しています。傍から見ればすべての棋士を得意とするはずですが、そんな意識はありせん。そういう目で人を見ていないのです。
それは対「人」でなく、戦型や局面についてもいえます。「藤井の将棋」には苦手なパターンがありません。どんなに難解な局面でも面倒くさがらず、丁寧に最善手を探して着実にそこに辿り着きます。選ぶ戦法に多少の得手不得手はあるにしても、勝負の展開に苦 手は1つもありません。
反面、「この展開ならば自分のペース」といった得意もありません。本質的に、それが自分の足かせになることをわかっているのではないでしょうか。
多くの棋士には、おそらく8割以上と私は思っていますが、「将棋とはこのように進めてこう勝つべきだ」という共通認識、いわゆる「王道」があります。それはリスクを恐れない、相手から逃げない、自分を偽らない指し手のことです。
「目先の一番」に勝つことだけを意識しない
目先の一勝だけならどんな勝ち方でもよいのかもしれません。しかし棋士の現役寿命は長い。10年、20年、いや40年以上もこの世界でやっていくとなると、勝負に対して真摯でないと続かないものなのです。
気をつけなければいけないのは「こうすれば相手は間違えそうだな」と思う瞬間です。こう考えてしまうと、目先の一番に勝つことだけを意識した邪な考えや狭隘な指し手に支配されてしまうからです。
一流の人はけっして逃げません。合理的ではない選択、遠回りも苦にしません。なぜなら、相手の一番得意な展開、最高のものを浴びた時が、人は一番成長できるからです。だからこそ、自分の中の得手不得手、好き嫌いを超えて、損得で判断せず今目の前にあるものをそのままに、フラットに見る力が必要になるのです。
藤井はその点、本当にいつも客観的に盤上を見ていると思わされます。どんなに険しく ても恐れず、修羅の道を自ら選んでいるかのよう。それが困難に見えるのは錯覚で、本人はそう思っていません。
なぜならば、その先、その一局のゴールではなく、ずっと先に続く道が見えているから。それは、「構想力とは、人生の目的である」に共通する考え方です。後世に語り継がれる棋譜を残したいという目的があるからこそ、一喜一憂することなく突き進んでいけるのです。
それが平常心を保つということではないでしょうか。
相手ではなく、ゴールだけを見る人は、急に儲けたり自分の名が売れてきたりすると、自信過剰になってしまうことがあります。平常心がかき乱されてしまうのでしょう。自分であって自分でない状態です。ただ、藤井の場合、どうやら本当に名誉欲はおろか物欲もありません。
だから10代の頃とまったく態度が変わらないのです。立ち居振る舞いも変わりません。 恥ずかしながら私の場合、当時は準タイトル戦の位置づけにあった、「朝日オープン将棋選手権」5番勝負(2001年度)では優勝賞金額(公表2000万円)に振り回されてしまいました。
「優勝したら賞金で何を買おうか……」などと勝った後のことが頭をよぎってしまい、これでは勝てるはずもありません。1勝3敗で敗れたのもある意味当然の結果でした。
藤井聡太は「歩みを止めないうさぎ」
違う意味で2020年の藤井との第33期竜王戦3組ランキング戦決勝は忘れられません。この決勝戦、藤井を目の前にして感じたのは彼の平常心です。
私は藤井に勝つことだけを考えていましたが、逆に藤井は私ではなく、目の前の盤面で 最善を尽くすことに終始していました。対局前から、きっとそうだろうとわかってはいましたが、至近距離で盤を挟んでそれがはっきり伝わりました。
「うさぎと亀」の寓話を知っている方も多いでしょう。
うさぎは競走相手である亀ばかりを見て、大差がついたことで、途中で寝てしまい、最終 的に競走に負けてしまいます。亀はゴールだけを見て、ゆっくりと進み続けます。相手を 意識するのではなく、何を目指しているのかを見ることが何よりも重要であることを教えてくれる寓話です。
藤井が対戦相手を意識しないのは、目指しているゴールが他にあるからなのです。たとえるなら、藤井は決して歩みを止めないうさぎです。
仕事、スポーツ、あらゆる場面において、勝負の場面があります。その時は、目の前の 相手を意識するよりも、その勝負を通過点として、最終的に目指したい目的は何か、一度考えてみてはいかがでしょうか。
(杉本 昌隆 : プロ棋士/八段)