秀吉が死去した伏見城(写真: megane / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は豊臣秀吉の死の直前の状況について解説する。

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甥の秀次が自害、秀吉が取った行動

文禄4年(1595)7月、豊臣秀吉は、関白職にあった甥の秀次を「謀反の疑いあり」として処断した。

高野山に赴いた秀次は、厳重な警備のもとにあったが、身の潔白を証明するために、自ら切腹した(7月15日)。8月2日、秀次の妻子ら数十名は、洛中引き回しのうえ、三条河原で斬首される。(過去記事:秀吉が後継者に切腹命令?「豊臣秀次の死」のナゾ 参照)

一方で、秀吉は諸大名に上洛を促し、我が子・拾(ひろい:後の秀頼)への忠誠と秀吉が定めた法を遵守する起請文(誓約書)を提出させている。徳川家康は関東から上洛、伏見にて秀吉と対面しているが(7月24日)、ほかの大名と同じく、起請文を提出している(毛利輝元・小早川隆景らと連名)。

起請文の第1条は、拾への忠誠。第2条は太閤様(秀吉)の法度を守ること。第3条は違反者の糾明。第4条は関東の政治対応は家康が、西国は毛利輝元と小早川隆景が行うこと。第5条は在京し、拾に奉公すること。万一、所用で国に帰るときは、家康と輝元が交互に帰ること。

家康と輝元らはこのようなことを誓約したのだ(家康が起請文に署判したのは8月2日)。

翌日には、家康・毛利輝元・小早川隆景・前田利家・宇喜多秀家らが「御掟」「御掟追加」に署名している。

「御掟」には、大名同士の婚姻は秀吉の許可を得ること、大名が誓紙を取り交わすことを禁じる、喧嘩口論の際は我慢したほうに理がある、無実を申し立てる者があれば双方を召し寄せ、糾明するといったことが定められていた。

そして「御掟追加」では、公家などに対し家道を嗜み公儀に奉公すること、寺社は法を守り学問・勤行に励むこと、覆面して歩くことの禁止などが記されている。これら掟は、大名だけでなく、公家・寺社など幅広い階層を対象としたものだった。

また家康らが署名した8月3日は、拾(秀頼)の誕生日(このとき、2歳)であり、これら掟の規定は、秀吉の新たな後継者・秀頼の来るべき治世をバックアップするものであった、と考えられる。

秀吉はふたたび朝鮮出兵を決意

さて、文禄5年(1596)9月1日、秀吉は大坂城にて、明国の使節と対面する。秀吉は明国から「日本国王」に冊封(爵位を授けられる)され、家康も「右都督」を授けられた。

しかし、後日、明の使節が朝鮮からの日本軍の撤退を求めたことに秀吉は激怒。和平交渉は決裂し、慶長2年(1597)2月、秀吉は再度の朝鮮出兵を命じる。いわゆる慶長の役である(第1次朝鮮出兵は文禄の役)。

明国は朝鮮を支援していたので、慶長の役の際も、明・朝鮮の連合軍と日本軍の戦となった。朝鮮側は文禄の役のときとは違い、防備を整えていたため、日本軍の快進撃というものはなく、持久戦を強いられていく。

その一方で、国内においては、秀吉は我が子・秀頼を後継にすべく、その立場を固めていた(慶長元年に拾から秀頼に改名)。

慶長2年(1597)9月に「従四位下左近衛権少将」に任じられ、慶長3年(1598)4月には「従二位権中納言」となったのも、秀頼の足場を固めるためであったのだろう。

秀吉は慶長3年の春より病身となり、病状は日に日に重くなっていった。死期を悟った秀吉は、諸大名に再び起請文を提出させる。それは、秀頼への奉公、法度の遵守、私的な遺恨の企てをしない、徒党を組まないこと、暇を得ず勝手に国へ帰らないことを求めるものであった(7月15日)。

8月5日、家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家に宛てて、秀吉は遺書をしたためた。

そこには「返す返す、秀頼のことを頼みます。五人衆に頼みます。秀頼が一人前になるまで支えてほしい。これ以外に思い残すことはない」と幼少の秀頼の行く末を案じ、家康らに秀頼を守り立てることを懇願したのである。

秀吉の遺言覚書は複数残されているが、別のものには「徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家は、秀吉の口頭での遺言を守り、互いに婚姻を結び、絆を強めること」「家康は3年間在京せよ。所用あるときは秀忠(家康の3男)を京に呼べ」「家康を伏見城の留守居の責任者とせよ。前田玄以・長束正家を筆頭にして、もう1人を伏見に置け」「秀頼が大坂城に入った後は、武家の妻子も大坂に移れ」との内容が記されている。


豊臣秀吉の墓(写真: Masa Kato / PIXTA)

家康に「3年間は京都(伏見城)にいよ」と命じたことは、秀吉は家康が関東に帰り勝手なことをするのを恐れたからだろう。豊臣家臣の前田玄以・長束正家は、伏見にて家康の監視を命じられたと言ってよい。

秀吉は家康に期待するところが大きい一方で、それと同じくらい自らの死後の家康の動きを恐れて不安に思っていたのかもしれない。

秀吉は62歳で病死

秀吉は慶長3年8月18日に病死する。病名は赤痢、尿毒症、脚気などさまざまな説があるが、詳しいことはわからない。貧しい境遇から一代で天下人へとのし上がった波瀾万丈な生涯を秀吉は閉じた。享年62だった。

『三河物語』には、秀吉政権下での家康の動向が簡潔に記されている。

「天正19年(1591)7月、関白(豊臣秀次)殿を大将として、奥州に戦があった。家康の本隊は岩手沢にあった。しばらくして奥州は平定された。関白殿は米沢に入り、家康も米沢にやってきた。

関白殿と帰国した。文禄元年(1592)、高麗(朝鮮)との戦で、太閤(秀吉)は出陣し、肥前名護屋に陣をおいた。家康も名護屋に赴く。軍勢は高麗国に出発。その後、関白殿が謀反を企てたということで、聚楽の城から追い出され、高野山に送られ、腹を切らせた。

その後、関白殿の女房らを大勢、三条河原に引き出して、首を刎ねた。首は一つの穴に入れられ、畜生塚と名を付けて、つき固められた」

そして、同書は秀吉の死をこう記す。

「太閤は慶長3年(1598)8月18日御年62で、朝の露のように亡くなられた。面々の者が寄り合い、秀頼を大事に守り立てた。なかでも内大臣家康は、太閤に頼まれていたので、とりわけ大事にされた」と。

(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)