水俣病の認定患者は熊本と鹿児島両県で約2300人。原因企業チッソは慰謝料や療養費を負担してきたが、認定に漏れた人たちによる訴訟が続いている(編集部撮影)

大阪など13府県に住む128人の原告全員を水俣病として、一人当たり275万円の賠償を国などに命じた9月27日の大阪地裁判決を受け、原因企業のチッソは10月4日、国は10月10日、控訴した。法廷闘争は続く。しかし、判決が突き付けた問題は重く、波紋は広がる。

大阪地裁判決のポイント

水俣病をめぐる補償・救済を振り返ると、国の制度により救済されなかった人たちが裁判に訴え、国、県、原因企業にとって厳しい司法判断が出るなか、2度にわたる「政治解決」が図られたものの、なお解決には程遠い状況が続いている。

公害健康被害補償法により県の認定審査会で水俣病と認定された人に対し1600万〜1800万円の慰謝料や療養費などが原因企業チッソの負担で支払われてきた。熊本、鹿児島両県の認定患者は約2300人。認定に漏れた人たちが訴訟を起こし、様々な形で国や県の責任を問うてきた。

1995年、自社さの村山富市政権による政治決着では、一時金約260万円や療養費などが支払われ、約1万2400人(療養費のみの人も含む)が対象となった。この政治決着に応じなかった人たちによる訴訟で、最高裁は2004年、国と県に対し規制権限の不行使の責任を認め、賠償を命じた。

これを受け、2度目の政治決着が図られた。議員立法により2009年、「水俣病特措法」(正式名称は水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法)が成立した。2012年7月末の申請期限までに約3万8000人に対し、一時金210万円や療養費などが支給された。


不知火海周辺の特措法対象地域(裁判資料からごん屋が作成)

9月27日に大阪地裁による勝訴判決を手にした原告は、特措法による救済措置に申請して「非該当」とされた人と申請期限までに申請できなかった人からなる。判決は原告全員が水俣病にかかっていると認定し、国やチッソに損害賠償金の支払いを命じた。

特措法は対象地域を定めている。判決は、その地域外に住む人でも魚をたくさん食べ、かつ、手足の先の感覚が鈍いなどの感覚障害があれば、魚介類に蓄積されたメチル水銀化合物に暴露されたことを認めた。

また時期についても、水俣湾に仕切り網を設け、不知火海を回遊する魚が汚染海域に入ってこないようにした1974年1月までは、不知火海一帯で採れた魚がメチル水銀化合物の汚染魚だった可能性があり、この時期に魚を多く食べた人は汚染物質に暴露したと考えた。

裁判では疫学の調査と研究が大きな役割を果たした。疫学とは、人の集団にみられる疾病の症状や発生原因を明らかにするもので、対照的な集団との比較を行い、調査分析を進める。


水俣港に設けられた仕切り網の位置(1977年10月1日現在、平成18年版環境白書から)

判決に影響を及ぼした研究者の分析と見解

「水俣病は魚介類に蓄積されたメチル水銀による食中毒症です」「認定審査を行う医師らが中毒症の診断方法を知らないために誤診を重ねて来た」。5日、オンラインでメディア向け説明を行った岡山大学大学院環境生命科学研究科の津田敏秀教授(65)は、こう断言した。

大阪地裁の判決は、意見書を提出した津田教授の分析と見解を重要視。判決要旨にも「相当高い信頼性が認められ、明らかな疫学的因果関係を示すといえる」「法的因果関係を判断する上で重要な基礎資料となるというべきである」と記述されている。

例えば「意見書2」では、地元の医師らにより2015年と2016年に不知火海沿岸最西端と最北地域で行われた調査結果を分析し、食べた魚に含まれていたメチル水銀が手足の先の感覚のまひ(感覚障害)をもたらした確率(原因確率)を算出。

津田教授は「不知火海で採れた魚介類を日常的に食べていた沿岸住民に手足末端の、あるいは全身の感覚障害があれば、魚介類を原因食品とするメチル水銀中毒症の症状とみなされる」と考察した。

かねて津田教授は、水俣病は国と県が食中毒事件として食品衛生法に基づいた措置を怠ったこと、さらに水俣病の認定審査を行う医師らが食中毒症としてのメチル水銀中毒症についての知識に欠け、多くのケースで保留や棄却をもたらしたことを問題視してきた。

水俣病の歴史をみると、水俣病患者公式確認の翌年の1957年7月、熊本県が食品衛生法による水俣湾魚介類の販売禁止措置の方針を固め、8月に厚生省にその可否を照会したところ、9月に厚生省が「食品衛生法は適用できない」と回答したことが知られている。

当時、水俣湾産の魚介類を食べないよう広く周知していれば、今ごろになってこれほどまで広い地域で感覚障害を持つ人が現れなかったのに、と思う人は多いだろう。しかし、問題はそれだけではなかった。

調査結果を無視した厚生省

津田教授によると、1956年11月の段階で、熊本大学の研究班は「病気は水俣湾の汚染魚を食べたことによる」との調査結果を発表した。また、厚生省の「昭和31年全国食中毒事件録」には「所謂(いわゆる)『水俣病』について」という項目があり「原因食品 水俣湾内産魚介類」と書かれている。

厚生省、熊本大学、熊本県などが調査研究を行うことになったとあり、当初の調査データも付されている。こうした調査結果が無視され、その後も調査が行われなかったことが、今日の混乱を生んでいる、と津田教授は見る。

また厚生省が県に対して「水俣湾内の魚介類すべてが有毒化している訳ではないので、食品衛生法の適用はできない」と回答した点について、津田教授は「食中毒事件の実務をみる限り、原因食品がすべて汚染されていることが証明されてから、食品衛生法に基づく措置を実施する、ということはありえない」と問題視する。


1957年1月の学会誌に掲載された熊本大学の研究者らによる論文。水俣地方で発生した中枢神経系疾患について「共通原因としては汚染された港湾生棲の魚貝類が考えられる」とした(撮影:河野博子)

その上で「実際はそんな証明を求める前に、営業停止や回収命令を出している。また原因食品すべてが汚染されていなかったことは、食品衛生法に基づく対策が取られた森永ヒ素ミルク中毒事件でも証明されている」と指摘する。

熊本、鹿児島両県の認定審査会では、感覚障害、運動失調、平衡機能障害、視野狭窄などの症状の組み合わせがあるかどうかを診る。しかし、津田教授は「中毒症の診断は、原因食品を食べたかという暴露歴とそれによってもたらされる症状が一つでもあるかどうか、が基本」と話す。食中毒の実務に詳しい保健所職員から「水俣病をめぐる議論は、下痢のみの食中毒患者はいないとか、嘔吐のみの患者は食中毒患者ではない、と言っているのと同じで、おかしい」と指摘されたこともあるという。

大阪地裁判決を受けてくすぶる論争

環境省で水俣病を担当する環境保健部を所管する大森恵子・政策立案総括審議官から、大阪地裁判決についての受け止めを聞いた。控訴を決める前だったからか、大森審議官は判決批判というよりはソフトな語り口で、こう反論した。

「基本的に疫学的判断と、個別の人が水俣の(チッソによる排水と病気との)因果関係があるかとは別だよ、と判決でもおっしゃっているんですけど、全体としてはこのエリアで、感覚障害が高めに出ていて、それは汚染された魚を食べたせいなので、やはりそれはそこに住んでいる人はみなさん、水俣病であるという因果関係が認められるんじゃないか、というトーンで判決を書かれている」

また、判決が低濃度の水銀による長期暴露や、魚を食べて数十年後に出た感覚障害も水俣病であるとする遅発性の症状を水俣病と認めている点についても、大森審議官は「医学とは違う見解を採用されている」「科学の考え方とは違う」と繰り返した。

ところが、何をもって科学、医学的に正しいとするか、をめぐっては、論争があるところだ。特に、疫学的に因果関係が証明されることと、個別的な因果関係(個別の患者の症状が原因企業による水銀汚染によるものかどうか)の証明とは別である、との見方が主流になっており、国や県はそうした立場に立っている。世界の自然科学や確率論の流れから、これに対する反論もある。

一方、大阪地裁判決には、原告の主張を認めていない面もある。国と県は食品衛生法に基づき、水俣湾の魚介類の販売を禁止するべきだった、という原告の主張は斥けられた。国と県は食品衛生法に基づき、健康調査を行うべきであった、という原告の主張についても「調査の不実施が国家賠償を行うほどの違法行為であるとはいえない」とした。

裁判の行方にかかわらず残された課題

行政が線引きを行い、補償を受けられる人を決める、線引きから漏れた人が訴訟を起こす、司法判断により国のやり方が批判される、政治決着が図られる、そこからこぼれた人がまた訴訟を提起する・・・・・・という悪循環。

裁判は今後も続くが、国や県はどうするべきなのか。水俣市在住の詩人、元水俣市職員の坂本直充(なおみつ)さん(68)に聞いた。


水俣病資料館の「伝え手」として語り続ける坂本直充さん(撮影:河野博子、水俣病資料館ホームページ上のビデオ画面)

坂本さんは2011年から2年間、水俣市立水俣病資料館長を務め、5年前から同資料館で水俣病患者やその家族が体験を話す「語り部」を補完する「伝え手」を務める。体が不自由。「小さい時は歩けず、這いまわっていた。脳性マヒと診断され、言語障害があり、体が思うように動かず、硬直もあった。訓練で少しずつ、歩けるようになった」という。

熊本県内の全小学校の児童は、資料館を訪れ、語り部や伝え手の話を聞く。坂本さんは子供たちから「水俣病ですか」と聞かれるたびに、「父がチッソの工場で働いていたので、水俣病の検診を受けづらかった」と答えてきた。実は「自分は胎児性水俣病ではないか」という思いを抱え続けてきたし、今も心にその思いを持っているという。

水俣の漁港近くで生まれ育ち、母親は魚をたくさん食べていた。中学生の時、学校の先生から「水俣病の健診を受けませんか」と言われたが、受けなかった。「水俣病とはどういうことか、中、高校生のころはその現実を知らずにいた」と坂本さんは振り返る。水俣病は当初、伝染病、奇病と呼ばれ、偏見が残っていた。重症に見えない患者さんの症状への無理解から、「金欲しさ」との陰口も聞かれた。

大阪地裁の判決が出た訴訟は、熊本、大阪、新潟、東京で起こした集団訴訟「ノーモア・ミナマタ第2次訴訟」の一つ。次は、来年3月に熊本地裁で判決が言い渡される。大阪地裁判決を受けた控訴審も進み、法廷での争いは続く。

恒久的な対策で不安をカバーできないか

坂本さんはこう考える。「特措法による救済が行われたが、家族に何等かの影響を及ぼすのではないか、とかいろいろなことを考えて、申請期限までに手をあげきれなかった人もいるのではと思うんですよね。今回の判決を受けた原告のなかには特措法の対象地域外の人たちがいて、判決で賠償が認められたわけでしょう。症状を自覚している人が一定の割合でいらっしゃる。高齢化してくると、そのへんが不安材料になっていく。時限的な立法ではなく恒久的な対策により、そうした不安をカバーできないか」。

「国や県が初期対応をきちっとやっていたら、ここまで被害が拡大することもなかった」(坂本さん)と、誰もが思う。それでも政治や行政は、公式確認から67年を経た今も未解決の状態が続いているという現実に向き合う必要がある。

なぜか。坂本さんは言葉を絞り出した。「水俣病は人が引き起こした事件ですから、人によって解決し、教訓として生かすということをやっていかなければならない」。


(河野 博子 : ジャーナリスト)