戦国時代で最も優れた戦術家は誰か。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「それは毛利元就だろう。元就は圧倒的に兵力差のある戦闘にも勝ち続けた。一方、天下統一を果たした徳川家康にはそうした華々しい戦績はなく、戦術面では平凡な武将だった」という――。(第2回)

※本稿は、本郷和人『徳川家康という人』(河出新書)の一部を再編集したものです。

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■2度と博打的な戦をしなかった織田信長

基本的に戦いは、兵力が多いほうが勝つ。この原則を踏まえた上で、優秀な兵器をそろえて、そしてしっかりとご飯を食べさせる。そうして戦っていくわけです。

だから戦国大名たちも富国強兵を進めて領民を増やし、商業を振興した。そうして兵を増やし、金を儲けて優秀な武器を購入する。またしっかりと食糧を整えて戦いにのぞむ。そうしたことができる人が優秀な戦国大名であって、三国志の諸葛孔明(181―234)のような、奇策を繰り出して勝つ人ではないのです。

その原則がもっとも明らかに発揮されるのは、やはり織田信長ですね。信長は桶狭間で一か八かの勝負に出て勝ったといわれます。しかし彼の優れた武将であるところは、2度とそうした賭博的な戦術には出ていない。

■不利な状況でこそ大将の器が試される

戦国時代では、こちらが有利なときばかり敵が攻めてくるわけではない。ときとしてこちらの兵力が少なくとも一か八かで戦わなきゃいけない状況があるわけです。むしろこちらの不利を狙って敵も攻めてくるわけですから、「これは俺、勝てるのかな?」と思っていても戦わないといけない状況はある。

たとえば現代のプロ野球で、コロナの感染者が出て「レギュラーメンバーが5人しかいない」という、ふつうだったら負けるような不利な状況でも、試合をしなければならないときはあるわけです。

そうしたとき、大将としては、内心で「俺はこの戦いで生き残ることができるのかな。難しいな」と思っていても、それをポロっと兵たちに漏らしてはいけないのでしょうね。

たとえ顔が引きつっていても「絶対勝つぞ!」と兵を鼓舞しなければならない。

それで戦術面で頑張りを見せて不利をひっくり返し、小が大に勝ってしまったという戦いも歴史の中にはたしかにあります。

■ジャイアント・キリング=戦術面での名将

ジャイアント・キリングを達成した戦績、不利を覆して勝ったという勲章を持っている人が、戦術面での名将といわれるのでしょう。

戦国時代には、そうした名将が何人かいるわけです。

たとえば信長は、まさに「桶狭間の戦い」で、兵数の差をくつがえして勝利したとされる。ただ私は「桶狭間」の実態はまだまだわからない。もう少し考えなければならないと見ているのですが、少なくとも信長はこの戦いで不利を覆して勝った。

■1対10の逆境をはねのけた北条氏康

また小田原北条家の3代目、北条氏康(1515―1571)は、「河越夜戦」と呼ばれる戦闘で勝利しています。

北条氏康(画像=小田原城天守閣所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

河越城という武蔵国で主要な城がありました。「この城をとるか、とらないか」が「武蔵を支配するか、しないか」に直結するくらい、当時、武蔵国の中心はこの河越城ということになっていました。

北条氏はその河越城を抑えていたのですが、そこを上杉の兵が包囲する。当時、上杉は本家の山内上杉。そして分家の扇谷上杉とふたつの家があったのですが、それらが力をあわせて包囲します。

北条氏康自身はこのとき、沼津のほうで今川義元と戦っていた。のちに北条と今川は、さらに武田を加えて三国同盟を結びますが、今川義元が家督を継いだ時点では、まだすごく仲が悪かった。両者は駿東地方という、今でいえば三島から沼津のあたりの領有をめぐって戦っていたのですが、そうするうちに河越城を囲まれてしまったわけです。

その知らせを聞いた北条氏康は、急いで今川義元との間に停戦協定を結ぶ。そして急いで河越に帰ってくる。少数の兵しかいない河越城を守っていたのは、「地黄(じき)八幡」といって黄色い甲冑(かっちゅう)で身を固めていたという北条綱成(1515―1587)。

どこまで本当かわかりませんが、北条家でも特に強い武将として伝説が残っている人で、この綱成が城を守っていた。

しかし兵力差でいうとそれこそ1対10くらいの状況で、いつ陥落しても不思議はない。

急いで戻った氏康は、城内の綱成と連絡をとっていっせいに夜襲をかけた。それで河越城を包囲していた上杉は完全に打ち破られてしまいます。扇谷上杉の当主だった上杉朝定(1525―1546)は戦死し、扇谷上杉はここで滅亡する。

いっぽうの北条氏康は河越城の救出に成功し、このあと北条氏の武蔵支配は確固たるものになる。この戦争を制した北条氏は、戦国大名として高く評価されるようになります。

■「西の桶狭間」で名を上げた武将

そして「兵数差をひっくり返して勝利した人」というと、なんといっても毛利元就(1497―1571)の名が挙げられます。この人にはどちらかというと、戦場の勇者というよりも「陰謀をたくらんで頭脳で勝利するタイプ」のイメージがあるかもしれません。

毛利元就(写真=毛利博物館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

しかし戦争マニアというわけではないのでしょうが、元就は意外と「戦闘の名手」という面があるのです。

彼のデビュー戦は「有田中井手(ありたなかいで)の戦い」(1517)。この戦いは「西の桶狭間」と呼ばれることもありますが、桶狭間のようには有名ではありません。

現在でいえば広島県の西半分にあたる安芸国には、守護大名の武田元繁(1467―1517)という人がいました。この武田は甲斐の武田の分家にあたりますが、そこの元繁が自分の地位を固めるために兵を募って、吉川や毛利を攻めはじめた。

そのときの軍勢は5000といわれています。その武田に元就は、毛利の全軍を挙げて立ち向かう。

当時の彼はまだ毛利の当主ではない。毛利本家の家督を継いだ子どもの「後見人」として、兵を率いる立場にありました。といっても毛利はもともと小さいですから、動員できるのはせいぜい1000ほどの兵。それに吉川を合わせて総勢1200ほどの状況でした。

「5000対1200であれば、絶対5000が勝つ」と思いますが、「有田中井手の戦い」では毛利元就が勝つ。このときに彼がどんな工夫をしたのか、正直わかっていません。

わからないのですが、とにかくみんなで必死に力を合わせて戦って、武田元繁の首をあげてしまった。謀略家のイメージがありますが、元就はここで「やってやろうじゃんか!」と、非常にヤンキー気質の戦いを繰り広げて勝利しました。

■戦国時代でもっとも優秀な戦術家

また当時の中国地方は、目立つほどの武士は山陰の尼子か、山口県の大内か、どちらかの勢力につかざるを得ない状況でした。

毛利家は尼子サイドについたこともあり大内サイドについたこともありますが、最終的には大内を選択する。

そうすると、尼子の大軍が毛利の吉田郡山城を囲むことになるわけです。このときも兵力差がものすごくあったのですが、それでも元就は尼子の大軍に立ち向かって一歩も引かずに城を守り抜く。

そうしているうちに大内から陶(すえ)隆房(たかふさ)(1521―1555)が救援に来て、なんとかドローに持ち込んだ。この陶隆房はのちにクーデターを起こし、主人の大内義隆(1507―1551)を滅ぼしてしまう。それで陶晴賢(はるかた)を名乗るようになりますが、陶晴賢と元就は戦いを重ねることになります。

対陶戦でも元就の手際は光り、3回目に陶晴賢と戦った「厳島の戦い」では、このときも兵力差が相当にあったにもかかわらず元就が勝つ。

それで最終的に覇者となったわけですね。

私は、戦術面でいえば、戦国時代でもっとも優秀な戦術家はこの毛利元就かもしれないと思っています。

彼の場合でいえば3度も、圧倒的に兵力差のある戦いを制するか、持ちこたえるかした戦績を持っている。こうした戦績なり勲章なりを持っている人が、軍事的に優れた武将と見られるのでしょう。

■なぜ家康は馬術を好んだか

では家康にそうした戦績、勲章はあるかと考えてみると、ないのですね。

キラリと光るものが家康にはまったくない。秀吉は城攻めが得意とされます。だから彼については「城攻めの秀吉」と評されたりします。いっぽうの家康は野戦が得意とされて、だから「野戦の家康」と呼ばれるのですが、しかしどうもこれが怪しい。

よく見ていくと首をかしげたくなるのです。

家康は実は案外、剣が上手、剣の達人だったという話があって、なかなか腕前がよかった。

それから彼が亡くなるまで一生の楽しみにしていたのが鷹狩り。鷹狩りで体力をつけるという、現代でいえばスポーツの概念が、彼にはあったのですね。

そこらへんまではいいのですが、家康は馬術の練習もとても大切にしていました。なんで熱心に乗馬をやっていたかというと、戦場で瀕死の重傷を負ったときに、愛馬と心を通わせていると、馬が「ご主人様が危ない」と察知して自発的に逃げてくれるのだそうです。

要するに乗馬の技術を磨いておくと、いざ戦いに負けたときに効力があって「ふつうなら討ち取られるところを逃げられる」という大きなメリットがあった。

だから家康は日ごろから乗馬を好んだそうです。

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■すべては自分が逃げるため

もうひとつ、これも家康が死ぬまで鍛錬していたのが水泳です。歳をとっても欠かさず水泳の訓練を行っていた。なんで水泳かというと、これもやはり逃げるため。

本郷和人『徳川家康という人』(河出新書)

戦いに負けて自分ひとりで逃げるとき、川を渡ることができるかどうかが生死をわかつ。水泳ができないと逃げきれない可能性も高くなるわけです。だからともかく水泳をやった。

つまり馬術も水泳も、すべて逃げることを前提にして訓練しているのですね。信長だったら「逃げるくらいであれば腹を切る。是非もなし」などといいそうですし、秀吉でも「前もって逃げることを考えるくらいならば、勝つ方法を考える」とかいいそうです。

ところが家康は逃げることをしっかり考えていた。そんなところに創意工夫があるというのは、天下を取る人としてはちょっと情けない気もしますが、ともかく家康の軍事は実に平凡。逆にいうと非常に手堅いのです。

■平凡な男が最後に勝った

家康が巧みな作戦を立てて、源義経のように華々しく戦に勝利したという事例は浮かぶでしょうか? やはり、彼の戦はそんなに華々しくはない。

だって江戸時代になってとにかくみんなに褒められて持ち上げられる時代になっても、家康の戦ぶりはそんなに持ち上げられていません。ということは、やっぱり平凡だったのかなと思います。

しかし手堅く平凡であるというのが一番大事。「平凡が最終的に彼を勝利者にした」ということだと思います。

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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所 教授
1960年、東京都生まれ。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本史料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。
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東京大学史料編纂所 教授 本郷 和人)