あの渋沢栄一をして「無学の偉人」と言わしめた、三井財閥中興の祖・三野村利左衛門とは?

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「あのくらい学問もしないで、制度について不思議な才能を持っているひとはいない。そしてそれを説明するときに丸をいくつも書く。三野村のまるまると言ったら有名なものだった」

 

渋沢栄一は三野村利左衛門に対し、このように評価をしていました。渋沢栄一からその手腕を認められるほどの経済人・三野村利左衛門が、幕末明治の過渡期に日本に多大な功績を残したことは、意外にもあまり知られていません。

しかし、元は一介の浪人に過ぎなかった彼が、いかにして日本の要人となったのかを見ることによって、当時の時代背景が詳細に見えてきます。

文政4年(1821)、三野村利左衛門は庄内藩士・関口松五郎の次男として鶴岡で生まれました。松五郎は藩主の家中・木村家に養子に出されますが、文政10年に出奔…利左衛門は浪人となった父と共に諸国を流浪することになります。

このように利左衛門の前半生は、明確な記録が残っておらず、恐らく、苦しい時期を過ごしたと想像できます。

利左衛門が江戸へ

そんな利左衛門が江戸へ出てくるのは天保10年(1839)。旗本・小栗上野介忠順に中間として仕えました。小栗家では、利左衛門の働きぶりはとても真面目であったようで、その評判は近所の人にも知られるほどであったと言います。そして、小栗邸の前で油や砂糖の商売を営んでいる紀ノ国屋の美野川利八から、利左衛門を婿養子としてほしいという話がきました。

弘化2年(1845)、利八の娘・かなの婿となった三野村利左衛門は紀ノ国屋を継ぎ、当主として一家を背負っていきます。紀ノ国屋はそれほど大きい店ではなく、妻・かなが作った金平糖を25歳の若い利左衛門が行商するというスタイルの商売でした。

利左衛門にとっては巨利を得るようなビジネスではありませんでした。しかし、ここで行商を重ねたことで市井との協力なネットワークを作ることができたのは、後の利左衛門に大きな力となりました。

東都名所 駿河町之図 Wikipediaより

 

紀ノ国屋で地道に資金を積み立てると、安政2年(1855)、利左衛門は小石川伝通院前の両替商・伊勢谷の株を買い、両替商に転じました。転職したばかりの利左衛門は、当初、商売のイロハを学ぶために同じ両替商で大店の三井家に出入りすると、程なく三井家の番頭たちに可愛がられるようになります。

「三井御用所」の責任者に

利左衛門は生来、大変人好きな性格で、機転もよく効き、行商時代に培ったネットワークを利用して、三井家に様々な情報をもたらすと、その功績が評価され大番頭に抜擢されました。現代風に置き換えると、大企業にアルバイトで入った者が成績を挙げ、重役に就任するくらいの大出世と言えるでしょう。

利左衛門のバイタリティーと鋭い機転は、苦しい流浪の日々を送った頃に養われたのではないかと考えられます。明日の自分がどのようになっているのか定かではないギリギリの状況の中で生き抜いてきたことで、利左衛門のセンスが磨かれていったのだと思われます。

当時の三井家は幕府との強いパイプがあり、それ故に幕府御用金を献金しなければならず、その額は150万両にも上りました。そこで、三井家は勘定奉行・小栗上野介忠順との伝手があり、かつ機転の利く三野村利左衛門を減免交渉役とすると、交渉の末、御用金を当初の1/3程度の50万両まで減額させることに成功します。

この交渉の背景には、幕府が大店から御用金を搾取することで弱らせるより、育成させることで幕府財政の支えとする思惑があったものだと考えられます。この功績により、三野村利左衛門は幕府御用金の一切を取り仕切る「三井御用所」の責任者となりました。

小栗忠順 肖像画

そして、慶應4年(1868)、小栗上野介忠順が罷免されるのを見た利左衛門は時代の機運を察し、幕府から新政府へ方向転換するよう、三井家に働きかけました。

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もし、ここで三井家が別の選択をしていたら、後の三井グループはどのようになっていたか定かではありません。

利左衛門が大局を見ることにおいて非凡なものを持っていたことが、結果、日本に大きな財産を生むことになったのは言うまでもないでしょう。

時は明治に移り、三野村利左衛門は「銀行」という、これまでの日本にはなかった大事業に尽力します。明治新政府の金融政策を支えていた三井組は利左衛門の指揮のもと、三井組独自で運営する銀行の設立を目指します。

第一国立銀行 Wikipediaより

小野組との合資による第一国立銀行の設立を経て、後に小野組が倒産したのを機に、利左衛門は三井組による「三井銀行」設立を達成させます。

この三井銀行が誕生する背景は、第一国立銀行が発足した直後、世界的な金融高騰のあおりを受け、兌換要求が殺到。まだ日本の銀行が発行する「紙幣」という紙に信用がなかったのでしょう。これに銀行側は対処することができず、小野組は力尽き倒産します。

逆に、利左衛門はこれをチャンスと見ると、政府に働きかけ急場を凌ぐと、第一国立銀行の実質的な支配者となりました。しかし、この時の大蔵省官僚であった渋沢栄一は、合同出資としての銀行を目指していたため、「銀行は三井の銀行にあらず」と激怒したと言います。

ちなみに、「バンク」を「銀行」と訳するにあたって、三野村利左衛門と渋沢栄一との間で議論がなされました。文字はひらがなしか読めなかった利左衛門は、バンクを訳すのに、アメリカの銀行条例の翻訳作業をしていた渋沢栄一に相談したと言います。江戸時代までバンクと似た業務を行う職業として両替商がありましたが、バンクの扱う業務は他に兌換紙幣の発行、為替の取り扱い、債権や出資の引き受け、預金まで幅広く対応していました。

そこで、アメリカの銀行法を勉強していた渋沢栄一は「バンク」を意味する適切な言葉として、中国の古典を元に、「外国との交易を行う会社」を意味する「洋行」から「行」の字のみを取り、それに「金」を加え「金行」ではどうかと提案しました。

これはバンクが扱う兌換紙幣は紙と金を交換するものであることが根拠となっていますが、利左衛門は紙幣で交換できるのは金だけでなく銀も交換できると指摘したところ、渋沢は悩んだあげく「銀行」という造語を作ったと言います。

利左衛門の功績は銀行創設に始まり、呉服業の分離、三井物産の創設、明治政府への資金援助等、多岐にわたる活躍をしましたが、明治10年(1877)、三井銀行開業式典に出席することなく、この世を去ります。

元は浪人であった者がその才覚と人柄でのし上がり、後の三井財閥の礎を築くための功労者となったのは、まさに幕末明治維新という時代の転換期が生んだ偉人であることを表しているのではないでしょうか。