眼帯キャラは創作?戦国時代に「独眼竜」とは呼ばれていなかった伊達政宗

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東北地方を代表する戦国大名と言えば、伊達政宗(だて まさむね)を挙げる方が少なくないと思います。

「あと十年早く生まれていれば、天下が奪れた」と評された活躍ぶりもさることながら、ことさら人目を惹くのが「独眼竜(どくがんりゅう)」の二つ名の元になった隻眼(せきがん。片目)。

失明した右目に眼帯代わりの鍔(つば)を当てたビジュアルが人々に強烈なインパクトを与えましたが、どうやら政宗が眼帯を使用していたことを示す史料は見当たらず、また「独眼竜」という二つ名も後世につけられたそうです。

今回は、そんな政宗の右目事情について紹介したいと思います。

政宗=眼帯のイメージは昭和初期から

通説では、政宗(幼名:梵天丸)は幼少時に患った天然痘の後遺症で右目を失明。コンプレックスでいじけていたところへ、近習の片倉小十郎(かたくら こじゅうろう)から「いっそ抉(えぐ)ってしまえ」と渡された脇差で右目玉を抉り出します。

これでスッキリした政宗は、脇差の鍔を眼帯代わりにつけて元気を取り戻し、英雄的な活躍を見せた……となっていますが、昭和四十九1974年に政宗の墓を発掘、その遺体を調査したところ、右目玉は眼窩に残っていたそうです。

つまり失明したのは事実ですが、目玉は摘出しておらず、また史料や肖像画(※)を見ても眼帯を使用していた様子はなく、後世の創作であることが判ります。

右目が白濁した政宗の肖像。土佐光貞「伊達政宗肖像」東福寺蔵

(※)政宗の生前は、本人の希望で右目も健常に描いたものが多く、また数少ない右目が白濁(失明)したものでも、眼帯はつけていません。

ちなみに、政宗に鍔の眼帯をつけさせたのは昭和十七1942年の映画『獨眼龍政宗』が始まりだそうで、それから「政宗=眼帯」のイメージが定着していきました。

最近では時代考証を重視して右目を覆わない作品もあるようですが、トレードマークがないと「誰だか判りにくい」ということで、包帯を右目に巻いて政宗と示す例(大河ドラマ『真田丸』など)もあるようです。

独眼竜の元祖は五代十国時代の英雄・李克用

また「独眼竜」という言葉自体は戦国時代以前からあったものの、それを政宗に当てはめたのは幕末期に活躍した儒学者・頼山陽(らい さんよう)と言われています。

横槊英風独此公
肉生髀裏斂軍鋒
中原若未収雲雨
河北渾帰独眼龍
※『山陽遺稿』収録「詠史絶句」天保十二1841年より。

【意訳】
槊(ほこ)を静かに横たえ、英雄のオーラを湛える彼は
内腿に贅肉をつける余裕で、戦を収めてしまった
もしも秀吉が天下を統一していなければ
東北地方(白河関=福島県の入り口より北)はすべて独眼竜(政宗)のものになっていただろう

伊達政宗の雄姿。Wikipediaより。

これも「あと十年早く生まれていれば、政宗が天下を奪れたかも(少なくとも東北地方は統一できただろう)」というヨイショの一環ですが、「政宗=独眼竜」の結びつきについては、これが初出と言われています。

ちなみに元祖「独眼竜」は、五代十国時代(10世紀)に後唐(こうとう。古代中国大陸のテュルク系王朝)を興した隻眼の英雄・李克用(り こくよう)につけられた二つ名でした。

終わりに

以上、伊達政宗について「目玉は抉っていなかった」「眼帯はしていなかった」「生前『独眼竜』とは呼ばれていなかった」という話を紹介してきました。

しかし、これらのことをもって政宗の功績が損なわれることはいささかもありませんし、これからも東北の誇る偉人の一人として、これからも人々に慕われ、伝えられていくことでしょう。

※参考:
伊藤靄谿 註『頼山陽詩集 山陽詩鈔新釈・山陽遺稿詩注釈』書藝界、1985年
日本史の謎検証委員会 編『最新研究でここまでわかった 戦国時代 通説のウソ』彩図社、2018年11月