2010年、TBSテレビの特別番組『スポーツ人間交差点〜光と影〜』で再会した有森裕子(右)と松野明美(左)。『マラソン グランド チャンピオンシップ〜東京五輪代表を懸けた運命の決戦へ』はTBSテレビ系列全国ネットで9月11日(水)よる8時〜10時に放送(写真:TBSテレビ)

これまで、マラソン日本代表選考の歴史は騒動の連続だった。選手や関係者の人生をも翻弄する代表選考。そんな日本マラソン界のタブーに切り込む壮絶ドキュメント『マラソングランドチャンピオンシップ〜東京五輪代表を懸けた運命の決戦へ』がTBSテレビ系列全国ネットで9月11日(水)よる8時〜10時に放送される。本記事では過去の放送番組をもとに因縁の代表選考を振り返る。

1992年バルセロナ五輪、女子マラソンで日本人初の銀メダルを獲得。1996年アトランタ五輪でも銅メダルを獲得した有森裕子(ありもり・ゆうこ)。輝かしい成績を残した一方で、実はバルセロナ五輪の代表選考を巡り、ある大騒動が起きていた。目標にしてきた五輪出場が決定したにもかかわらず、有森が手放しに喜べなかった理由とは……。

有森裕子と松野明美の出会い

「見返してやりたかったというか。それが自分を奮いたたせる力になっていました」

有森裕子は、そう強く言い放った。その相手とは誰だったのか。実は有森は、学生時代は有名なランナーではなかった。高校1年から大学4年までの7年間、陸上部に所属するも補欠の日々が続いた。その後は実業団で競技を続けたが、目立った結果を残すことができずにいた。


ニューヒロインとして登場した松野明美。『マラソングランドチャンピオンシップ〜東京五輪代表を懸けた運命の決戦へ』はTBSテレビ系列全国ネットで9月11日(水)よる8時〜10時に放送(写真:TBSテレビ)

有森の努力が開花するよりも前、1987年のことだ。女子陸上界に突如として19歳のヒロインが登場した。その名は、松野明美(まつの・あけみ)。

松野は同年10月に沖縄国体5000メートルで優勝を果たすと、翌年には兵庫リレーカーニバル10000メートルで優勝、日本陸上競技選手権大会10000メートルでも優勝と、快進撃を続けた。1988年に開催されたソウル五輪には10000メートルの代表として出場。32分19秒57の好タイムで、日本新記録を樹立した。

ふたりの出会いは、1989年10月の熊本での合同合宿のことだった。有森が22歳、松野が21歳のときだ。スター選手だった松野はみんなの憧れの的だったが、実績がない有森はエリートランナーへの反骨心をむき出しにしていたという。

有森の反骨心を見抜いたのは、故・小出義雄(こいで・よしお)監督。有森の才能を引き出した名将はこう語っていた。

「物事は全部真剣勝負なんですよ。自分のできることをギリギリまでやる。見栄とかそんなものは何もない」

有森の努力がようやく花開いたのは、1991年1月27日、大阪国際女子マラソンでのことだった。2位でゴールした有森のタイムは、2時間28分01秒。なんと、当時の日本最高記録だった。有森は一躍、日本陸上界期待の星となった。


日本陸上界期待の星となった有森裕子。『マラソングランドチャンピオンシップ〜東京五輪代表を懸けた運命の決戦へ』はTBSテレビ系列全国ネットで9月11日(水)よる8時〜10時に放送(写真:TBSテレビ)

大阪国際女子マラソンから1週間後の2月、沖縄の合同合宿で有森と松野は再び顔を合わせた。1年前の熊本での合同合宿とは、状況が大きく変わっていた。

他の選手たちの憧れの対象は、松野から有森へと移っていたのだ。

ふたりの間に火花が散り始めたのは、このころからだった。

バルセロナ五輪を巡る壮絶な争い

「彼女(松野)は、マラソンを走れば自分のほうが絶対に強いという自信を持っていたような気がするんです。あのとき、私は彼女と一緒に練習していないんです。避けられていました……」

合同合宿中、体調がすぐれずに軽めのメニューをこなす有森を目にした松野は、こう感じたという。

「あれだけしか練習していない有森さんが、なんでこんな結果を出せるんだろう、どこで練習しているんだろう、という思いがでてきて。なんかずるいなと感じてしまいました」

立場が変わりつつあったふたりの目標は、半年後の世界陸上東京大会。松野は10000メートルでの出場が濃厚だと考えられていたが、松野自身はマラソンへの転向を考えていた。

「10000メートルでは3年間くらい、日本人に負けたことがなかったんです。その自信もありましたし、フルマラソンでは小柄な体格を生かすことができると。練習量では世界一という自信があったんです」

松野は、岡田正裕(おかだ・まさひろ)監督にマラソンでの出場を打診した。しかし、岡田監督は「10000メートルで挑戦してくれ」と反対し、松野は断念せざるをえなかった。

「陸連(日本陸上競技連盟)から、『待ってくれ』と言われました。東京開催の世界選手権の成功、不成功のカギは、『グラウンドにどれだけ人を集めるか』だと。松野が10000メートルを走ることによって、人が集まる可能性が出てくると」

それぞれの思惑が交錯する中、1991年8月25日、世界陸上東京大会女子マラソンが行われた。このレースは1年後に迫ったバルセロナ五輪の代表選考も兼ねていた。気温25度を超える過酷なレースとなった。日本人1位、総合2位でゴールしたのは、山下佐知子(やました・さちこ)。有森は4位でのゴールを果たし、日本陸上競技連盟から高評価を受けた。

故障上がりだった松野は10000メートルでよもやの予選敗退。その後、翌9月に松野はマラソンへの転向を決断した。「やっと走れる。絶対五輪に出る」と意気込む一方で、世界陸上で不本意な結果に終わった、やりきれない思いの矛先は有森に向けられることになった。

「なんでいいところばかり持っていくの……という悔しさがありました。悪いことだとは思いつつも、だんだん憎しみみたいなものに変わってしまうんですよね」

世界陸上2位の山下はバルセロナ五輪内定。残る2つの代表枠を争う選考レースは、1991年11月の東京、1992年1月の大阪、3月の名古屋を残すのみとなり、松野の有森へのライバル心はさらに加速していく。


有森と松野の代表争いは激しさを増していった。『マラソングランドチャンピオンシップ〜東京五輪代表を懸けた運命の決戦へ』はTBSテレビ系列全国ネットで9月11日(水)よる8時〜10時に放送(写真:TBSテレビ)

松野が選考レースに選んだのは、1月の大阪国際女子マラソンだった。くしくも、1年前に有森が日本最高記録を出した大会だった。

「あの人(有森)には負けない。苦しみはこのレースで出しきろうという覚悟がありました」

有森も大阪国際女子マラソンへの出場を考えていた。しかし、前年10月の合宿中に故障。欠場を余儀なくされた。

1992年1月26日、大阪国際女子マラソン。有森が欠場したこの大会で、松野は驚異的な走りを見せる。しかし、五輪出場を当確にしたのは、誰も予想していない別の選手だった。

「25キロメートル地点で集団のペースがアップしたんです。でも私は自重して。終盤にペースアップするイメージを描いていましたから、ひとりずつ追い抜きました。ただ、前にもうひとりいるんですね。縮まるはずの距離がなかなか縮まらない。『あの選手は誰?』と思いました」

小鴨の登場で有森と松野の争いはさらに熾烈に

集団を引き離した松野は2位でゴール。1年前の有森を59秒上回る、2時間27分02秒の記録を出した。松野が追いつけなった相手は、小鴨由水(こかも・ゆみ)。当時まったく無名の存在ながら、2時間26分26秒の日本記録を打ち出したのだ。小鴨が代表有力になったことで、残る1枠を巡る有森と松野の争いは、さらに熾烈を極めることになった。

レースを見ていた有森はショックを受けたと語る。

「よりによって、2人に記録を破られましたからね。(松野は)絶対強いという自信をすごく持っていたのは知っていましたし、そのとおりの力を出したから、完敗でしたね」

しかし、有森が悲観的になることはなかった。当時の日記には次のように生々しく記している。

<絶対、あきらめるわけにはいかない。小鴨を落してでも、松野を落してでも、私は必ず五輪に行く。今はとにかくこの左足を治す>

有森は3月の名古屋国際女子マラソンの出場に向けて、準備を進めていた。しかし、小出監督は出場を見送るよう、有森に伝えたのだ。

「僕は名古屋で走らせちゃったら、もう五輪出場はないって思ったから。走らないほうがいい。(五輪までのレース)間隔の問題もあるし。もし欠点をうんと見せてしまったら、もう選ばれないなと」

小出監督の助言を受けて、有森は名古屋国際女子マラソンの出場を見送った。その大会では日本人選手が優勝したものの、突出したタイムが出ずに、内定とはならなかった。これで残り1枠は有森と松野に絞られた。世間のムードはタイムで上回る松野が優勢。それは有森の耳にも届いていた。

松野も自分が選考されると確信していた。

「たまたま見た新聞で、『有森か松野か』って見出しがあって、『どうして?』という思いがあったんですよね。(有森は)世界陸上だけしか走っていないし、選考では怪我してたじゃないって」

有森は世界陸上後の1991年9月から1992年2月まで、半年間マラソンを走っていなかった。しかし、バルセロナ五輪も猛暑が予想されたため、猛暑の世界陸上で4位という実績は、依然高評価だった。怪我を完治させた有森は、3月15日に岡山、3月20日に千葉で10キロメートルマラソンを走り、健在ぶりをアピールした。有森は「本気で出たいという気持ちを表現することが、見せるべき態度だと思った」と語る。

バルセロナ五輪女子マラソン日本代表発表の2日前の1992年3月26日、松野が異例の記者会見を開いた。


会見でアピールした松野明美。『マラソングランドチャンピオンシップ〜東京五輪代表を懸けた運命の決戦へ』はTBSテレビ系列全国ネットで9月11日(水)よる8時〜10時に放送(写真:TBSテレビ)

「私が出たら、確実にメダルを獲れると思っています。そのためにも精いっぱい頑張っているのでどうぞ選んでください」

日本陸上競技連盟に向けて、会見の場でアピールしたのだ。

これについて、有森は後にインタビューでこう語っている。

「私も松野さんもぜんぜん悪いことをしていません。お互いにそれぞれが持っている情報の中で、状況に対する思いを表現しただけなので」

そして2日後、代表が発表された。選ばれたのは、世界陸上2位の山下、大阪国際女子マラソンで優勝した小鴨、そして有森だった。本来なら手放しで喜んでいいはずだが、有森は複雑な心境だった。

「困ったのは、喜んでいいのかどうなのかがわからなかったことです。だから笑わなかったです」

有森の選考理由を、日本陸上競技連盟バルセロナ五輪強化本部長、故・小掛照二(こがけ・てるじ)氏は次のように説明した。

「バルセロナは30度を超す暑さですから、暑さに強い選手を。それから世界選手権という大変なプレッシャーでも堂々と戦えるような選手ですね。誰を選んだら目標のメダルが獲得できるのかということに集中しました」

猛暑に耐えうる身体の強さと、世界大会でも物怖じしない精神の強さ。その両方をクリアした世界陸上4位という有森の成績は、大いに評価されたのだった。

発表後の会見で、有森が松野の名前を出すことはなかった。

「語る必要がないと思いました。申し訳ないとは思っていないです。私がこの件で彼女のことを思うコメントをしたり、申し訳なかったの一言を言おうものなら、これほど失礼なことはないと思っています」

そんな有森に、松野優勢ムードをひっくり返された世間は冷たかった。有森の実家には嫌がらせの手紙や電話が届いた。しかし、有森は「悪いことはしていないですから」と平常心を保ち続けた。

女子マラソン史上初の銀メダルを獲得した有森

迎えた8月のバルセロナ五輪は気温30度を超える過酷なレースとなった。大阪国際女子マラソンで日本記録を更新した小鴨が、早々に先頭集団から抜け出すも、徐々にペースが落ちてしまう。

中盤以降は、有森とロシアのワレンティナ・エゴロワのデッドヒートとなった。残り1キロメートルでスパートをかけたエゴロワが有森を引き離し、そのままゴール。有森は金メダルこそ獲れなかったものの、女子マラソン日本人初の銀メダルを獲得した。

日本中が歓喜に沸く一方で、レース中継を見ていた松野は、自分だったら金メダルを獲れたと思わずにはいられなかった。

「バルセロナ五輪のフルマラソンは走りたかったです。本当に走りたかった」

有森と松野は、代表選考以来一度も顔を合わせることはなかった。

ふたりは2010年11月4日に、TBS特別番組「スポーツ人間交差点〜光と影〜」の企画でおよそ20年ぶりの再会を果たした。場所はふたりが初めて出会った熊本。松野の地元でもあるこの地に、有森は東京からやってきた。


およそ20年ぶりの再会を果たした有森と松野。『マラソングランドチャンピオンシップ〜東京五輪代表を懸けた運命の決戦へ』はTBSテレビ系列全国ネットで9月11日(水)よる8時〜10時に放送(写真:TBSテレビ)

対面を果たしたふたりは、ほどなくして抱き合った。そこには、世間が考えるような過去の因縁は一切感じられなかった。

松野は、有森が代表に選考されたときに、自分のことを考えたかと聞いた。

「選ばれたときに、喜んでいいのかなと思いました。みんなが苦しんだから。お互いに何も悪いことをしていないのに。ただ、当時は皆さんの興味があったから、松野さんの名前が会場から出ることはありました。私から名前を出すことはしたくなかったし、名前を出すことが松野さんに対していいことだとは思いませんでした」

選ばれなかった松野も、選ばれた有森も、違う苦しみを抱えていた。有森は別のインタビューで「メダルなんて防弾チョッキのように感じた」と当時を振り返ったことがある。

「メダルを獲って帰ってきたときに、『メダリストはメダルをかけて飛行機を降りてください』と言われて。たくさんのメディアの方がカメラを構えて待っていました。そのときに、『もしメダルを獲ってこられなかったらどうなったんだろう』と思いました。メダルを獲る前と獲った後で、世間の表情が大きく変わっていて、すごく怖かったです」

MGCの意義を強く感じる有森

曖昧な選考基準に翻弄された有森は、2019年9月15日に開催される東京五輪マラソン代表選考レース・MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)の意義を強く感じている。

「今までは参考レースがなかったんです。参考レースが選考レースになっていました。4、5個のレースすべてが一発選考で、基準も曖昧でした」

東京五輪マラソン競技の代表枠が「男女各3名」であることは従来どおりだ。大きく変わったのは選考方法。これまでは複数の選考レースの結果が比較されたため、順位やタイムなど基準が不明瞭だった。それが今回は、極めて明快な選考基準になる。

9月15日に開催されるMGCには、男子31名・女子12名が出場。彼らは指定のレースにおいて、基準となる順位やタイムをクリアした、いわば予選通過者だ。MGCの上位2名は、そのまま東京五輪代表に内定する。

3枠目は、2019年冬から2020年春にかけて行われる男女各3つの大会で、基準のタイムを上回ったうえで最も速いタイムの選手が内定する。該当する選手がいない場合は、MGCで3位の選手が内定となる。

MGCへの出場権を得るためのレース(参考レース)があることや、基準となる順位やタイムが明確になったことを、有森は評価している。


2人で並んで走った有森と松野。『マラソングランドチャンピオンシップ〜東京五輪代表を懸けた運命の決戦へ』はTBSテレビ系列全国ネットで9月11日(水)よる8時〜10時に放送(写真:TBSテレビ)

「選手にも選考する人にも責任がある中で、きちんと納得した結果を出そうというのが、今回のMGCの意味なのかと思います」

有森が言うように、選手自身の責任という側面が強くなったことで、真剣勝負の醍醐味を存分に味わうことができる。この選考基準が続くかぎり、有森や松野のような苦しみを背負う選手が出てくることは、なくなるはずだ。

有森さんもきつかったんだなって

2010年、2人が再会した最後に松野は有森にあるお願いをした。

「五輪のメダルが見たい」

この日のために、有森はバルセロナ五輪の銀メダルを持ってきていた。それを手にした松野は、絞り出すようにして言った。

「このメダルを見て、有森さんもきつかったんだなって。自分だけじゃなかったんだなって。自分ばっかり苦しいのかなって思っていたんですけど」

有森は「みんなそうだと思うよ」と返した。バルセロナ五輪の代表枠を争ったふたりとは思えないほどに、清々しい再会だった。

(文中敬称略)