『奈良監獄物語 若かった明治日本が夢みたもの』(小学館)より

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 明治生まれの煉瓦建築、奈良少年刑務所。その建物がなぜそんなにも美しいのか。立派なのになぜ威圧感がないのか。前回は、その秘密について書かせてもらった(なぜこんなに美しい刑務所が? ジャニーズ映画ロケ地「旧奈良監獄」秘話)。

【写真】歴史ある奈良監獄の味わい深いイラスト

 建物が立派なのは、文明国への仲間入りを切望した明治政府の意地の見せどころだったから。「わが大日本帝国は刑務所だってこんな立派なものが造れるのだ」と精いっぱいの背伸びをして、西欧諸国と肩を並べようとした。涙ぐましいほどのがんばりだ。

 建物が美しくやさしいのは、司法省の若き設計者・山下啓次郎が、西洋で、建築のみならず、思想哲学まで吸収してきたから。彼はそこが「罪人を懲らしめるための暗くて冷たい監獄」ではなく、「罪を深く悔いて再出発をするための希望の場所」でありたいと考えた。つまり「受刑者の人権」にまで思いをはせて設計した建物だったのだ。

 令和の時代になってさえ、事件が起これば容疑者に対してすぐに「極刑を」「一人で死ね」といった声が起きる日本。いまから百年以上も前に、すでに、罪人の人権を重んじようとしていたその志の高さには、胸を打たれずにいられない。 

「人の世に熱あれ、人間に光りあれ。」

 そんな高い志から生まれた「美しい刑務所」ではあったが、では、その願いが常にかなっていたのかというと、実はそうではない。囚人に対して、さまざまな迫害が行われた時代もあった。そのなかでも特筆すべきは、「治安維持法」の時代の思想犯への迫害だ。

 第一次世界大戦後、日本では自由と平等を求めるさまざまな社会運動が巻き起こった。これを鎮圧する目的で作られたのが、治安維持法だ。大正14年(1925)に制定され、革命を標榜(ひょうぼう)する日本共産党が標的とされた。

 その後、改正が重ねられ、「政府にとって都合が悪いと思われる思想を持つ人間」に広く適用されるようになる。労働組合や農民組合、プロレタリア文化運動、宗教団体、学術研究サークルに至るまで、この法律が適用された。治安維持法は、ファシズムへ向けて、国民の思想を統制する武器として機能し、やがてこの国を戦争へと導いていく。

 奈良刑務所にも、思想犯として収監された人々がいた。日本初の人権宣言「水平社宣言」を起草した西光万吉もそのひとりだ。彼は、奈良の被差別部落の生まれ。友人たちと部落解放運動である「全国水平社」を起こした。「人の世に熱あれ、人間に光りあれ。」という彼の言葉は、いまも差別撤廃の象徴として知られている。

 西光とともに収監されていた労働運動家・高田鉱造は、昭和3年(1928)の「三・一五事件」で検挙された。マルクス主義者約1600名を一挙に検挙、うち500名近くを起訴したという、政府による恐るべき弾圧事件だ。後に高田は『一粒の麦』(大阪労働運動史研究会)という自伝で、収監された奈良刑務所の様子を詳しく描いている。

 食事の貧弱さ、待遇の悪さはもとよりだが、互いに言葉を交わさないようにと、一つ置きの独房に入れられて、連絡が取れず、孤独地獄だったという。

 そんななか、彼らは工夫を凝らし、あらゆる手段を使って連絡を取りあう。その様子は、まるで映画のシーンを見ているようだ。

 やがて、それも発覚し、さらにきびしい監視の目が光る。彼らは常に、強く「転向」を迫られていた。高田はついに転向しなかったが、西光万吉は転向。出所後、国家主義者となっていった。

 刑務所では作業が課せられ、高田は下駄の鼻緒の芯を作っていた。

芯に新聞紙が使われていることがあり、三ヶ月〜半年遅れの新聞を読むことができた。活字に飢えている者にとっての心のオアシスだった》(『一粒の麦』より)

 思想犯は考え事をするので、刑務作業がはかどらなかったそうだ。凶悪犯のほうがずっとまじめに取り組み、ノルマもよく達成したという。

凶悪犯から仕事を取りあげると、時間潰しに閉口し音をあげるところから、懲らしめのために仕事を与えないという罰則すらあったくらいだ》(『一粒の麦』より)

 世に言う「凶悪犯」のほうが勤勉だったとは、おかしくも物哀しい。いま、刑務所にいる人々にも通じる。どこかきまじめで不器用な人が、犯罪に追いこまれているのだ。

 高田は過酷な刑務所生活を乗り切り出所。その後も信条を曲げず、共産党関西地方委員などを歴任、平成9年(1997)に93歳で没している。

 自由であるべき人の心を、権力が制限し、裁く。そんな道具として使われた歴史が、この美しい刑務所にもあったのだ。

囚人たちによって運び出された仏像

 百年を超える歴史のなかで、もうひとつ、特筆すべき出来事があった。太平洋戦争の末期、囚人たちが仏像の疎開に駆りだされたのだ。

 よく、京都と奈良には貴重な文化財があるので米軍は空襲を避けたと言われているが、それは嘘だ。京都は原爆投下の候補地のひとつにされていたため、その効果がわかるように温存され、奈良にも空襲はやってきた。東大寺の大仏さまは、さすがに動かせないが、運べる仏さまは運んで疎開させようということになった。ところが、男たちは徴兵され、人手がない。白羽の矢が立ったのが、奈良刑務所の囚人たちだった。

 興福寺の八部衆と十大弟子は、布でぐるぐるに巻かれ、囚人とともに列車に揺られた。たどりついたのは、桜で有名な吉野のお山。急な七曲坂を、仏さまたちは担架にのせられ、囚人たちの手で運ばれた。村長の家の土蔵に匿(かくま)われたのだが、極秘にしていたので、隣の住民さえ気づかなかったという。

 その中には、あの有名な阿修羅像もあった。もっとも罪深いとされる人々が、もっとも聖なる仏像を守ったのだ。いかにも奈良らしい逸話だ。

 しかし、ほんとうに罪深いのは囚人たちではなく、日本を戦争に招いた国の上層部の人々だったのではないか。人権を守るという高い理想を掲げて造られた煉瓦造りの刑務所も、国を戦争に導く思想統制の道具として利用された時代があった。その悲しい闇の歴史を、わたしたちは忘れてはならない。

 終戦後、奈良刑務所は奈良少年刑務所と名称が変わり、原則として17歳から25歳までの受刑者が収容されるようになった。最終的には13種類の職業訓練コースを持つ一大職業訓練所となり、少年たちの更生に貢献してきた。

 加害者になる前に被害者であったような過酷な生活をしてきた少年たちは、ここで心を癒し、社会復帰のための職業訓練や教育を受けることができたが、その教育方針はきびしいスパルタ式ではなく、やさしさに満ちたものだった。

 明治の若き設計者・山下啓次郎の「人権」への願いは、戦後になって、ようやくこの美しい建物に響きだしたのだ。

 奈良少年刑務所は、国の重要文化財に指定され、2017年3月いっぱいで廃庁になった。記念式典で煉瓦建築の前でピアノを弾いたのは、ジャズピアニストの山下洋輔さん。この刑務所の設計者・山下啓次郎の孫だった。

 明治から百年を超えて矯正施設だったこの建物の光と影の歴史を、『奈良監獄物語 若かった明治日本が夢みたもの』(小学館)という絵本にした。ぜひ読んでみてほしい。

 旧・奈良監獄は、今後、史料館とホテルとして活用される計画になっている。史料館は今秋開館予定だ。光のみならず、その忌まわしい闇の歴史さえも、余さず展示してほしい。過去を真正面から見つめてこそ、望むべき美しい未来がやってくるのだから。

PROFILE
●寮 美千子(りょう・みちこ)●東京生まれ。 2005年の泉鏡花文学賞受賞を機に翌年、奈良に転居。2007年から奈良少年刑務所で、夫の松永洋介とともに「社会性涵養プログラム」の講師として詩の教室を担当。その成果を『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』(新潮文庫)と、続編『世界はもっと美しくなる 奈良少年刑務所詩集』(ロクリン社)として上梓。『写真集 美しい刑務所 明治の名煉瓦建築 奈良少年刑務所』(西日本出版社)の編集と文を担当。絵本『奈良監獄物語 若かった明治日本が夢みたもの』(小学館)発売中。