自由の鐘

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7月4日はアメリカ合衆国の独立記念日。
今年は4日が木曜日だったこともあり、彼の地では"4th of July Weekend"として例年以上にお祭り騒ぎが週末まで尾を引いたようだ。

祭事に限ったことではないが、我々日本人は他国や他文化の習慣・慣習の表層を自国文化に取り込むことは伝統的に上手い。他国の独立記念日とはいえ、いずれ7月4日の夜になると渋谷のスクランブル交差点がお祭り好きで無節操な若者たちで埋め尽くされる日が来るかもしれない。

「医師の働き方改革」

さて、今週はこれと前後して厚生労働省が「医師の働き方改革の推進に関する検討会」を設置したというニュースを目にした。この3月で終了した「医師の働き方改革に関する検討会」という似たような名称の会のいわば続編らしい。

医師の過重労働問題は医療サービスの提供というプロセスの中ではどちらかというと「結果寄り」、つまり「結果としての問題」。もちろん、長時間勤務で判断力の鈍った医師による医療過誤など、労働問題が別種のさらなる問題にもつながり得るため「原因としての問題」でもあり、その下流で最終的に影響を受けるのは患者など一般市民だ。

ただ、医師の労働問題の上流をたどっていくと、たとえば一部の地域や診療科に医師が偏在している問題、あるいは急性期・回復期・慢性期など本来の医療機能や患者側の病状とは無関係に大小さまざまな医療機関が横並びで医療サービスを提供せざるを得ない事情など多くの問題が存在する。そのさらに上流には健康保険などの医療制度問題、医学生や医師の教育制度問題、健康・医療に関する知識や医療サービス利用に関する意識のような一般市民側の問題など多岐にわたる「原因寄り」、つまり根本的な「原因としての問題」が絡み合っている。

これらは一連のプロセスを見渡した場合の源流であり原点でもあるが、それと同時に下流までの流れを左右する全体的な地盤や地質でもある。そのような複雑な問題を抱える巨大システムの一部分、歯車ともいえる部分の改革が「医師の働き方改革」と表現されることには違和感がある。言葉の綾(あや)だと言われればそれまでだが、実際は「医師の働かせ方改革」の話ではないだろうか。

「自由の国アメリカ」 「自由だけではない国アメリカ」

ご存じの通り、アメリカ合衆国は大英帝国の植民地政策に反旗をひるがえし独立することで誕生した「自由の国」。自由には権利とともに責任が伴い、権利には義務も伴う。アメリカ人の価値観は個人主義、能力主義、競争主義などの言葉で表されることが多いが、いずれもその源流には大英帝国からの独立を目指し勝ち取ったという原点があり、それが今もアメリカ人の社会生活や社会制度の原理として深く根付いている。

それは医療制度や医学教育制度にも当てはまる。政治や行政、医療機関や学会、教育機関などが、各々の自由と責任や権利と義務の範囲・程度を明確化し明文化した上で、「その通りには運用できない、運用されないであろう」という悲観的、また時には性悪説的な予測に基づき制度の運用や改善を繰り返してきた。患者も含めた一般市民も同様に、その自由と責任や権利と義務を常に意識して制度を利用してきた。

「インターン」=「アメリカに残された唯一の奴隷制度」

個人的な昔話になるが、1955年、昭和30年に医学部を卒業した僕はアメリカに留学したい一心で米軍極東中央病院、今の聖路加国際病院をインターン先として選んだ。戦後10年が経過していたとはいえ、当時の日本の医学や医療は欧米、特にアメリカに比べると雲泥の差があった。

無理もない。戦後直後にマッカーサー率いる連合軍総司令部は医療や医師教育の改善を日本政府に命じたが、そもそも戦争末期の日本の医療は深刻な医師不足・医学生不足、医学教育の期間短縮、欧米の最新医学・医療の情報不足などの悪循環により悲惨な状況に陥っていた。戦後10年の間にさまざまな制度や施設が急速に整備され医療や医師教育が改善したとはいえ、それをほぼゼロから再構築しようという日本が戦時中も継続的に発展し続け大勢の優秀な医師を送り出してきたアメリカとの差をたかが10年で狭めることができるはずもなかった。その連合軍総司令部が導入した制度の一つがインターン制度だったがそれに対する日本の大学医学部の反発は大きく、医者の卵の実地訓練の場としてはまったく機能せず形骸化した。つまり当時の日本で本物のインターン経験を積む場としては米軍病院が唯一の選択肢だった。

僕はその1年後に渡米し彼の地で8年間の医師生活を送ることになったが、渡米後もアメリカの医師資格制度の一環として改めて1年間のインターンを経験した。それは日本の米軍病院で経験したインターン生活とは次元の異なる、「アメリカに残された唯一の奴隷制度」の名にふさわしいものだった。日本の米軍病院でのインターンも当時の日本の大学病院での「名ばかりインターン」とは比べ物にならないほど大変だったが、アメリカでのインターン生活はそれとも比較にならないほどの激務と重圧の日々だった。奴隷時代の詳細は省くが、それでもアメリカ人や僕のように他国から来た同僚たちは皆それに耐え1年間のインターン生活を終えた。実際はそれに続いて数年間のレジデント生活を送らないと専門医としての資格を目指すことすらできないため、奴隷生活は多少質を変えつつもさらに数年間続くものだったが。

「将来の道筋」が見えること

そんな奴隷生活になぜ耐えられたのか。

僕はそんな問いには一言、アメリカにはインターンやレジデントが「安い労働力」という位置付けに陥らないような社会的なシステムがあったから、と答える。

日本の「大学医学部教授」のイメージを持っていると理解するのが難しいかもしれないが、アメリカの場合、医学部の教授や助教授というのは基本的に単なる肩書・役職名で、日本の大学のように組織人事面での上下関係や指揮命令系統を自動的に伴うものではない。そもそも日本では一般的な「大学が経営する付属病院」はアメリカにはほとんど存在せず、独立した医療機関である病院が大学との提携関係により大学から独立して医療サービスを提供する。患者は入院料を病院に支払い、手術料は医師に直接支払う。アメリカでは大学病院の勤務医であってもそれぞれが独立して医業を営む医師として社会的な地位や収入が格段に上がっていくようなキャリアパスがあった。そのような先の道筋が明確に見えているからこそインターンやレジデントたちも奴隷生活にも耐えることができた。

もちろんそれだけではない。アメリカの場合、インターンやレジデントの人数や研修カリキュラムは公的な外部機関により厳しく制限・管理される。研修カリキュラムの質や研修医という人材の質の向上を考えれば当然のことだが、日本で独自加工されたインターン制度ではインターンは大学側にとっては良くて「安い労働力」、下手すれば単なる邪魔者だった。1960年代後半、そのインターン制度の廃止を訴えた通称「青医連」という青年医師連合の活動がやがては東大安田講堂事件に象徴される学園紛争に繋がったが、元はと言えば、まともな卒後研修を受けたいという研修医たちの極めて真っ当な希望から始まったものだった。

「やりがい」を感じられること

このような例は枚挙にいとまがないが、もちろん、海外に良い制度があるなら日本に輸入すれば良いという単純な話ではない。正しいはずのインターン制度は悪しき制度として運用され50年前に廃止された。

医学や医療の制度はハロウィンやクリスマスのように表層的な輸入や模倣で機能させられるようなものではない。国民皆保険制度だけでなく社会保険制度全般や社会全体がさまざまな危機に直面している時だからこそ根本的な「上流」や「地盤」から改革を進める必要はある。だが、近年の例でも企業が外国人技能実習生を「安い労働力」として活用するという当然の結果を招くような制度改革を行う政府に医療や医師教育の抜本的な改善に取り組むことはできるのだろうか。

医師の「働き方改革」であれ「働かせ方改革」であれ、研修医をはじめとする医師たちが何よりも「やりがい」を実感できるような制度や環境に変えていくという意識で政治や行政、医療機関や学会、教育機関、一般市民がそれぞれの役割や関わりの中で取り組むことが結果的に医師だけでなく患者をはじめとする一般市民や社会全体のためになるはずだ。

[執筆/編集長 塩谷信幸 北里大学名誉教授、DAA(アンチエイジング医師団)代表]

医師・専門家が監修「Aging Style」