前田利家は、織田、豊臣、そして、徳川という三代を武勲で生き残り、紆余曲折を経て、加賀の国を治めるに至ります。加賀はその後独自な文化をはぐくんでいきます。後世のことになりますが、金に関して言えば、いまでは金箔などは日本におけるシェアの大半を占めています。(イメージ写真提供:123RF)

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■加賀の文化のこと

 筆者が居住している八王子には八王子城跡というところがあります。北条早雲以降の後北条氏が治めた広大な地域の一部にあたりますが、北条氏照が建てたものでした。豊臣方に責められ落城し、いまでは城跡が残るのみとなっています。

 この八王子城攻めで先方を務めたのは後の加賀百万石の基礎を作った前田利家でした。八王子攻めについては、今までの関東勢の降伏のさせ方が生ぬるいとして、豊臣秀吉が前田利家をなじり、先方の前田利家は討ち死覚悟で戦に向かいました。相手は歴戦の武将北条氏照の牙城でしたが、豊臣本体の小田原攻めで氏照は不在、1日足らずで、流血の後八王子城は落城します。

 この先方を務めた前田利家。織田、豊臣、そして、徳川という三代を武勲で生き残り、紆余曲折を経て、加賀の国を治めるに至ります。加賀はその後独自な文化をはぐくんでいきます。後世のことになりますが、金に関して言えば、いまでは金箔などは日本におけるシェアの大半を占めています。

■金箔など加賀の文化の開花

 前田利家が存命のころ金箔はすでに作られていたようですが、江戸時代中は金箔の文化は表舞台にはでてきません。というのも、徳川幕府が金などの扱いについては完全にコントロールしていたからです。それでも、ひそやかに金の加工などはいとなまれていたようです。

 一方で、江戸時代は、九谷焼などの工芸が発達。加賀の文化の層が次第に厚くなってきます。九谷焼は、他の焼き物と比べても明るいイメージを持つものが多いですが、それはまるで金箔と同じようなイメージを与えているようも感じます。

 江戸末期になり、金箔の製造の道が開かれると、その後は次第に発展していき、現在の地位を確立するに至ります。利家は、秀吉とともに金の文化に触れていましたが、その一部が加賀に受け継がれ、江戸末期以降開花していったと考えられるでしょう。利家が基礎を作った加賀藩の富と文化の充実が、今日の金沢の金を含む文化につながっていっていると感じます。

■終わりに

 こうした素晴らしい文化を作り上げた金沢ですが、その厚みのある文化を思うとき、いつも冒頭のような前田利家はじめ戦国以来の歴史、文化を思い起こします。金を巡っての文化は、まさに一日にしてならずと感じます。

 今回は、金沢と金文化 開花した独自文化と題してお話しいたしました。

【参考資料】
株式会社箔一ホームページ「金箔の歴史」
(情報提供:SBIゴールド)(イメージ写真提供:123RF)