新たな挑戦と切ない別れのニュースで溢れかえるこの時期。スポーツ新聞に載った小さな記事に目がとまった。北海道日本ハムファイターズの人事に関するもので、榎下陽大(えのした・ようだい)の現役引退と球団職員への転身を報じる記事だった。

 10月初旬に戦力外通告を受け、11月に開催されたファンフェスティバルでファンに引退を報告……。その後の進路については、球団に残り、統轄本部国際グループのスタッフとして働くことになった。このニュースを見て印象的だったのは、”国際”の二文字だ。


今季限りで現役を引退し、日本ハムの統轄本部国際グループのスタッフとして働くことになった榎下陽大

 榎下とは、九州産業大4年の秋に、ある雑誌の取材でじっくり話を聞く機会があった。第一印象は自然体で、自分の言葉で大人と会話ができる好青年。そのとき、榎下から衝撃の事実を知らされた。

「本当は、高校で野球をやめようと思っていたんです」

 駒大苫小牧の田中将大(現・ヤンキース)や、早稲田実業の斎藤佑樹(現・日本ハム)の活躍で沸いた2006年夏の甲子園。榎下は鹿児島工のエースとしてチームをベスト4へと導き、その後、高校日本代表にも選ばれた。それだけの実績ある投手がなぜ……。その理由を尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「英語が好きで、将来、通訳になりたい夢があったんです」

 きっかけを聞くと、こう即答した。

「小学校の頃、この世には日本語しかないと思っていたのですが、ある時、英語というのがあると知って……それからですね、どんどん興味が沸いていったのは。英語を話せれば海外にも行けるし、いろんな国の人とも話せる。そう思ったらすごく楽しみになって、『将来は通訳になりたい!』と強く思うようになったんです」

 日に日に英語が好きになり、中学時代は「英語のテストで90点以下は取ったことがなかったです」と嬉しそうに教えてくれた。

 だが、高校で本格的に取り組んだのは野球だった。中学時代、サード兼ピッチャーで活躍していた榎下は、鹿児島工から推薦の誘いがあり決断。しかも鹿児島工に普通科はなく、授業の中心は建築と土木。榎下は「もっと英語を勉強できると思ったのに……結構ショックでした」と振り返ったが、おかげで野球に集中できる環境が整い、3年夏には甲子園出場も果たした。

 当然、「いずれはプロで……」という思いが生まれたが、その一方で榎下の気持ちを揺るがす2つの出来事があった。どちらも高校日本代表に選ばれたことがきっかけだった。

「田中や斎藤らとチームメイトになって、やっぱりコイツらはすごいなと。こういう人間がプロに行くんだと思いました」

 同じブルペンで投球したが、ボールのすごさと意識の高さを目の当たりにし、はるか先に同級生がいることを肌で感じた。

 そしてもうひとつ、短期間だがアメリカで生活したことで「高校時代、閉じ込めていた気持ちがよみがえった」とも言った。

「アメリカの雰囲気がすごく良くて、『やっぱり英語をしゃべりたい』となったんです。あとレセプションパーティーがあったんですけど、そこで言いたいことがまったく言えず、悔しかったというのもありました。相手が言っていることは何となくわかるんですけど、伝えることが全然できなくて……また英語をしゃべれるようになりたいって強く思うようになったんです」

 榎下自身、「燃え尽きた感もあった」という野球をあきらめ、英語を生かす道を真剣に考えたが、周囲の説得もあり、「大学まで野球を続ける」ということで決着した。

 言葉とは裏腹に、九州産業大へ進学するとストレートの球速は10キロ近く上がり、4年時には堂々のドラフト候補となった。そしてドラフト直前、榎下は力強くこう語っていた。

「1年目から一軍とか新人王ということより、10年投げられるピッチャーになりたい。そのためにまず土台をつくらないといけない。10年間活躍できる力がつけば、メジャーにも挑戦したい。世界一の野球がどういうレベルなのか、知りたいんです」

 しかし現実は厳しく、一軍の戦力として働き続けることはできず、榎下のプロ野球人生は通算2勝、7年で幕を閉じた。ただ、冒頭の記事に触れたとき、寂しさとともに浮かんできたのが彼のこれからへの期待だった。

「僕は野球も勉強も、いずれは留学もしたいです」

 7年前の秋、そう熱く語っていた榎下の第2幕が始まる。

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