比類なき最終回「カルテット」舞台に空き缶が飛ぶ、それでも4人は演奏する。センキューパセリ
ドラマ『カルテット』の最終話が放映された。いや、良かった。素晴らしかった。
好きな人と好きなことをやりながら生きることに対する力強い肯定。家族のしがらみとか社会の常識とか匿名のヘイトなんかに屈しない生き方。それはものすごく大変で困難が伴うものだ。だから『ドラゴンクエスト』のモチーフが繰り返し示されていたのだろう。人生は不可逆でリセットボタンのない冒険だ。
真紀(松たか子)、すずめ(満島ひかり)、司(松田龍平)、諭高(高橋一生)の4人はカルテットドーナツホールというパーティを組んで冒険の旅に出た。パーティはなかなか上手くいっているようだ。エンディング、ワゴンの中で主題歌「おとなの掟」を歌っている4人の姿の多幸感と解放感たるや!
最終話は9話で真紀が警察に連行されてから半年後の夏から始まる。住民票や免許証を不正に取得した罪で起訴された真紀だが、その後、義父の死に関する疑惑がセンセーショナルに報じられ、「疑惑の美人ヴァイオリニスト」として超有名人になっていた。真紀の頭には白髪が目立つ。
一方、司は真紀の代役として大橋絵茉(松本まりか)というヴァオイリニストを呼び、カルテットドーナツホールの活動を再開しようとするが、着ぐるみ姿で肉の日に演奏する仕事と聞いた大橋は激昂する。
大橋「恥ずかしいと思わないんですか? みなさん、椅子取りゲームに負けたのに、座っているふりしているだけですよね」
真紀とは対照的に声が大きく、はきはきした大橋は何事も白黒はっきりさせるという価値観を持っているようだ。勝ちか負けか、正しいか間違っているか。彼女は社会の常識の代弁者のようでもある。結局、大橋はあっという間に別荘を去る。
真紀について大きく報道されたことで、司が“世界の別府ファミリー”のその他1名であること、すずめが日本中を騒がせた“嘘つき魔法少女”であることも露見していた。諭高について触れた記事がなかったというのが悲しい。元Vシネ俳優なのに。
真紀に執行猶予の判決が下ると、カルテットドーナツホールのウェブサイトには悪意のコメントが殺到した。「犯罪者が演奏する音楽なんて」「お金返して!」「演奏家のクズですね」……。このような匿名の罵倒は、ウェブの世界では見慣れた光景である。
匿名の意見はだいたい極端で、最高か最低か、善人か犯罪者か、偉人かクズか。大橋、マスコミ、匿名の人々。ひっそり暮らしていたカルテットドーナツホールが、真紀の事件をきっかけに白黒はっきりつけたがる世界の人々に見つかってしまったかのようだ。
裁判が終わっても、真紀は別荘に帰ってこなかった。もう真紀が戻ってこないと思った司はカルテットドーナツホールの解散を提案する。
しかし、すずめはそれなら預かったヴァイオリオンを真紀に返したいと言う。これまでのやりとり(特に3話と9話)で、すずめと真紀は強い結びつきを得ていた。すずめはWi-Fiがつながったままだと信じている。3人は真紀が暮らしている団地を探し出し、団地の真ん中で演奏して真紀をおびき出そうとする。音楽でおびき出すって、童話っぽい。
最初、真紀は生活音(洗濯機の音)と外部からの嫌がらせの音に邪魔されて音楽に気づかない。このとき置かれた真紀の状況そのものだ。生活に追われ、罵倒にさらされ、音楽のない日々。それでも一瞬、風がもたらした偶然によって真紀は音楽に気づく。ベランダで音楽を聴く真紀の顔に、初めて太陽の日が当たる。
すずめのようなサンダル姿で外に飛び出し、これまで幾度となく真紀以外の3人が転んでいたのとは逆に真紀だけが転ぶ。これまでは転ばないように(過去が露見しないように)慎重に生きてきた真紀が、今は音楽の前に無防備のように見える。
おなじみの「Music For A Found Harmonium」で子どもたちの歓声を集めるすずめ、司、諭高。それを見ている真紀からも笑みが零れる。真紀から「好き」が零れた瞬間だ。真紀を軽井沢へ連れて帰ろうと抱きつくすずめ。そして諭高がバックハグ! 幸せそうな演奏シーンでちょっと緩んだ涙腺が、ここでまた緩む。仲が良い大人たちっていいなぁ。
ちなみにこのシーン、リハーサルでは司役の松田龍平が「俺は?(笑)」とアピールして、4人で抱き合うシーンも演じてみたのだとか。しかし、「4人だと甘いというかクリアになっちゃうかな」(土井裕泰監督)ということで台本通り3人で抱き合うことになったそう。
キリギリスとしての自分を捨てつつある仲間に対して、真紀は大きなホールでコンサートを開くことを提案する。集客のためには好奇の目など「なんでもありません」と胸を張るのは、彼女なりに3人を甘やかしているつもりなのだろう。自分を受け入れてくれた3人へのお返しだ。
そんなとき、カルテットドーナツホール宛に匿名の手紙が届く。手紙の主は4人の演奏を聴いたことがあり、「奏者として才能がない」と断じていた。
「世の中に優れた音楽が生まれる過程で出来た余計なもの。みなさんの音楽は煙突から出た煙のようなものです。価値もない。意味もない。必要ない。記憶にも残らない。私は不思議に思いました。この人たち、煙のくせに、何のためにやっているんだろう。早くやめてしまえばいいのに」
夢中でコンサートの準備をする4人の映像が流れる中、手紙の主は問いかける。
「教えてください。価値はあると思いますか? 意味はあると思いますか? 将来があると思いますか? なぜ続けるんですか? なぜやめないんですか? なぜ? 教えてください。お願いします」
ああ、これは自分の話だ、と思った視聴者も少なくないんじゃないだろうか。筆者は自分の話だと思った。ヘタクソな文章を毎日書き続けているのは、なぜなんだろう。「やめちまえ」とネットで罵声を浴びながらも続けているのはなぜなんだろう? お金のため? 夢のため?
ついに始まったコンサート。4人はそれぞれの思いを乗せて精一杯弾く。『カルテット』の名シーンが次々と蘇える。客席から舞台に空き缶が飛ぶ。それでも4人は集中している。
4人が初めて出会ったカラオケボックスでの会話が蘇える。自分の気持ちを音になって飛ばす。飛べ、飛べ、届け! その感じがたまらなく好きだから演奏を続ける。価値がなくても、意味がなくても、必要がなくても、人々の記憶にも残らなくても。
音楽家だけでなく、すべての創作や表現に取り組んでいる人、いや、何か一生懸命取り組んでいるものがある人にあてはまる話だと思う。まわりに何か言われても、才能がないと気づいても、「でも、やるんだよ!」という気持ち。「自分たちが楽しければいい」という気持ちでは、相手に何も届かない。
演奏が終わっても野次馬だらけの客席からはまばらな拍手しか起こらず、それどころか客は次々と席を立つ。でも、たしかに音楽を楽しんでいる人たちもいる。1話でショッピングモールでの演奏を聴いていた学生2人組が写ったとき、胸が熱くなった。
すずめ「届く人には届くんじゃないですか。その中で誰かに届けばいいんじゃないですか。一人でも二人でも」
まるで『カルテット』というドラマそのもののようだ。
ドラマには最後まで解決されないミステリーがある。それは真紀が義父を手にかけたのか、かけなかったのかという部分だ。
真紀はコンサートの1曲目にシューベルトの「死と乙女」を選ぶ。疑惑の渦中にある身としては際どい選曲だろう。すずめに意図を聞かれた真紀は「零れたのかな」と一言。そして鏡越しにすずめに言う。
真紀「内緒ね」
何が零れて、何が内緒なのか――。あいまいなまま、ドラマはエンディングに向かう。白黒つけたいという世界の欲望から離れた場所で、4人はグレーのままでいる。
『カルテット』は繰り返し、白黒つけなくてもいい、グレーでいい、と語り続けてきた。物語の核にある事件もあいまいなら、お互いの恋愛感情もあいまいなまま。椎名林檎による主題歌「おとなの掟」の歌詞にあるとおりだ。
「そう人生は長い、世界は広い 自由を手にした僕らはグレー」
すずめが好きな天気はグレーの曇り空で、彼らの音楽はグレーの煙のよう。映画・音楽ジャーナリストの宇野維正氏の指摘にならうと、コンサートに現れた女性の帽子の「G」はグレーの「G」ということになる。
グレーの部分を大切にすることは、むやみに白黒つけたがる人たちへの対抗手段にもなるし、仲間たちと一緒に人生を前向きに進むときにもとても役に立つ。
最終回は食事のシーンが何度も登場した。真紀が一人で食べる卵かけご飯は『カルテット』における寂しい食卓の象徴だ。1話では夫の帰りを待つ真紀が、5話では息子に逃げられた鏡子(もたいまさこ)が一人で食べていた。
真紀のいない食卓でのピェンロー鍋はどこかギクシャクしている。すずめと司のしらたきをハサミで切ってやる諭高の優しさが印象的だ(そして自分のしらたきは誰にも切ってもらえない)。真紀が帰ってきてからのチーズフォンデュは『カルテット』ならではの心浮き立つ食事である。『カルテット』の食卓をつくりあげてきたのは、フードスタイリストの第一人者、飯島奈美。
そして食卓に並ぶ唐揚げとレモン。最後、すずめは唐揚げにレモンを思い切り絞ってみせた。唐揚げにレモンをかけるかかけないかという気配りも大切だが、無神経ぶりをお互いに笑い飛ばせる信頼も大切だ。
司と諭高がお互いのことを苗字ではなく「司くん」「諭高さん」と呼び合っているのは、真紀が帰ってきても不自然にならないようにしているのではないかという指摘がツイッターであった。諭高に呼び名を聞かれた真紀が「真紀でいいですか」と答えた後、諭高は「やっぱりそうでしょ」と言わんばかりに司のほうを見る。「巻さん」から「真紀さん」へ。一つ屋根の下、同じシャンプーを使い、同じ食卓を囲み、苗字ではなく名前で呼び合う。まるで家族のようだ。
家族といえば一つ残念だったのは、最終話に真紀の元夫である幹生(宮藤官九郎)とその母・鏡子の出番がなかったことだ。真紀のことを案じていた幹生ならコンサートに駆けつけるのでは……とも思ったのだが。しかし、よく考えてみれば、「普通の女性になりたい」という真紀の願いを踏みにじった幹生が、その後の世間のバッシングを正視できるわけがない。のこのことコンサート会場に顔を出すなんてことができるはずもない。きっと遠い空の下で、自分が真紀にしたことを悔い続けているのだろう。
家族の話とは関係ないが、鮮烈だったのは「ノクターン」をクビになった有朱(吉岡里帆)である。最終回で有朱は玉の輿に乗って「人生、チョロかった! あはははは!」と高らかに笑ってみせた。有朱には有朱の生きる道がある。それでいいのだと思う。
『カルテット』の大きなテーマは「人生の讃歌」だ。これは脚本の坂元裕二が明言している(彼のインスタグラムより)。そして大きなモチーフになっているのが「人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして“まさか”」。これはプロデューサーの佐野亜裕美が記している(オフィシャルサイト)。
30代も半ばにさしかかり(すずめはまだ30だけど)、夢が叶わず、家族からもはぐれた“下り坂”の4人が“まさか”の出会いを経て、困難を乗り越え、最終回では夢を捨てることなく「好き」の力を使って夢の沼を突き進むことを選んだ。
最終回とはいえ、何かが落ち着いたわけではない。8話で描かれた片思いはそのままだし、彼らの城ともいえる別荘も「FOR SALE」で宙ぶらりんのまま何よりカルテットドーナツホールがこれから夢をかなえるかどうかもわからない。いや、手紙の主にあれだけ言われているんだから、きっと無理なんだろう。
それでも音楽と人生は不可逆だ。愛すべき仲間と家族のようなパーティを組み、エンストしたり、道に迷ったりしながら、そんなトラブルを笑い飛ばしながら前に進む。目的地にたどりつかないかもしれないが、それもまた人生だ。世の中の役に立たない者たちが集まる童話「ブレーメンの音楽隊」で、動物たちは目的地のブレーメンにたどりつかず、4匹で楽しく暮らすというエンディングを迎えた。パセリのように人生に無駄なことなんて何もない。センキューパセリ。
(大山くまお)
好きな人と好きなことをやりながら生きることに対する力強い肯定。家族のしがらみとか社会の常識とか匿名のヘイトなんかに屈しない生き方。それはものすごく大変で困難が伴うものだ。だから『ドラゴンクエスト』のモチーフが繰り返し示されていたのだろう。人生は不可逆でリセットボタンのない冒険だ。
真紀(松たか子)、すずめ(満島ひかり)、司(松田龍平)、諭高(高橋一生)の4人はカルテットドーナツホールというパーティを組んで冒険の旅に出た。パーティはなかなか上手くいっているようだ。エンディング、ワゴンの中で主題歌「おとなの掟」を歌っている4人の姿の多幸感と解放感たるや!
世間VSカルテットドーナツホール
最終話は9話で真紀が警察に連行されてから半年後の夏から始まる。住民票や免許証を不正に取得した罪で起訴された真紀だが、その後、義父の死に関する疑惑がセンセーショナルに報じられ、「疑惑の美人ヴァイオリニスト」として超有名人になっていた。真紀の頭には白髪が目立つ。
一方、司は真紀の代役として大橋絵茉(松本まりか)というヴァオイリニストを呼び、カルテットドーナツホールの活動を再開しようとするが、着ぐるみ姿で肉の日に演奏する仕事と聞いた大橋は激昂する。
大橋「恥ずかしいと思わないんですか? みなさん、椅子取りゲームに負けたのに、座っているふりしているだけですよね」
真紀とは対照的に声が大きく、はきはきした大橋は何事も白黒はっきりさせるという価値観を持っているようだ。勝ちか負けか、正しいか間違っているか。彼女は社会の常識の代弁者のようでもある。結局、大橋はあっという間に別荘を去る。
真紀について大きく報道されたことで、司が“世界の別府ファミリー”のその他1名であること、すずめが日本中を騒がせた“嘘つき魔法少女”であることも露見していた。諭高について触れた記事がなかったというのが悲しい。元Vシネ俳優なのに。
真紀に執行猶予の判決が下ると、カルテットドーナツホールのウェブサイトには悪意のコメントが殺到した。「犯罪者が演奏する音楽なんて」「お金返して!」「演奏家のクズですね」……。このような匿名の罵倒は、ウェブの世界では見慣れた光景である。
匿名の意見はだいたい極端で、最高か最低か、善人か犯罪者か、偉人かクズか。大橋、マスコミ、匿名の人々。ひっそり暮らしていたカルテットドーナツホールが、真紀の事件をきっかけに白黒はっきりつけたがる世界の人々に見つかってしまったかのようだ。
真紀さんのこと
裁判が終わっても、真紀は別荘に帰ってこなかった。もう真紀が戻ってこないと思った司はカルテットドーナツホールの解散を提案する。
しかし、すずめはそれなら預かったヴァイオリオンを真紀に返したいと言う。これまでのやりとり(特に3話と9話)で、すずめと真紀は強い結びつきを得ていた。すずめはWi-Fiがつながったままだと信じている。3人は真紀が暮らしている団地を探し出し、団地の真ん中で演奏して真紀をおびき出そうとする。音楽でおびき出すって、童話っぽい。
最初、真紀は生活音(洗濯機の音)と外部からの嫌がらせの音に邪魔されて音楽に気づかない。このとき置かれた真紀の状況そのものだ。生活に追われ、罵倒にさらされ、音楽のない日々。それでも一瞬、風がもたらした偶然によって真紀は音楽に気づく。ベランダで音楽を聴く真紀の顔に、初めて太陽の日が当たる。
すずめのようなサンダル姿で外に飛び出し、これまで幾度となく真紀以外の3人が転んでいたのとは逆に真紀だけが転ぶ。これまでは転ばないように(過去が露見しないように)慎重に生きてきた真紀が、今は音楽の前に無防備のように見える。
おなじみの「Music For A Found Harmonium」で子どもたちの歓声を集めるすずめ、司、諭高。それを見ている真紀からも笑みが零れる。真紀から「好き」が零れた瞬間だ。真紀を軽井沢へ連れて帰ろうと抱きつくすずめ。そして諭高がバックハグ! 幸せそうな演奏シーンでちょっと緩んだ涙腺が、ここでまた緩む。仲が良い大人たちっていいなぁ。
ちなみにこのシーン、リハーサルでは司役の松田龍平が「俺は?(笑)」とアピールして、4人で抱き合うシーンも演じてみたのだとか。しかし、「4人だと甘いというかクリアになっちゃうかな」(土井裕泰監督)ということで台本通り3人で抱き合うことになったそう。
でも、やるんだよ!
キリギリスとしての自分を捨てつつある仲間に対して、真紀は大きなホールでコンサートを開くことを提案する。集客のためには好奇の目など「なんでもありません」と胸を張るのは、彼女なりに3人を甘やかしているつもりなのだろう。自分を受け入れてくれた3人へのお返しだ。
そんなとき、カルテットドーナツホール宛に匿名の手紙が届く。手紙の主は4人の演奏を聴いたことがあり、「奏者として才能がない」と断じていた。
「世の中に優れた音楽が生まれる過程で出来た余計なもの。みなさんの音楽は煙突から出た煙のようなものです。価値もない。意味もない。必要ない。記憶にも残らない。私は不思議に思いました。この人たち、煙のくせに、何のためにやっているんだろう。早くやめてしまえばいいのに」
夢中でコンサートの準備をする4人の映像が流れる中、手紙の主は問いかける。
「教えてください。価値はあると思いますか? 意味はあると思いますか? 将来があると思いますか? なぜ続けるんですか? なぜやめないんですか? なぜ? 教えてください。お願いします」
ああ、これは自分の話だ、と思った視聴者も少なくないんじゃないだろうか。筆者は自分の話だと思った。ヘタクソな文章を毎日書き続けているのは、なぜなんだろう。「やめちまえ」とネットで罵声を浴びながらも続けているのはなぜなんだろう? お金のため? 夢のため?
ついに始まったコンサート。4人はそれぞれの思いを乗せて精一杯弾く。『カルテット』の名シーンが次々と蘇える。客席から舞台に空き缶が飛ぶ。それでも4人は集中している。
4人が初めて出会ったカラオケボックスでの会話が蘇える。自分の気持ちを音になって飛ばす。飛べ、飛べ、届け! その感じがたまらなく好きだから演奏を続ける。価値がなくても、意味がなくても、必要がなくても、人々の記憶にも残らなくても。
音楽家だけでなく、すべての創作や表現に取り組んでいる人、いや、何か一生懸命取り組んでいるものがある人にあてはまる話だと思う。まわりに何か言われても、才能がないと気づいても、「でも、やるんだよ!」という気持ち。「自分たちが楽しければいい」という気持ちでは、相手に何も届かない。
演奏が終わっても野次馬だらけの客席からはまばらな拍手しか起こらず、それどころか客は次々と席を立つ。でも、たしかに音楽を楽しんでいる人たちもいる。1話でショッピングモールでの演奏を聴いていた学生2人組が写ったとき、胸が熱くなった。
すずめ「届く人には届くんじゃないですか。その中で誰かに届けばいいんじゃないですか。一人でも二人でも」
まるで『カルテット』というドラマそのもののようだ。
自由を手にした僕らはグレー
ドラマには最後まで解決されないミステリーがある。それは真紀が義父を手にかけたのか、かけなかったのかという部分だ。
真紀はコンサートの1曲目にシューベルトの「死と乙女」を選ぶ。疑惑の渦中にある身としては際どい選曲だろう。すずめに意図を聞かれた真紀は「零れたのかな」と一言。そして鏡越しにすずめに言う。
真紀「内緒ね」
何が零れて、何が内緒なのか――。あいまいなまま、ドラマはエンディングに向かう。白黒つけたいという世界の欲望から離れた場所で、4人はグレーのままでいる。
『カルテット』は繰り返し、白黒つけなくてもいい、グレーでいい、と語り続けてきた。物語の核にある事件もあいまいなら、お互いの恋愛感情もあいまいなまま。椎名林檎による主題歌「おとなの掟」の歌詞にあるとおりだ。
「そう人生は長い、世界は広い 自由を手にした僕らはグレー」
すずめが好きな天気はグレーの曇り空で、彼らの音楽はグレーの煙のよう。映画・音楽ジャーナリストの宇野維正氏の指摘にならうと、コンサートに現れた女性の帽子の「G」はグレーの「G」ということになる。
グレーの部分を大切にすることは、むやみに白黒つけたがる人たちへの対抗手段にもなるし、仲間たちと一緒に人生を前向きに進むときにもとても役に立つ。
食卓を囲み、名前で呼び合う“家族”
最終回は食事のシーンが何度も登場した。真紀が一人で食べる卵かけご飯は『カルテット』における寂しい食卓の象徴だ。1話では夫の帰りを待つ真紀が、5話では息子に逃げられた鏡子(もたいまさこ)が一人で食べていた。
真紀のいない食卓でのピェンロー鍋はどこかギクシャクしている。すずめと司のしらたきをハサミで切ってやる諭高の優しさが印象的だ(そして自分のしらたきは誰にも切ってもらえない)。真紀が帰ってきてからのチーズフォンデュは『カルテット』ならではの心浮き立つ食事である。『カルテット』の食卓をつくりあげてきたのは、フードスタイリストの第一人者、飯島奈美。
そして食卓に並ぶ唐揚げとレモン。最後、すずめは唐揚げにレモンを思い切り絞ってみせた。唐揚げにレモンをかけるかかけないかという気配りも大切だが、無神経ぶりをお互いに笑い飛ばせる信頼も大切だ。
司と諭高がお互いのことを苗字ではなく「司くん」「諭高さん」と呼び合っているのは、真紀が帰ってきても不自然にならないようにしているのではないかという指摘がツイッターであった。諭高に呼び名を聞かれた真紀が「真紀でいいですか」と答えた後、諭高は「やっぱりそうでしょ」と言わんばかりに司のほうを見る。「巻さん」から「真紀さん」へ。一つ屋根の下、同じシャンプーを使い、同じ食卓を囲み、苗字ではなく名前で呼び合う。まるで家族のようだ。
家族といえば一つ残念だったのは、最終話に真紀の元夫である幹生(宮藤官九郎)とその母・鏡子の出番がなかったことだ。真紀のことを案じていた幹生ならコンサートに駆けつけるのでは……とも思ったのだが。しかし、よく考えてみれば、「普通の女性になりたい」という真紀の願いを踏みにじった幹生が、その後の世間のバッシングを正視できるわけがない。のこのことコンサート会場に顔を出すなんてことができるはずもない。きっと遠い空の下で、自分が真紀にしたことを悔い続けているのだろう。
家族の話とは関係ないが、鮮烈だったのは「ノクターン」をクビになった有朱(吉岡里帆)である。最終回で有朱は玉の輿に乗って「人生、チョロかった! あはははは!」と高らかに笑ってみせた。有朱には有朱の生きる道がある。それでいいのだと思う。
『カルテット』は人生の讃歌
『カルテット』の大きなテーマは「人生の讃歌」だ。これは脚本の坂元裕二が明言している(彼のインスタグラムより)。そして大きなモチーフになっているのが「人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして“まさか”」。これはプロデューサーの佐野亜裕美が記している(オフィシャルサイト)。
30代も半ばにさしかかり(すずめはまだ30だけど)、夢が叶わず、家族からもはぐれた“下り坂”の4人が“まさか”の出会いを経て、困難を乗り越え、最終回では夢を捨てることなく「好き」の力を使って夢の沼を突き進むことを選んだ。
最終回とはいえ、何かが落ち着いたわけではない。8話で描かれた片思いはそのままだし、彼らの城ともいえる別荘も「FOR SALE」で宙ぶらりんのまま何よりカルテットドーナツホールがこれから夢をかなえるかどうかもわからない。いや、手紙の主にあれだけ言われているんだから、きっと無理なんだろう。
それでも音楽と人生は不可逆だ。愛すべき仲間と家族のようなパーティを組み、エンストしたり、道に迷ったりしながら、そんなトラブルを笑い飛ばしながら前に進む。目的地にたどりつかないかもしれないが、それもまた人生だ。世の中の役に立たない者たちが集まる童話「ブレーメンの音楽隊」で、動物たちは目的地のブレーメンにたどりつかず、4匹で楽しく暮らすというエンディングを迎えた。パセリのように人生に無駄なことなんて何もない。センキューパセリ。
(大山くまお)