■極私的! 月報・青学陸上部 第26回

 キャプテンの安藤悠哉(4年)がトップで大手町に戻ってきた。

 フィニッシュラインで一色恭志(4年)とともにタオルを持って待っていた茂木亮太(4年)は「あんどー」と大きな声を上げた。4年生の同志として1年間ともに頑張ってきた安藤がアンカーとしてトップで戻ってきてくれたことが本当にうれしかった。ゴールに飛び込み、崩れるように落ちた安藤をしっかり支えた。箱根駅伝を走ってきたという重みをずっしりと感じた。

――勝ててよかった。でも、やっぱり走りたかったな。

 これまで何度も拭い去った思いが最後にもう一度、膨らんだ。

 箱根駅伝3連覇を達成した青山学院大。箱根駅伝は16名がエントリーされ、10名が出走。6名が残念ながら箱根を走ることが叶わなかった。茂木は、そのひとりだ。

 今シーズンは故障もなく、無事に夏季合宿を終えることができた。出雲駅伝前の学内TT(タイムトライアル)では1位になり、そのままの勢いで出雲駅伝5区を走り、優勝に貢献した。原晋監督には「長い距離を練習して10区を走れるようにやってくれ」と言われた。このまま初の箱根駅伝出走に向けて、いい流れができたかに見えた。

 ところが突然、調子が暗転した。

「出雲から帰ってきて1、2週間後の練習中にエネルギー切れのようになって、初めて止まったんです。今まで入学してから、そんなことは一度もなかった。それからは故障もしていないのに、ふつうのジョグさえキツくなってしまいました。全日本、箱根も中心になってやっていこうと思ったんですが、その思いとは裏腹に最悪というぐらい走れなくなって......。何なんだって、かなり戸惑いました」

 11月、箱根駅伝の登録メンバーを決める選考レースが2つあった。世田谷ハーフマラソンと10000m学連記録会である。ここで結果を出さなければ、茂木の箱根挑戦はゲームオーバーになるが、ここで終わらせるわけにはいかなかった。昨年の箱根駅伝は10区にエントリーされたが、直前に4年生と交代させられたのだ。

「あの時は涙が出るほど悔しかったです」

 その悔しさを噛みしめ、次の箱根は必ず走ると心に誓ったのだ。茂木はその思いを込めて懸命に走った。世田谷ハーフは65分49秒と平凡なタイムで17位に終わったが、学連10000mでは29分14秒でシーズンベストを出した。ギリギリで結果を出し、なんとか箱根登録メンバー16名に滑り込んだ。

 しかし、12月上旬の富津合宿では、アピールを十分にすることができずに終わった。

「その時点で難しいなというのは感じていました。僕はこれまで箱根で成績を残しているわけじゃない。そういう選手は選考を勝ち抜いていくしかないんですけど、11月にいい結果を残すことができなかったですし、富津合宿でも(監督に)使ってみたいと思わせるような走りができなかった」

 年末に発表された区間エントリーには名前がなく、同じ補欠には安藤、下田裕太(3年)、田村和希(3年)らエース級の名前が並んでいた。茂木にとって最後の箱根はほぼ絶望になった。

 レースの日、往路では5区の貞永隆佑(3年)のサポート役についた。全日本大学駅伝の時は初駅伝の森田歩希(2年)につき、「ここで頑張ればヒーローになれるぞ」と声をかけてリラックスさせた。その声が森田の区間賞を獲る快走を生んだひとつの要因にもなった。貞永も箱根初挑戦で緊張していたので、「復路に強い選手がいるから、負けてもいいから頑張ってこい」と声をかけた。

 だが、全日本の時とはちょっと違う自分の気持ちに気がついた。

「サポートしながらも気持ち的に、やはりモヤモヤしていました。やっぱり、監督やみんなの期待に応えて、5区か10区を走りたかった。ただ、ケガとかで全日本や箱根の選考レースに出られなかったわけではないですし、調子が悪くなったのは自分の責任。レース、合宿とすべて挑戦したうえでダメだったので悔いはないです。でも、悔しい。それはずっと消えなかったですね」

 モヤモヤしていた茂木の重たい気持ちを振り払ってくれたのは、田村和の走りだった。7区の区間賞を獲る勢いでスタートしたが途中で脱水症状になり、フラフラになった。襷(たすき)が途切れる可能性もあったが、我慢して懸命に走り続ける姿が茂木の胸を打ったのだ。

「あれは田村だから最後までいけた。本当によく最後まで頑張ったなと思います」

 移動中、LINEで下田が2位との差を広げているという情報が流れた。ホッとしながら、キャプテンの安藤のゴールを待ち受けるために大手町に向かった。ゴール地点に着いた時、モヤモヤした気持ちはスッキリと晴れていた。そして、安藤の名前を叫んだ。
 
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 吉永竜聖(3年)は、8区に区間エントリーされながらも箱根出走が叶わなかった。

 吉永は昨年11月の全日本大学駅伝で駅伝デビューを果たした。期待されて3区を走ったが区間5位と今ひとつの出来で、原監督からは「誤算」と厳しい評価を下された。そのため「追試」となった世田谷ハーフマラソンでは、3位に入る健闘を見せた。箱根駅伝16名のメンバー入りを果たし、「アピールしまくります」と箱根出走に燃えていたのだ。

 しかし、12月の富津合宿中、シンスプリント(下腿の内側)の痛みが増した。

「実は世田谷ハーフの時からちょっと足が痛かったんです。でも、僕は当落線上ギリギリの選手なので、練習強度が高くなって痛みが増してきても箱根に出るためにやらないといけなかった。最終的に自分の力が足りない分、無理をして故障してしまいました。悔しい気持ちがありましたけど、完全に自滅でした」

 12月には神経痛も出て、箱根を完全にあきらめざるを得なかった。あと少しで走れるところまできたが、最後の一歩が足りず、運もなかった。

 箱根本番では8区の下田のサポートについた。箱根のメンバー登録をされた今回のサポートは、昨年と比べると違う風景に見えたという。

「今回、下田を担当しましたけど、箱根を走れるメンバーに入った中でのサポートだったので、自分の代わりに走る選手に頑張ってほしいという気持ちでサポートすることができました。もちろん走りたかったですし、悔しい気持ちもありました。だから、来年は絶対に箱根を走りたいと今まで以上に強く思いましたし、そう思えたのは1年間頑張って、青学のレギュラー争いができるところまで成長できたからだと思います」

 下田を送り出した後、フラフラになってゴールした田村和に付き添って病院に行った。田村でなければ止まっていただろう。襷をつなぐために最後まであきらめずに走り抜いた田村の気持ちに熱いものを感じた。

「そういう気持ちで僕も来年、箱根を走りたいです」

 走る経験はできなかったが、走った選手の気持ちを感じることはできた。苦しい時こそ粘って、粘って走り切る。それを改めて感じられたことは、走れなかった箱根で得た最高のギフトだった。

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 中村祐紀(3年)は、寮でのミーティングで区間エントリーが発表になった時、声を失った。

 2016年の箱根で、青学は10区間中6名の選手が区間賞を獲得する快走を見せた。そのなかで9区を走った中村祐は区間7位に終わった。チームは箱根2連覇を達成したが、個人的には歯がゆい結果に終わり、今年こそ9区でリベンジを果たす気持ちで、春先から練習に取り組んできた。

 夏季合宿は故障のために選考合宿から外れ、出雲駅伝にもエントリーされなかった。だが、全日本大学駅伝で復帰し、7区を走った。序盤の5kmを突っ込み過ぎて後半に失速、区間5位と自分の走りができなかったが、すぐに箱根に向けて気持ちを切り替えた。海外のレースにも参加し、富津合宿でも好調を維持して箱根登録メンバーに入った。

 ところが区間エントリーは9区ではなく、10区だった。

「秋山(雄飛)さんの調子がまだわからない状態だったので、それで10区に入ったんですけど、自分が行くなら、最初から9区にエントリーされるかなって思っていたので......。まぁわかる人が見れば僕の置かれた状況が厳しいというのはわかったでしょうね。でも、10区と言われた以上、そこで頑張って区間賞を獲る気持ちで走ろうと切り替えました」

 往路での優勝を果たした後、復路を走るメンバー表に中村祐の名前はなかった。アンカーにはキャプテンの安藤悠哉が入り、中村祐はそのサポートに回った。

「全日本以降、ケガもなくて体調もよく、万全の状態で箱根に挑めたんですが、最後に使ってもらえなかった。悔しいですが、それが今の自分の実力です。大学スポーツでは実績が重視されますし、その実績に監督の信頼も比例すると思うので、その点で走った選手と比較すると、僕は足りなかった。3連覇するチームでは、簡単には箱根に出させてくれない。厳しい現実を突きつけられた気がしました」

 中村祐は厳しい表情でそう言った。

 その視線は、すでに次に向けられている。来シーズンは中村祐たちが最上級生になるが、自分たちの代に確かな手ごたえを感じているという。

「今回の箱根では下田、田村和、貞永が走り、僕と吉永がエントリーされました。3年生が5名と今までで一番多く箱根のメンバーに絡めたので、学年を通して盛り上げることができたと思います。ただ、走ったのが3人ですからね。5人で走りたかったですし、それが来年の目標です。来年のチームは僕らの色に染めていきます」

 中村祐には2歳下の弟・友哉が1年にいる。昨年の秋から調子を上げ、「スピードランナーで質が非常に高い。今後が楽しみ」と原監督が絶賛している。中村祐も友哉がランナーとして自分たちの代に食らいついてくることを期待している。

「1年間で、あいつがどのくらい伸びてくるのかわからないですけど、理想は2人で箱根を走ることです。来年しかチャンスがないですが、その前にまず自分です。箱根の悔しさは箱根で晴らすしかない。その箱根を走るには無難じゃなく、爆発力がないとダメ。今年は東京マラソンからスタートして力をつけ、1年間頑張って、いい流れに乗って最後に箱根で借りを返せたらいいかなと思っています」

 補欠経験が多く、ここまで反骨心でやってきた。"悔しい経験"をまたひとつ重ねたが、これを最後にするつもりだ。

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 茂木、吉永、中村祐の3人以外では村井駿(4年)、林奎介(2年)、鈴木塁人(1年)が、エントリーされつつも箱根を走ることができなかった。鈴木は足を故障し、林は箱根を走る力が足りなかった。

 村井は留年し、昨春に卒部することも考えたがチームに残った。2、3年時に連続して6区を走り、昨年も6区を走るつもりで調整していた。しかし、箱根の2週間前に肺気胸になり、出走を断念。悔しくて涙が止まらなかった。あれから1年、今回も箱根を走れなかったが不思議と悔しさはなかったという。

「5年目のシーズンを始める時から6区は小野田が走るだろうというのは覚悟していました。それでも続けたのは、陸上人生最後なので自分にけじめをつけ、やり切って終わりにしたかったからです。昨年は病気になってから、箱根まで悔しくて泣いてばかりいた。今年は直前の2週間を笑顔で過ごせた。アスリートとして悔しさがあまりないのはどうかなって思いますけど、優勝もしたし、本当にやり切ることができました」

 5年生ゆえに各世代との関わり方も自分なりに考えた。最上級生よりも下級生を盛り上げることに徹した。その姿勢は箱根駅伝の記者会見で一番笑いを取ったスピーチにも表れていた。村井は走れなかったが、チームにおける自分の役割を全うしたのだ。

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 箱根を走れなかった6人の悔しさは、走った選手に伝わっていたはずだ。あいつがあれだけ頑張ってきたのだから、あの先輩があれだけやっていたんだから。その思いが力になり、足を前へ前へと進めさせてくれた。6人が果たした役割はサポートだけではなく、快走した選手の一歩になっていたのだ。

 6人の選手、そして寮にいた選手たち、彼らに支えられてチームはひとつにまとまり、「史上最強」と言われた昨年のチームをしのぐ3冠を達成、箱根3連覇を成し遂げたのである。

佐藤 俊●文・写真 text by Sato Shun