根本陸夫伝〜証言で綴る「球界の革命児」の真実
連載第1回

【証言者・森繁和(1)】

 2004年から中日のコーチを務め、参謀として8年間、落合博満監督を支え続けた森繁和。チームはAクラスの座を守り続けた中で、4度のリーグ優勝、1度の日本一を達成し、指導者として確固たる実績が作られた。森は2011年限りで落合監督とともに退団。野球評論家となって刊行した二冊の著書には、「根本陸夫」の名が何度も登場している。1999年の逝去から15年が経った今も、強いチームには根本の遺産が生きている、と感じられた。そして昨年のオフ、森はヘッドコーチとして中日に復帰。今度は落合GMのもと、谷繁選手兼任監督を支える野球人となった。その森に、根本陸夫という存在について聞いた。

■マスコミの注目を集めるためのスター選手獲得

「根本さんはオレにとって、消すことのできない人。西武ができていちばん初めのドラフト1位だったから、結構いろんな面でいろんなことを教わりました。野球に関してはもちろん、一般社会人としてもね。だからいつも『オヤジ』と呼ばせてもらって、慕っていました」

 駒沢大時代、1976年のドラフトで、森はロッテから1位指名を受けるが拒否。住友金属に入社し、社会人でプレイして2年後、"江川問題"で大混乱となった1978年のドラフトで、クラウンライターから経営権を譲渡された新生球団・西武に1位指名されてプロ入りを果たした。

「担当のスカウトは、元東映で"ミスターフライヤーズ"と呼ばれた毒島章一(ぶすじま・しょういち)さん。ずっと誘われていたんだけど、クラウンは九州だったから、関東の球団を希望していた自分は行くつもりはなかった。それが西武に身売りとなって、指名された後、監督の根本さんがわざわざ家まで来られて、親父に挨拶してくれた。『息子さんを実の子どもだと思って預からせていただきます。私に任せてくれれば大丈夫ですから』って言われて、親父は『はあ、じゃあ、頼みます』って。オレ自身の考えはどうでもいい、って感じでしたね」

 クラウンの監督だった根本は、西武の監督に就任すると同時に球団管理部長に任命されていた。すなわちコーチ陣の編成から新人のスカウト、トレード、外国人選手の獲得、契約更改の査定に至るまで、チーム作りのあらゆる部門に権限が与えられていた。とりわけ、1978年のオフに目立ったのは大型トレード。阪神の田淵幸一、古沢憲司、ロッテの山崎裕之を獲得し、さらにロッテからは45歳になる野村克也が加入した。

「確かに顔ぶれはすごかった。いつもテレビで見ていた田淵さんがいて、ノムさん、山崎さんがいて、土井正博さんがいて。当時のパ・リーグって、ほとんどテレビに映らなかったけど、ノムさんはよく見ていたからね。こんなすごい人たちと一緒に野球できるんだ、と思いましたよ。でも、そのためにすごい選手を出している。真弓明信、若菜嘉晴をはじめ、『さあ、これからだ』っていう若い選手を出して、スター選手を獲ったわけ」

 根本には、「東京、首都圏に来た以上はマスコミを利用しなくちゃいけない」という方針があった。そのための「顔」が田淵であり、野村、山崎であり、目玉選手だったのだ。

「スターであってベテラン。特にノムさんは最年長で、動けない、投げられない。ただ、これはもうわかって獲っているわけで、だいたい、南海ではプレイングマネージャーだった人ですから。実際、根本さんは『野村、ちゃんと指導も頼むよ』と言っていたし、そういう面は、うまく利用していたと思いますよ」

 一方で根本は、森繁和とドラフト外で獲った松沼博久・雅之の兄弟を合わせたルーキー3投手もひとつの売りにしていた。記念すべき1979年のオープニングゲームは4月7日、日生球場での近鉄戦。開幕投手は東尾修が務め、早くも2戦目に森が先発でプロ初登板。松沼兄もローテーションに入っていた。

「でも、いざ始まってみたら弱かったね(笑)。開幕12連敗とか......。『アマチュアより弱いんじゃないか?』っていうチームだった。根本さんも、特に選手たちを束ねてまとめようとしていなかったし、監督としてはとんちんかんなところもありましたよ」

■選手をその気にさせるのがうまかった

 ある日の近鉄戦、前日に先発して"上がり"の森だったが、「若いから」という理由でベンチに入るよう指示された。他の投手とともに監督の隣に座り、試合を見ながら雑談的な話をしていると、根本が立ち上がった。

「柴田保光さんが投げていて、これはもう交代だと。根本さん、トコトコと審判のところに行って話しているとき、『ピッチャー、代わって森』って聞こえたような気がしたんけど、それはないだろうなと。オレはベンチにいて準備してないし、上がりだし。ところが根本さん、間違って言っちゃったらしいんだよね(笑)。ベンチに戻ってきて、オレと目が合った瞬間、『ああっ!』って言って引き返したけど、もうダメだった」

 すでにブルペンからはリリーフカーが発進し、松沼弟がマウンドに向かっていた。その途中に場内アナウンスで「代わりまして、ピッチャー、森」。リリーフカーはUターンし、森はあわててスパイクに履き替え、マウンドでウォーミングアップを始めた。相手バッターは小川亨。幸い、「絶対にワンストライクまで打たない」という特徴があったため、とにかく初球、真ん中目がけてストライクをとれた。それで結果、外野フライでチェンジとなり、事なきを得てベンチに戻ると根本が言った。「わりぃわりぃ、シゲ。風呂入っていいからもう帰れ」と。

「さすがに悪いと思ったんでしょう。帰ろうとしたら『ここ行って、飲んでいいから』ってメモ用紙を渡してくれました。でも、じつはそれで終わりじゃなくて、ユニフォーム脱いだらマネージャーが走ってきて、『シゲ、そのまま行くって!』『ええっ!』って、また着て。逆転したから続投だと。それでベンチに行ったら、もう古沢さんがマウンドに上がっている。『やっぱりいいわ』って言われたときには参ったね(笑)」

「とんちんかん」とは違うが、森自身、1年目の5月に中1日で先発を命じられている。その時の1試合目、序盤に3点、4点と取られて「もういい、交代!」となっていた。そして翌日の試合にも森は先発のマウンドに上がった。

「いま思えば、根本さんは選手をその気にさせるのがうまかった。『打たれてショックだったら、もう一回行け!』と、そういう教え方の人でした。これは自分自身、コーチとして、向かってくるような性格のヤツにはそういう教え方も必要だなって思ってやってきました。そういう意味では、オレの性格も何もかも、根本さんに全部読まれていたかなと。うまいように使われているな、っていうのはところどころで感じていましたね」

つづく

(=敬称略)

高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki