鈴木明子インタビュー 後編

── 浅田真央選手には、引退の噂もあります。高橋大輔選手は1年間の休養を発表しました。現役を続けるか、引退するかを迷う選手に対してアドバイスはありますか?

鈴木 それぞれにスケートに対する思いがあって、すごく迷うと思います。そんな選手には、「今しかできないこと」は何かを考えてほしい。

 続けるか、やめるか──。最後は、本人の決断です。大事なのは本人の気持ちですから、答えを急かされるようなことがあってはいけない。まわりの人は、そっと見守ってあげてほしい。

 私はバンクーバー大会が終わってからも現役を続けましたが、「ソチを目指そう」と決めたのは、オリンピックの1年前でした。その間も「オリンピックを目指しますよね?」と何十回、何百回と聞かれましたが、「そうじゃないのになあ......」と思っていました。オリンピックは大きな大会ですが、それだけのために滑っているわけではありません。

── やめることはいつでもできますよね。

鈴木「すぐに結論を出さない」という選択肢があってもいいんじゃないでしょうか。これまでがんばってきた選手には、最後で後悔をしてほしくありません。じっくりじっくり考えてほしいですね。多くの人と出会って、いろんなものを見たときに、考えが変わるかもしれません。自分の気持ちに正直になって、自分自身に向き合って、「自分が何をしたいか」を徹底的に考えてほしい。

 私が「これでやめよう」と思えたのは、次にやりたいことが見つかり、自分のビジョンが見えてきたから。フィギュアスケート選手のほとんどは、スケートだけをずっと続けてきているわけですから、それをとったら全部がなくなってしまう。次の目標や夢が見つかったときに、それと競技への情熱を比べてみればいいと思います。

 私は、自分の将来を考えたときに、「今、がんばろう」と思いました。コーチたちからも、「自分のキャリアが次の世界につながるよ」と言われました。オリンピックに出ることもメダルをとることも、自分が今後やりたいことの可能性を広げてくれるもの。プロスケーターになるため、プロの振付師になるための、ある意味、「就活」ですよね。

 自分の未来は、「今をがんばること」でしか見えてこない。プロのスケーターになりたければ、ショーに呼んでもらえるスケーターにならなければならない。もしコーチになりたいなら、コーチをしてほしいと思われるような選手にならなければいけません。今後の活動を考えて、残りの選手生活で「これをやろう」と決めれば、より可能性は広がるでしょう。

 長く競技生活を続ければ続けるほど、情熱を注げば注ぐほど選手は、引退=人生の終わりと感じてしまうものですが、引退は人生の終わりではありません。「もっとやりたいこと」が見つかるまでは、競技を続けてもいいのではないでしょうか。

── 鈴木さんは、4月に初めての著書『ひとつひとつ。少しずつ。』を出版されました。

鈴木 はい。これまでの22年間のスケート人生で得たものを、本という形でみなさんに伝えられたらいいなと考えました。発売直後から多くの方に読んでいただき、大変うれしく思います。もちろん、フィギュアスケートを好きな人が多いのですが、読者の方からは「スケートファン以外の人に読んでもらいたい」という声をよく聞きます。私が本を出した狙い通りなので、うれしいです。

── 通常のスポーツノンフィクションとも、いわゆる自伝とも違っていますね。

鈴木 そうですね。私は今回、偉そうに本を出しましたが、私の体験はひとつのケースにすぎません。人はみんな、いろいろな悩みを抱えて生きています。小さな悩みから、絶望的に思える悩みまでさまざまでしょう。この本は、学校や仕事で苦しんでいる人、つらい人、がんばっているのに成果が出ない人に読んでほしい。

 すばらしい自己啓発本はたくさんありますが、私の経験を読んでもらうことによって、何かしらのヒントになればいい。誰かがつまずいたときにちょっとした支えになれるような、悩んでいる人の背中にそっと手を添えてあげられるような、そんな本になればいいですね。

── どうして『ひとつひとつ。少しずつ。』というタイトルになったのですか?

鈴木 それは私がずっと、そんな生き方をしてきたからです。ジャンプを覚えるときでも、なにかを変えるときでも、私は時間がかかるタイプです。ちょっと教えられただけですぐできる人もいますが、私はそうではありません。人の何倍も練習してやっと習得できます。だから、ひとつひとつ、少しずつ、積み重ねてきました。

 今できることを一生懸命にやらなければ、未来にはつながりません。たしかに、自分がやれることを少しずつやっていくことは、すごく根気がいります。「嫌になりませんか?」とよく聞かれますが、嫌になるもならないも、私にはそういう生き方しかできませんから。

── 日常生活で、どうしてもうまくいかないことや、どうしても気分がのらないときがあります。そんなときはどうすればいいでしょう?

鈴木 生きていれば、うまくいかないことも、前に進めないときもあります。一生懸命にがんばっている人ほど、つらい思いをするかもしれません。そんなときには、小さなことでいいので感謝してください。「ありがとう」と思うことで気持ちが変わるからです。本当に小さなことでいいんです。

 つらいときに大切なのは、笑うことです。笑顔で誰かに接すれば、きっと笑顔が返ってきます。つらいときに笑うことなどできないならば、微笑むだけでもいい。それが無理なら、元気よくあいさつをする。それだけで何かが変わります。

── 本の中で、摂食障害で苦しんだ時期について書かれています。

鈴木 はい。大学に入学した直後に体調を崩して、48キロあった体重が32キロまで減ってしまいました。食事が満足にとれなくなる「摂食障害」でした。スケートはもちろん、歩くことも食べることもできません。体力が落ちているので、ぐっすり眠ることも難しい。18歳のとき、いまから11年前のことです。

── その頃、将来、オリンピックに2度も出られるなんて思っていましたか?

鈴木 まったく想像もできませんでした。未来から誰かがやってきて「鈴木明子は2回もオリンピックに出るんだよ」と教えてくれたとしても、信じる人はいなかったでしょう。私自身もそうです。立っているのがやっとという状態でしたから。母には「本当に幽霊みたいだった......」と言われます。そこから立ち直れたのは、ご飯も満足に食べられない私を母が受け入れてくれたから。滑ることもできない私を長久保裕コーチがずっと見守ってくれたからです。

「摂食障害」を克服した私は、ひとつひとつ、少しずつ、階段をのぼっていきました。小学生の頃に簡単にこなせたことさえできなくなっていましたが、「元にもどる」んじゃなくて「進む」んだと考えるようになって、練習が楽しくなりました。

── 病気を経験したことで、変わったことはありますか?

鈴木 それまでの私は、「できないくせに完璧主義」でした。勝手にハードルを上げて、それを越えられなくて自己嫌悪に陥っていたのです。でも、病気になってからは「まあ、いいか」という部分を残すようにしました。

 18歳までの私はやわらかさがありませんでした。ピンと張ったものだけが強さだと考えていたのです。でも、遊びの部分がないと、もろい。だから、意識して「まあ、いいか」を持つようにしたのです。

── 22年間の競技生活は終わりました。今後の目標を教えてください。

鈴木 私は、フィギュアスケートを好きな人をひとりでも増やしていきたい。そのための伝道師になりたいと思っています。オリンピックや世界選手権に出たこと、現役を引退したことは大きな区切りでしたが、長い人生を考えれば通過点にすぎません。競技生活にはピリオドを打ちましたが、体が動くうちはプロのスケーターとして滑り続けます。スケートを通じて、子どもたちに「未来があること」を伝えていきたい。

 そして、私の一番の夢は、世界的な振付師になること。スケートをがんばっている子どもたちに滑る楽しさを伝えつつ、基本的な技術や表現、「演技に心を込めること」を教えていきたいと考えています。

プロフィール
鈴木 明子 Akiko Suzuki
愛知県豊橋市出身。1985年3月28日生まれ。161cm。東北福祉大学卒業。
6歳からスケートをはじめ、15歳で全日本選手権4位となり注目を集める。
10代後半は体調を崩し、大会に出られない時期もあったが、2004年に見事復帰。
2009-2010グランプリシリーズ(中国)初優勝で世界のトップ選手の仲間入りを果たす。同年グランプリファイナルでは3位、全日本選手権では2位となり、念願のバンクーバー五輪代表に。2012世界選手権では銅メダル。27歳での世界選手権メダル獲得は日本最年長となった。ソチ五輪代表選考を兼ねた2013-2014全日本選手権では、会心の演技で13回目にして初優勝、2度目のオリンピック切符をつかむ。そして臨んだ2014年のソチ五輪。初めて正式種目となった団体に日本のキャプテンとして出場(5位)。個人戦では、オリンピック2大会連続の8位入賞を果たした。3月の世界選手権を最後に現役引退。4月に初の著書『ひとつひとつ。少しずつ。』(KADOKAWA/中経出版)を出版。

元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro