セブン銀行社長 
二子石謙輔(ふたごいし・けんすけ)
1952年、熊本県生まれ。77年東京大学法学部卒業後、三和銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に入社。配属は大阪市の城東支店。本店調査部、新宿支店次長、秘書室秘書役、リテール企画部長などを歴任。2003年アイワイバンク銀行(現セブン銀行)に転じ、10年より現職。

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■汚職捜査へ対応 重責も自然体で

1998年1月、金融界は激震に揺れた。前年の暮れ、大蔵省(現・財務省)から天下った日本道路公団(当時)の理事に対する大手証券会社の過剰接待が、東京地検特捜部に摘発された。その後、大手銀行による同省や日本銀行の幹部への過剰接待も追及され、連日、いくつもの銀行名がメディアで飛び交った。そのなかに、秘書室で頭取担当の秘書役を務めていた三和銀行(現・三菱東京UFJ銀行)も、含まれていた。

ついには大蔵省にも家宅捜索が入り、金融検査部門の室長と課長補佐が収賄の疑いで逮捕される。被疑事実には三和によるゴルフや飲食の接待も含まれ、銀行への抜き打ち検査の日取りや対象支店などの情報を、見返りに求めていた、とされた。

全国銀行協会の会長を務めていた三和の頭取が、会長職を辞任し、国会に呼ばれて責任を追及された。やがて、三和にも家宅捜索が及ぶ。できる限り捜査に協力し、何としても逮捕者だけは出ないように願う。そうした一連の対応の、指揮を執る。45歳。まさに重責だった。

ある日、東京・小平の父から、電話が入る。ニュースをみて、心配したらしい。ただ、その言葉は、予想外だった。「銀行と頭取を守るためなら、堂々と入ってこい」と言う。入ってこいとは、留置場や刑務所のこと。そういえば、日ごろから「自分は昔、選挙違反で警察と検事の拘留を合わせ、20日間ぐらい留置場に入れられた。でも、ひと言も話さずに出てきた」などと話していた。そんな父だから、「堂々と入ってこい」などと言う。「女性やカネの問題だったら絶対に許さんが、仕事として堂々とやってきたことならば、銀行と頭取を守るのが務めだ」と言い足して、電話を切った。

たしかに、その後に逮捕された日銀の課長と親しかったから、特捜部に呼ばれて話を聞かれた。でも、捕まるようなことをした覚えはない。ただ、父の電話で、覚悟のようなものができた。以後、すべて謙虚に、自然体でこなし、嫌な役回りも進んでやれた。ときに地検へ出向きながら、銀行全体の黒衣役を果たす。

逮捕者は出ずに済んだが、頭取と会長は翌年5月、辞任した。「赤字決算の責任をとる」との理由だ。バブルの後遺症で各銀行の不良債権が膨らみ、金融危機の嵐が吹いた後だから、赤字は三和だけの問題ではない。だから、辞任に反対したが、そのときしか退場のチャンスはなかったのだろう。「では、秘書役を辞めさせて下さい」と申し出たが、新頭取を支えるように要請される。

人生の折り返し地点とも言える46歳。あのときに秘書室を出ていたら、その後の道のりは違うものになっていただろう。だが、個人的な思いは抑えた。秘書役を続け、金融再編の嵐に巻き込まれ、東海銀行との経営統合に遭遇する。退職して、アイワイバンク銀行(現・セブン銀行)へ入社するという、次号で触れる予想外の転進も待っていた。

「上善如水」(上善は水の如し)――上善とは「理想的な生き方」のことで、それは水のようなものだとする、中国の『老子』にある言葉だ。水は、あらゆるものに生命力を与える存在でありながら、どんな形にも合わせて納まり、自らを主張することもない。誰もが高い地位へ上がりたがるのとは逆に、低いところ低いところへと進み、流れを集めて最後には海という大きな姿にもなる。人間も、そのように自由に、自己主張を控え、みんなが嫌がることも受け止めて生きていきなさい、と説く。父の電話以来、すべてを自然体で受け止め、黒衣役をこなし続けた二子石流は、この教えに重なる。

1952年10月、熊本県・南阿蘇で生まれる。父は旧国鉄の駅員。駅長の娘と結婚後、30代で辞めて「阿蘇から代議士を出そう」という運動に参加した。応援した人が当選し、東京駐在の秘書となり、横浜へ引っ越した。さらに、代議士の要請で東京・小平から出馬した人の秘書を引き受け、小平へ移る。だが、その人が改選前に急逝し、後援会から代わりに出るように頼まれた父は、結局は党の公認がもらえずに落選。次には、都議選へも出馬した。

父は好きなことを続けていたのだからいいが、母の苦労が続く。心臓を悪くして、中学、高校へ通っていたころには、入退院を繰り返す。枕元に酸素ボンベを置いていた姿を、いまも鮮明に覚えている。その期待に応えて東大法学部へ進んだが、ほどなく40歳で亡くなった。

■バブル後の教訓 固定観念捨てる

77年4月、三和銀行に入社。大阪市の城東支店に配属され、本店調査部を経て、東京・堀留支店で支店長代理となる。89年9月に東京本部の企画部渉外班へ異動すると、隣の席に大蔵省との窓口役がいた。同省の英語表記の頭文字から「MOF担」と呼ばれ、接待事件で渦中に置かれた面々だ。自分は日銀が担当。許認可権や検査部隊を持つ大蔵省相手とは違い、おおらかな仕事で、いろいろな日銀マンと親しくなり、議論もしたし、飲みにもいった。その一人が、セブン銀行の初代社長で、いま会長をしている安斎隆さん。人の縁というものは、奥深い。

一度目の秘書室勤務を経て、95年7月に新宿支店の次長に出る。いくと、バブルの後始末が始まっていた。支店には、どこにも、古くからのお得意さんが支店長を囲む会があった。堀留支店のときは、集まるのは元気のいい客ばかり。当時、バブルの膨張につれ、大手銀行間の順位争いが激化した。堀留地区は、都心から近くにありながら、比較的地価が安い。でも、外資が次々に日本へ上陸し、堀留にもビルを建てたいとの需要が出た。一方で、金融は超緩和。呉服屋など昔ながらの問屋街にも、ビル化の動きが広がっていく。

三和も、トップ銀行を目指し、次第にいきすぎの面も出た。それから7年、バブルが破裂し、新宿の会にくる客はみんな、不良債権先になっていた。古い客だけに、業績を押し上げる過程で、いろいろ無理を頼んできたのだろう。口から出るのは、うまい話への期待と、返済の繰り延べ要請ばかりだった。

1年もすれば、どこかの支店長にしてくれるかと思っていたら、再度の秘書室勤務となり、冒頭の接待汚職事件に遭遇した。続いて、銀行界が膨大な不良債権に苦しみ、活路を見いだすための金融再編の時代へと突入する。

東海銀行との経営統合は、2000年1月にきた東海からの打診がきっかけだ。頭取が参加したスイスのダボス会議に同行し、夜、あれこれと話し合う。帰国後、頭取会談に臨み、いったんは東海が経営統合を決めていたあさひ銀行も加えた3行統合が決まる。だが、三和に主導権を握られるのを嫌ったあさひが、離脱する。翌春、三和と東海に東洋信託を加えた「UFJ」が誕生したが、退職してアイワイバンク銀行へ移った03年秋、金融庁による特別検査への忌避事件を契機に経営が迷走。再び捜査のメスが入り、東京三菱銀行による「救済合併」へ至る。

振り返れば、東海との統合は、歴史的必然と偶然の産物だ。どことも一緒にならず、中堅・中小企業や個人へのサービスという三和の原点を貫ければよかったが、時代の変化と人間関係の綾が、そうはさせない。バブルの消長、不良債権の重圧、接待事件の摘発や金融再編。その間の経験から、やはり、一つの固定的な観念にとらわれていてはいけない、と痛感した。正直言って、金融界は「上善如水」の心になるのが遅れ、ダメージも大きくなった。

セブン銀行は、ゼロからの出発。自分のように銀行員の経験を持つ人間もいるが、引きずっている固定観念はない。どんなに若い人の意見でも、予断なく受け止める。問題は、そのよさをどう生かすかだ。

(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)