―私、年内に婚約するー

都心で煌びやかな生活を送る麻里・28歳は、ある日突然、こんな決意を固めた。

女の市場価値を冷静に受け止めれば、20代で結婚した方が絶対お得に決まっている。

掲げた目標は“今年中にプロポーズされる”こと。

麻里は本気の婚活を決意するが、晴れて恋人となった優樹は結婚に前向きでない。そんな中、KY男・和也に結婚前提の告白を受けるも、結局、優樹を選んでしまう。

だが、ただの通い妻に成り下がったと感じる麻里は、つい和也に電話をしてしまった。




「どうした?今から会う?」

たったの数コールで電話に応答した和也の声が、スマホ越しに耳に響く。

それは少しうわずった、麻里を心配するような心のこもった声だった。いつもは傍若無人で意地悪な男にそんな声を出されると、なぜか切ない気持ちになり、かえって返答に困ってしまう。

―今から、本当に会えるの?数日前に自分を振った彼氏持ちの女のために、わざわざ土曜の夜に時間を割いてくれるの?

頭にはいくつも疑問が浮かんだが、そんな戸惑いに反し、麻里の口は勝手に強がりを言った。

「...ううん、いいの。たまたまヒマになっちゃって、何となく電話しただけだか...」

「じゃあ、家にいるんだな?30分くらいで十番に行くよ。店は考えてあとで連絡する」

しかし和也は麻里の言葉を強引に遮り、一方的に電話を切った。

―男の信頼度は、口先より行動よー

麻里は通話の切れたスマホを眺めながら、親友のみゆきのいつかの言葉をぼんやりと反芻していた。


まさかの和也との密会。罪悪感がチラつく麻里だが...?


心の隅でチラつく罪悪感


指定された麻布十番の『あそこ』に麻里が到着して数分後に、和也は外気の寒さを連れてやってきた。




「ごめん、待った?」

「ううん。こっちこそ、急にごめんね!どこかで飲んでたんでしょ?もしかして、また食事会とか?」

素直に“ありがとう”と言いたいのに、妙な気恥ずかしさに邪魔され、麻里の口調は嫌味っぽくなってしまう。

「ちがうよ。今日は幼馴染と六本木で飲んでた。結婚が決まった奴がいてさ。そのお祝い」

和也はシレっと説明しながら、モンクレールのダウンを脱ぐ。

「電話くれて、ちょうど良かったよ。週末に男だけで飲むのも味気ないから、女の子呼ぼうなんて一人が言い出してさ。つまんなくなって、俺は帰ろうと思ってたところ」

「ふぅん...」

和也の幼馴染ということは、慶応幼稚舎の仲良しグループだろうか。和也と同じような毛並みの良い港区男子なら、それなりのレベルの女を召喚するに違いない。

その場面を想像すると、何となく胸がズキズキと痛む。

「なに、妬いてんの?」

麻里の気持ちを察するように、和也はニヤニヤと顔を覗き込む。

「や、妬いてなんかないわよ!別に、私はそんな立場でもないし」

「ほんと、麻里は感情がすぐ顔に出るとこが可愛いよなぁ。まぁいいや。俺、酒ばっか飲んでて腹減ってんだよね。何か食おうぜ」

すると和也は、麻里が反論する隙を与えずに、カウンター越しに次々と料理をオーダーし始めた。




「ぜんぶ、すごく美味しい...」

『あそこ』は一見すると気さくな居酒屋であるが、目の前に運ばれるのは、その雰囲気からは想像もつかないほどの極上料理である。

名物らしい「あわびのステーキ 肝バター」に、前沢牛のあぶり、新鮮なウニ。贅沢な料理を口に運ぶごとに、つい先ほどまで鬱々としていた気持ちが少しずつ回復していく。

「だろ?ここ、美味いモノ食べたいときに男同士でよく来るんだ。気取ってなくていいだろ」

この店の印象と中身のギャップが和也自身と少しリンクすることが可笑しくて、麻里はつい笑いがこぼれる。

「よかったよ、麻里が元気になってきて」

「う、うん...ありがとう...」

つくづく、和也は誠実で優しい男なのだと思わずにはいられない。

彼は、麻里が急に電話をかけてきた理由も聞かなかった。

言わずともだいたい見当がつくのか、あるいは気を遣ってくれているのか。だが、二人はとりとめない世間話や仕事の話で盛り上がり、それは麻里にとっては有難いものだった。

しかし同時に、心の隅で和也と優樹の二人の男への罪悪感がチラつく。

―でも......。今は、この時間が終わって欲しくないな...。

それでも麻里は、ほろ酔いの頭でそんな風に思ってしまう気持ちを止められなかった。


彼とのあまりの居心地の良さに、まさかの一線越え...?!


これは...ただの“浮気”?


「...じゃあ、そろそろ帰るか」

一通り食事が終わると、時間は23時少し前だった。お互いに名残惜しさは残るのが何となく伝わるものの、これ以上一緒に過ごす理由はどこにもない。

「俺はタクシーで帰るから、麻里の家の前でおろして行くよ」

「...うん、ありがと」

和也はタクシーを捕まえると、麻里の家の場所を告げ、その後に恵比寿方面に向かうように言った。

「......」

二人は車内でなぜか無言になり、妙な緊張感が張りつめる。

そして、あと数秒で麻里のマンション前に到着するという瞬間。和也は突然、いつものぶっきらぼうな口調で、しかしハッキリと言った。

「運転手さん、すみません。やっぱり恵比寿に直行してください」



「なんか、飲む?」

「お水か、お茶があれば...」

和也の家は、恵比寿駅からほど近いデザイナーズマンションの一室だった。メゾネットタイプでリビングが広々としていて、ベッドルームは階段の上にあるようだ。

「...オシャレな部屋だね」

そこは、やはり和也の表面的な印象とは異なり、ほどよく清潔感のある整った空間だった。何というか、育ちの良さが滲み出る品の良さがある。

麻里は彼氏以外の家に上がり込んでしまった事実にソワソワしながらも、和也がキッチンにいる間、部屋の中をぐるりと素早く見渡す。一目見た限り、女の気配はない。

そして目を引いたのは、棚にズラリと並んだ多くのDVDと写真集と思われる大判の本だった。広告マンだけあり、やはりこういう類のものに興味があるのだろうか。

「......で、何があったの。年内婚約は叶いそうなの」

和也はリビングのソファの隣にどさりと腰掛け、テレビのリモコンをいじりながら本題に触れた。

「まぁ、言いたくないならいいけど」

麻里が答えを躊躇していると、和也は無表情で映画を再生し始めた。テレビには、アル・パチーノが映る。

「......ちょっとね、彼とモヤモヤすることがあって...年内婚約は無理かな。“嫌なことがあったら連絡して”なんて言ってくれたから、甘えちゃったんだ。ごめん......」

「だったら、はやく別れちゃえよ」

テレビを眺めていた顔が、突如麻里の方に向く。その口調はいつになく強引で、顔は怒ったように歪んでいた。

「てか、そんな隙だらけだと、マジで力ずくで奪うけど」

「え...」

ソファがギシっと軋む音を立てたと思うと、麻里の身体は和也の腕にすっぽりと挟まれた。彼の顔が、すぐ目の前にある。




「ちょ、ちょっと...」

麻里は和也の強い視線から目を逸らしながらも、驚きと緊張で身動きができず、呼吸もままならない。

「いいの?」

和也の顔が、さらにゆっくりと近づいた。心臓がドクドクと爆音をたてるのが伝わりそうな至近距離だ。

―ダメ...だよね?これじゃ、ただの浮気になっちゃう...!

心の声が、頭に響く。だが拒否したら、彼を失ってしまうのではないか。

しかし、自分たちはイイ歳の大人の男女だ。この部屋に足を踏み入れた時点で、こんな展開を予想しなかったと言ったら嘘になる。

―もう、何でもいいや...!

麻里は結局、混乱寸前の頭では冷静な判断もできぬまま、ただギュッと目を閉じた。

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とうとう牙を剥いた達也。二人は一線を越えてしまうのか...?!