世界一有名なウイーン国立歌劇場での舞踏会。(写真=getty images)

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哲学というと、難解で、日常生活からは遠いというイメージがある。しかし実際には、哲学は、私たちがいかに生きるべきかという重大な問題について、具体的で生き生きとした「指針」を示してくれる身近な存在である。

いわば哲学は、人生という樹の「根っこ」のようなものである。根っこがしっかりしていれば、枝葉もしっかりと伸びていく。逆にいくら枝葉のことばかり気にしても、根っこがしっかりしていなければ十分な成長は期待できない。

人生の根っことしての哲学を大切にする。時には振り返って、自分の哲学を再点検してみるのがいいだろう。

私自身、高校時代に読んだニーチェに非常に大きな影響を受けた。ニーチェの哲学が「根っこ」になって、その後の私の人生を支えてくれたのである。

ニーチェといえば、「神は死んだ」という『ツァラトゥストラはこう語った』の中の衝撃的な言葉が有名だが、その「神なき世」をいかに生きるかの哲学が、ニーチェ哲学の真骨頂である。

「神なき世」とは、つまり、意味が簡単にはわからない世界である。自分が何をしても、努力しても、どんな意義があるのかわからない。そんな世界でどのように生きるか。

さまざまな思索・苦闘を積み重ねた結果、ニーチェが到達したのは「舞踏」という概念だった。

とにかく、踊ること。意味を問わずに、心と体を動かすこと。その結果、何かが成し遂げられることに意義があるのではなく、踊ること自体に意味を見出す。踊ることが、生きることである。

そのようなニーチェのメッセージを、高校生の私はしっかり受け取った。

それ以来私は、人生を、基本的に「踊り」ながら生きてきたような気がする。その結果、いろいろな出会いがあったし、パフォーマンスも上がったように実感する。

ニーチェの「舞踏」の概念は、現代の科学の言葉では例えば米国の心理学者、チクセントミハイの「フロー」につながる。フローにおいては、行為の目的は問われない。行為すること自体が報酬となる。そして、フローの中にあると、人は時間の経過や、自分の存在を忘れてしまう。

恐らくニーチェも、哲学について考えたり、著述している際に、現代の私たちが言うところの「フロー」を経験していたのであろう。その経験から、意味を問わず、心身を動かすことの大切さを説く「舞踏」の概念に到達したのに違いない。

そのように考えると、哲学は、決して、人生を離れた抽象的なものではない。むしろ、私たちの日常に関わる、身近な存在なのである。

しばしば、「仕事の意味がわからない」とか、「やる気が出ない」というような相談を受ける。そのようなとき、「意味ややる気は必要ありません」「ただ、目の前のことをやればいいのです」とアドバイスするが、そんな考えの背景には、実はニーチェの哲学がある。

現代の経済を支えるイノベーションや自由競争も、ある意味ではニーチェ的「舞踏」の例だと言える。ニーチェが切り開いた現代的な感性が、今の私たちの日常につながっているのだ。

人生に行き詰まったときは、哲学書を開くといい。自分の根っこを再点検するためのヒントが、たくさん詰まっている。

(茂木 健一郎 写真=getty images)