斉藤和巳インタビュー(1)

 ほんの数年前、プロ野球は間違いなく「斉藤和巳の時代」だった。2003年に20勝(3敗)を挙げて沢村賞に輝きチームを日本一に導くと、2005年には開幕から15連勝をマーク。2003年にも先発として16連勝を記録しており、先発で2度の15連勝をマークしたのは斉藤ただひとりである。2006年は18勝5敗、防御率1.75の成績で史上11人目の投手四冠(最多勝、勝率.783、防御率、奪三振205)を達成した。この年2度目の沢村賞を受賞。当時の西武のエースだった松坂大輔を寄せつけず、まだ若手だった日本ハムのダルビッシュ有が敬意を持って意識していたのが斉藤だった。そしてまだプロ入り前の田中将大も斉藤に憧れの眼差しを送っていた。だがその後、右肩を故障。6年もの間リハビリを続けたが復帰を断念し、今季限りでソフトバンクを退団。18年間のプロ野球人生にピリオドを打った。「ケガに始まりケガで終わった野球人生だった」と本人が言うように、3度の手術を行ない、手術痕は計17カ所も残っている。これだけの才能を持ちながら、ケガに泣かされたのは悲劇としか言いようがない。しかし、斉藤は7月28日の退団会見の中で「ピッチャーで良かった」と語り、さらに9月28日にヤフオクドームで行なわれた引退セレモニーでは満員のファンの前で「ケガをして良かったと思います」とはっきりと言い切った。その真意は何なのか? あらためて18年のプロ野球人生を振り返ってもらった。

「ピッチャーで良かった」というのは、感情がそのまま出た言葉でした。若い時には野手転向の話もありましたし、実際に外野手として二軍の公式戦にも出ましたから。でも、野手に転向したからといって成功できるというほど甘くないのは分かっていましたし、何よりもピッチャーをやりたかった。だから最初の手術を受けたんです。その後、結果を残すことが出来て、良い思いをさせてもらいました。最後はまたケガをしたけれど、だからこそ色々な発見もありました。しんどかったけど、何事にもかえ難い経験をさせてもらいました。ピッチャーでなければ、こんな苦しみも喜びもなかった。

 確かに、若干の負け惜しみもどこかにあるかもしれないですね(笑)。男として、こういうことを言って終わりたいと思ったのかも。でも、あの会見の時はそんなこと考える余裕なんてなかったですよ。

「ケガをして良かった」というのもそうです。キレイごとのように聞こえるかもしれないけど、それが正直な気持ちです。ケガをしたことで、初めて色々なことに気付くことができましたし、それがなければもっと早く野球人生が終わっていた可能性も十分にあったと思います。矛盾しているかもしれないけど、間違いなく自分ではそう思っています。

 プロに入ったばかりの頃の自分は未熟どころか、ホントどうしようもない人間でした。今になって振り返ってみると、「そんなヤツがプロの世界に入ってきたらアカンやろ」というレベル。野球をやっていて良かったなとつくづく思います。高校の友達や先輩、周りの人にも「野球をしていなかったら、とんでもない方向に行っていたかもしれん」って言われます。「それはない」と否定しますけど、腹の底からは言い切れないですから(笑)。

 僕の中で大きな転機となったのが、1998年の手術の時に小久保(裕紀)さんとたくさん話ができたことでした。同時期に、同じ病院で、同じ右肩の手術を受けていて、病室が隣だったんです。よく周りの方や先輩から「一流の選手でもここまでやるんだ」みたいな話は聞かされていたんですけど、小久保さんを見て、初めてその意味がわかりました。それから野球観も人生観もすべて変わりましたね。

 小久保さんにはたくさんの言葉をいただきましたが、特に自分の中で大切にしているのは「群れるな」という言葉です。それだけを聞くと色々想像してしまうけど、そこにはいろんな意味があります。たとえば人に流されずに自分のペースを守り、その代わり責任を持たないといけないとか。そこからですね、いろいろと考えて行動するようになったのは。

 そして斉藤は、頂点を極めた。だが最後は、マウンドに立つという望みすら果たせなかった。6年間のリハビリの中で、「(復帰への)思いがどんどん強くなる」と話していた時期もあった。球団も「復帰のサポートを続ける」と約束していた。本人が望めば、来季以降も復帰に向けたリハビリを続けられる環境にあった。しかし、自ら「引退」の道を選んだ。

 じつは、去年の時点で辞めることを考えてしまった時期がありました。身近にいた小久保さん、城島(健司/阪神)さん、それに金本(知憲/阪神)さんも引退された。もう少し続けようと思えば続けられた人たちかもしれない。でも、身を引く決断をされた。その方々が決断しているのに、こんな自分が来年も続けていいのかと、正直悩みました。でも、辞めるという覚悟は出来なかった。周りの人に相談すると、みんな「まだ辞めるタイミングじゃない」と言ってくれました。本心は分からないけど、背中を押してもらった。もしかしたら背中を押してもらいたかったのかもしれないですね。

 でも、一度でもユニフォームを脱ぐことをイメージしてしまった以上、今年は今までにない覚悟をもってやると決めていました。支配下登録期限の7月31日を目標にやってきました。期限が迫るにつれて、焦っていましたね。痛み止めの薬を飲んだり、注射を打ったり、とにかくもう一度投げるためにいろんなものにしがみつきました。その時点でアウトなんですけどね。でも、その時は無我夢中。体にも肩にもいいわけがないと分かりつつも、投げたいという気持ちが勝っていました。引退を決意するまでの2カ月はそんな感じで、これまでにないぐらい集中していました。

 引退を決断したのは7月の中旬。どう考えても、31日には間に合わないと。正直、辞めるのが怖かった自分もいました。小学校1年生で野球を始めて、それから30年間野球だけしかして来なかったですから。すごく不安でした。でも、このままズルズル続けたら、今までの自分を否定してしまうと思ったんです。その方が、悔いが残るだろうし、後悔すると思いました。

 最初に報告したのは妻でした。一瞬びっくりしたような顔をしていましたが、「これでやっと旅行に行けるね」と言われて......逆にそのひと言で「ハッ」とさせられたというか、救われました。

 そういえば先日、ある取材で前田智徳さん(今季限りで広島を引退)とお会いした時に、その話をしたらすごく共感してくれました。「ケガをしている人間はオフが一番きつい。その時期に誰よりも練習をやらないといけないから、オレも旅行なんてしたことがない」って。それを聞いて安心したというか、自分のやってきたことが間違いじゃなかったんだと思うことができました。

 それで10月に妻とふたりでアメリカに行ってきました。ラスベガスに行って、それから車で5時間かけてアリゾナへ。パワースポットで有名なセドナにも行きましたし、アリゾナは自主トレやリハビリをしていたこともあって、お世話になった方々が何人もいたので、サプライズで会いに行き、引退の報告をしてきました。野球のことを考えずに旅行するのなんて、プロ野球選手になって初めてだったので、心から楽しめました。

 おかげで今は清々しい気持ちです。野球をやりたいとはまったく思いません。本当にそれが一番ありがたい。子どもの頃から、3日も野球から離れたら、なんかウズウズしていましたから(笑)。引退を決意するまではそうでした。

 以前、優勝旅行に行った時も、ランニングシューズやグラブだけじゃなく、ダンベルや折りたたみ式のベッドまで持っていっていました。今でこそ優勝旅行中に練習する選手もいるみたいですが、当時はそんなことはなかったですからね。

 そんな生活を30年も続けてきたのに、今は野球をやりたいともボールを握りたいとも思いません。そこまで野球をやらせてもらった球団には本当に感謝です。やり切らせてもらいました。

(引退を)決断したあたりから、今後の人生に目を向けていきました。そんな器用に生きていける人間じゃないので、「これ」という明確なものがあるわけじゃないですけど、リハビリをしていた6年間とは違ったストレスを感じています。心地いいストレスです。こういうことをしてみたいとか、どこまで自分はできるんやろうとか。そんな感覚になれることが嬉しいですし、また自分が成長できるんじゃないかという期待もあります。

 2014年からは福岡の地元テレビ局と地元スポーツ紙で評論家として活動することが決まっている。野球とつながっているという幸せはあるが、一方で「それだけでいいのか」という思いもある。それに、再びユニフォーム姿の斉藤を見たいというファンの声も少なくない。

 色々な幅を持ちたいですね。そうでないと、一生メシを食っていけないですから。どう転んでもいいように、しっかりと地に足をつけて進んで行きたい。指導者ですか? フフフ。正直、指導者になるというのは想像がつきません。でも、そういうことも頭の片隅において、これからいろんなものを見て、勉強していきたいです。

(続く)

【プロフィール】
斉藤和巳/さいとう・かずみ
1977年11月30日、京都府生まれ。南京都高から95年ドラフトでダイエー(現ソフトバンク)から1位指名を受け入団。プロ8年目の03年、20勝(3敗)を挙げ、最多勝、沢村賞など数々のタイトルを獲得。日本一にも貢献した。06年にも18勝をマークし、二度目の最多勝、沢村賞に輝いた。その後は右肩のケガに苦しみ、11年からリハビリ担当コーチとして復帰を目指していたが、今シーズンで引退を決意した。通算成績は150試合に登板し、79勝23敗。防御率3.33。最多勝(2回)、沢村賞(2回)、最優秀防御率(2回)など数々のタイトルを獲得した。

田尻耕太郎●文 text by Tajiri Kotaro