多くの人の「死」を見届けてきた医師が教える、上手な「最期」を迎えるために「準備しておくべきこと」

写真拡大 (全2枚)

だれしも死ぬときはあまり苦しまず、人生に満足を感じながら、安らかな心持ちで最期を迎えたいと思っているのではないでしょうか。

私は医師として、多くの患者さんの最期に接する中で、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら、悲惨な最期を迎えた人を、少なからず見ました。

望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょう。

*本記事は、久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。

メメント・モリの効用

上手な最期を迎えるために、いざというときに慌てず、病院に行かずにおくためには、ふだんから心の準備をしておくことが大切です。つまり、最期が遠いうちから、死を意識して備えておくことです。

長らく在宅医療をやっていると、死を受け入れて自宅に帰ってきた人は、おしなべてある種の落ち着きがあるように思います。苦痛は可能なかぎり薬で抑えますが、病気を治すとか、命を延ばすための治療や検査はしません。そのため、治療の効果や検査の結果を気にすることもないし、無用の副作用に苦しむこともありません。自宅で安寧な状態が続くと、病院に行く必要がないこともわかりますし、住み慣れた家で最後の時間をすごすことの貴重さを実感することもできます。それはやはり迫りくる死を拒否せず、現実として受け入れているからでしょう。

すなわち、「メメント・モリ(死を想え)」による心の平安です。

「メメント・モリ」には、もともと「我々は必ず死ぬのだから、今のうちに食べて飲んで、人生を楽しめ」という意味があったそうですから、決して不吉な考えではありません。

死を忘れているほうが気楽なのはわかりますが、これまで何度も繰り返したように、そんなふうにして準備を怠ることが、下手な最期につながるので、死に向き合うほうが安全ですよと勧めているのです。

私の好きな言葉に、パスカルの次の言葉があります。

「我々は断崖の前に何か目を隠すものを置いたのち、安心してそちらに向かって行く」

だれしも毎日、一日ずつ残された人生が減っていきます。そう考えれば、一日の重みも変わってくるでしょう。死を忘れて気楽に生きていると、一日を無駄にしたり、くだらないことでケンカをしたり、傷ついたり、落ち込んだりしますが、残りが減っていくと思えば、もったいなくてそんなことをしているヒマはない、この貴重な一日を有意義に使わなければと思うのではないでしょうか。

私自身は常に自分の死を意識し、死病に取り憑かれる危険性、事故や災害や事件に巻き込まれる危険性を意識しています。不吉だとか、縁起でもないとは思いません。実際、あり得ることですし、リアルに想像すると、そんなことが起こっていない今が、どれほど幸運でありがたいことかも実感できます。

妻や子どもや孫、母親の死も常に意識するようにしています。それが起これば、ほんとうに悲しいことですが、起こらないともかぎらない。しっかりとそう思うことができれば、身内がただ生きていてくれるだけで嬉しいと感じます。些細なことでケンカをしたり、あれこれ要求したり、不愉快になったりすることがうんと減ります(ゼロにならないのが、哀しいところですが)。

自分や家族は生きているのが当たり前ではなく、いつ別れが来るかわからない。そうなってから、もっとこうしておけばよかったとか、あんなことを言わなければよかったと思っても、手遅れです。そんなことで悔やみたくないので、私は常に死を意識しているのです。

死を意識するのは恐ろしいと思う人もいるかもしれませんが、慣れてしまえば怖くも何ともありません。むしろ、当たり前のように感じられます。

さらに連載記事<じつは「65歳以上高齢者」の「6〜7人に一人」が「うつ」になっているという「衝撃的な事実」>では、高齢者がうつになりやすい理由と、その症状について詳しく解説しています。

じつは「65歳以上高齢者」の「6〜7人に一人」が「うつ」になっているという「衝撃的な事実」