「依存症」ではなく「アディクション」と言ってみたい(写真:矢部ひとみ撮影)

「シリーズ ケアをひらく」は、第73回毎日出版文化省を受賞した医学書院のレーベル。2000年のスタート以来、医療関係者以外の幅広い読者に購読されています。

そのシリーズ最新作、作家の赤坂真理さん著『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』より一部抜粋・編集してご紹介します。

依存症とアディクション

わたしにはなぜかアディクション─世の人が「依存症」として問題にするもの─が、人間の心の秘密やメカニズム、根源的な苦しみにかかわることのように思えていた。

むかしからそんなふうに思っていた。二十数年も前、実家にいながら親とも口をきかずに一人の部屋でお酒を飲んで、気持ちの緊張やいたたまれなさがそのときだけ緩まり、空気もぬるくなって、わたしはやわらいだ気持ちになれた。当時の飲酒を思い出すときはいつも、肌はぬるい空気をまとっている。翌朝二日酔いになろうが、今は気持ちがいい。それだけでよかった。

わたしは誰の助けもいらないと拒否しているようでいて、落ちてくる甘いしずくに向けて口を開け、彼らの言葉を待っていた。彼ら。まだ時間で課金されていたころのインターネットでわたしが読んでいたのはアディクト、いわゆる依存症者たちの言葉だった。いつもできたての彼らの言葉が、わたしの数少ない好物だったのだ。

彼らの言葉が、わたしが感じる、数少ないリアルなものだった。他はみな、どこかとりつくろっているように感じられたものだ。自分自身も含めて。他のところでは失敗のことは語られなかったし、心の弱さのことも恥ずかしい体験も語られなかったし、語れなかった。自分が自分を裏切ってしまうことも、そうしてお酒や薬や眠りに逃げ込んでいくことも。

外で他人と居ていたたまれなくなると─わたしは疎外感を強く感じるタチなのだが─一刻も早く家に帰って一人でお酒を飲みたいと思うことがあった。あるいは、早く家に帰って一人の部屋で泣きたい、と思うようなことが。人といてもそのことばかり考えた。人と一緒の仕事中にも考えた。帰り道にお酒を買って帰宅し、深夜にお酒が足りなくなるとふらふらコンビニに買い足しに行ったりした。

「依存症」では言い切れない感覚

わたしは生きるのにお酒を必要としていた。あるいはなんらかの神経をなだめてくれるものを。気分を大きくさせてくれるものを。お酒はおいしいと同時に、生きる方法だった。

それでも自分は依存症の人とはちがうと思っていたのは、致命的な失敗がなかったということに尽きるだろう。一般的な二日酔いや、許容範囲の遅刻欠席などで済んでいた。しかしわたしは問題や心の痛みを抱えていたのであり、それはお酒でも癒えなかった。ごくわずかな時間、なだめられるだけだった。それが醒める時間はみじめだった。

あるときから自然とあまりお酒を飲まなくなったのも、依存症とは思わなかった一因だろう。三十代半ばごろからだろうか。もともとがお酒が強いほうではなかったからかもしれない。

しかし酒量が適度になって、何かが「治った」のかと言えば、そうではない。生き方には問題があり続けた。今思うと、そうとしか言いようがない。関係性がことごとく恋愛じみたり(同性とでもそうだったと思うし、もっと言えば女友達があまりいないのが問題だった)、人間関係も同じようなポイントで切れてしまっていた。同じところでフリーズするように、同じ失敗パターンを何度も繰り返していた。

こちらのほうがお酒より損害があったし、人に迷惑もかけたと思う。手の込んだ自傷のようなものも続いたし、危険なことをしてはそれをくぐり抜けて安堵する、といったこともやめられなかった。

やめられなかったのだ、やめたくても。それが損害や痛みや危険をともなうものであっても。

とすると、目に見える症状よりは、「やめたくてもやめられない」という不可解な自分の状態のほうが問題の本体ではないだろうか。その強迫性。

「依存症」とは、あくまで治療のために作り出された言葉だ。問題飲酒など、表面にあらわれた症状がよくなることをゴールとしている。しかし「症状がよくなる」とはゴールではなくて経過ではないのか。その人を「依存症」にまで押しやった力は、そのまま残っているのだから。

さらに力はそのままに症状だけが見えにくくなっていくことは、ある意味で危険ではないだろうか。いきなり自殺したり他害へと爆発しかねないのだから。

発見されにくいことは危険だ。とりわけ自分自身に発見されにくいことは危険だ。依存症という言葉では何かが見えなくなる。わたしは何かが見えないままに、そして見えにくいからこそ、危険な状態を長く続けた。

わたしは今、依存症ではなく「アディクション」と言ってみたい。単なる言い換えではない。アディクションとは、自分が何かに強迫的にとらわれている状態すべてだ。コントロール不能のまま何かにとらわれていること、その不可解さも含めた全部の状態だ。問題飲酒など、それがどんな症状であったとしても、その症状を出してしまう大もと、と言ってもいいかもしれない。

わたしは一人のアディクト(アディクション当事者)である。

そう認める。

アディクションに対し、コンロトールを持てない。

そう認める。

認めたうえで、そのコントロールの持てなさまでを、できる限り語ってみたいのだ。

コントロールの効かない運命的な出会い

「依存症」というのは、日本語としても不思議な感じがする。

「依存する」とは、主体性がない、それなしではいられない弱い人、のようなネガティブな意味合いの言葉であるにもかかわらず、それ自身ははっきり能動的な言葉だ。「わたしは〇〇に依存している」は、酒であれなんであれ、わたしの「選択」ということになる。ここに「自己責任論」も出てくる。

けれど依存症の実相が能動的なことだとはとうてい思えないのだ。依存しようとして、しているわけではないからだ。

むしろ英語でbe addicted to〜と受け身で表現されるほうが、アディクションの実態にはまだ近い。当事者によっては、酒やコカインやギャンブルや恋愛対象から寄ってこられるようにさえ感じられているのではないか。自分が避けようとしても、あちらのほうからやってくるのだ。受け身であるほうが、「主体性を発揮しようもなく、そこから離れられない」という実態に近い。

もしかして、それは受け身ですらないかもしれない。実際のところ、それは能動と受動の中間にあるのではないだろうか。求める気持ちもあるが、対象のほうが自分にやってくる感じがあり……だとするとそこにあるのは一種の出会いだ。運命的な出会いだ。あまたのモノやコトに触れる中で、なぜだか“それ”とだけ一対一の強い関係が生じる。“それ”​とわたしとの恋愛関係だ。自分の気持ちだけでもなく、対象の魅力だけでもない。引き合う引力そのもののような中で、第三の状態が生じる。アディクション。そこには自分のコントロールは効かない。

アディクションとはどんな状態か

アディクションとは、主体性を発揮したくてもできない状態のことだ。


自分というものの力を信じ、自分をコントロールすることがよしとされる現代西欧型社会で、これは脅威だ。アディクションが排除され差別されなくてはならないと社会が考える理由はここにある。なかでもイメージとして反社会的なものは、刑法の罰が与えられる。コカインよりアルコールで心身が壊れた人や周囲を壊した人のほうがずっと人数が多いにもかかわらず、アルコール所持は罪がなくコカイン所持は厳罰である。

これはイメージに課せられた罰であり、それを見るとその社会が何を差別したいのかが見えてくる。アメリカでは、アディクションに課せられる罪はマジョリティの世界に根強く残る人種差別が合理化されたものだと、『依存症と人類』(みすず書房)の著者で自ら強度のアディクションに苦しんだアメリカの精神科医カール・エリック・フィッシャーは言っている。有色人種や低所得層がアクセスする薬物は罪が重く、白人富裕層がアクセスする薬物は罪が軽い、など。それが日本では多分に、イメージ的な差別になっている。大麻所持への厳罰化も「はずれたイメージの人」を社会が許さないのである。それ以外に理由が見つけられない。

(赤坂 真理 : 作家)