ドラマ「東京貧困女子。」で、摩子(趣里・演)と共に貧困女性を取材するフリーの風俗ライター、粼田祐二を演じる三浦貴大さん(写真:WOWOW)

趣里さん主演で放送されているドラマ東京貧困女子。」の監督の青木達也さんと、脚本家の高羽彩さんとの対談の後編。日本の社会がまだまだ「女性にとって」不利にできている現実、そしてこのドラマに込めた思いについて語り合った。

この記事の前編:趣里の迫真演技が伝える「貧困に喘ぐ女性の現実」

自ら足を運んだから生まれたリアリティ

高羽彩(以下、高羽):今回のドラマのベースには『東京貧困女子。』という骨太なルポがあるわけですが、本作に限らず、原作に書かれている言葉をそのまま脚本のセリフとして書くことはできません。実際に、貧困女性にお話を聞いたり、支援団体のお手伝いや、物語に出てくる土地のロケハンをして、自分で見て感じて、心の底から思ったことでないと書けない。


青木達也(以下、青木):第5話のワンシーンで、粼田が言う、粼田自身にとって重要な記号となっている海に関してのセリフは、すごくリアリティがありました。

高羽:第5話の物語に取り組むため、ある工業都市をシナハンで歩き回ったんですが、その街の海への距離感というか隔絶感が驚きと共に印象的でした。私は静岡県静岡市の出身なんですが、私の海に対する感覚とその街で感じたものがあまりにも違った。リアリティがあると言ってくださったあの粼田のセリフは、そんな私のリアルな衝撃から生まれた言葉なんです。

最初にお話をいただいたときから、「貧困というテーマには生半可なことでは誠実に向き合えないな」という覚悟はあったので、少しでも自分で実際に体験して血肉になった言葉を書こうという一心でした。

青木:高羽さんは一昨年の年末に、女性のための法律相談にも参加して、支援団体の方々や貧困当事者に取材しましたよね。僕は行けなくて取材の音声を聞いただけだったんですけど、そこですごく記憶に残ったのが、リサイクルの衣服や食べ物などさまざまな支援物資が集まっているなかで、一番先になくなるのが「花」であるという話です。

高羽:はい。支援団体のお手伝いをしたとき、本当に、命にかかわる衣食に比べて、一番後回しにされがちな嗜好品に人気が集まるんです。相談に訪れる女性たちは金銭や家庭の状況的に困っているだけでなく、心が飢えていて、だからこそ、心の安らぎとなる花を欲しがる人が多いんだと思いました。

青木:僕も胸に迫るものがありました。生活に切羽詰まっていても「花を飾りたい」「花を愛でたい」という気持ちは残っているんだということに、僕が感じたのは、女性のしなやかさや強さ、たくましさです。それは、すごく大変な状況にあるんだけど芯があって、生きていくことに対して真面目という、高羽さんが練り上げたキャラクターにも現れていると思います。制作サイドでは一貫して、貧困女性たちを弱々しい人たちにはしたくないという思いがあったので。


貧困女性たちを弱々しい人たちにはしたくない(写真:WOWOW)

がんばる姿を「美談」にしてはいけない

高羽:そうですね。ただ、弱々しいだけの人にはしない一方、たくましさを変に美談として仕立て上げることは絶対に避けなくてはいけないというのもありましたね。

青木:はい。たとえば、ドラマの第2話で、主人公の摩子(趣里・演)が次の取材先に向かう際のワンシーンに、この制作サイドの思いが出ていますよね。貧困女性たちのことを「たくましい」と表現し、「私だっていざとなったら風俗でも何でも……」などと言い放って、共同取材者である粼田(三浦貴大・演)の逆鱗に触れるシーンです。


「私だっていざとなったら風俗でも何でも……」(写真:WOWOW)

高羽:貧困の中でも必死に生きようとしている人たちを「たくましい」と捉えるのは、そのたくましさに乗じて「応援してるから、がんばってね」と突き放すことに繋がりかねません。貧困は社会全体の問題なのだから、個人の問題として当事者にすべてを背負わせるのは間違っていますよね。そういうところも含めて、1話ごとに見終わった後、いったん立ち止まって考える時間を設けたくなるような作品になってくれたらいいなと思いながら執筆しました。


貧困を個人の問題として当事者に背負わせるのは間違っている(写真:WOWOW)

弱者が弱者を叩くという現実

青木:高羽さんから、貧困女性のための衣服などの提供や炊き出しで、明確な敵意をもって妨害してくる人、特に男性が少なからずいるという話を聞いたときは驚きました。

高羽:しかも、いわゆる社会的強者が自己責任論を振りかざして「甘ったれるな」と妨害してくるのではなく、「女ばっかりずるい」「自分だって大変なのに」といった嫉妬がらみで妨害する人が多いそうなんです。

青木:さまざまな事情で困って支援を受けている人たちを、別の困っている人たちが悪意をもって叩くという、とても悲しく殺伐とした現実がある、ということですよね。

高羽:こういう話を耳にしてしまうと、いったいどこから手を付けたら社会はベターになるのだろうかと途方に暮れそうになりましたが、日本の貧困というものを、そこに含まれる多面的な問題も含めて、よりリアルに感じられる取材となりました。

青木:支援団体の人たちの取材で、他に印象に残っていることはありますか。

高羽:「ここに、あなたを支援したい人がいますよ」というメッセージを送り続けて、一人でも多くの困っている人が繋がってくれたらいい、と口を揃えておっしゃっていたことです。貧困はデリケートな問題です。いくら「あの人は最低賃金以下の生活をしている」と見定めても、一方的に乗り込んで解決策を示すのは善意の押し売りです。

青木:確かに、ある種の暴力性を伴う行為とも言えますね。

高羽:だから、支援団体としては、助けを必要としている人たちに、自分たちの存在を知ってもらう努力をするだけ。この社会のどこかで誰かが孤立して苦しむことなんて望んでいないからこそ、しかるべきサポーターと繋がり、ふさわしい支援を受けてほしい。そのためにビラ配りなど草の根的な広報活動に勤しんでいるというお話でした。

手を差し伸べても、すぐには、その手を誰もつかまないかもしれません。でも差し伸べ続ければ、いつかきっと誰かが気づいてつかんでくれる、という思いで活動されていることが伝わってきました。

フィクションでこそ、できることがある

青木:今回のドラマで、その想いが伝わることも期待したいですね。ニュースでもドキュメンタリーでも真実を伝えることはできますが、残念ながら、進んで見る人は比較的少ないのが現実です。その点、フィクションのテレビドラマはエンターテインメントの1つですから、ニュースやドキュメンタリーよりも視聴者を引き付けやすいというのはアドバンテージではないでしょうか。

高羽:支援団体には、当事者に自分たちの存在を知ってほしい反面、目立つことは避けたいというジレンマがあります。目立つ活動をして認知が広まれば広まるほど、理不尽な妨害を受けるリスクも増えてしまうため、せいぜいチラシを配るくらいで表立った宣伝活動ができないんですね。

その点、比較的ポピュラーな「フィクション」という形をとりつつ、現実に起こっている問題を忖度なく描いたドラマならば、自分たちの組織や活動は目立たないまま、貧困問題に対する社会的な認知、理解が広まるという効果を期待していただいているようです。

青木:支援団体の方々からも「ドラマならたくさんの人が見るので、ありがたい」といった声が寄せられているそうです。表向きは「ドラマ」だけど、実は「綿密な取材に基づくノンフィクション」がベースになっていること、また脚本の高羽さんが実際に現場に赴き、見聞きしたものを反映しているということで、より多くの人たちに届くことを期待しています。

高羽:私としても、フィクションの形にして初めて可能になることもあるんだと、改めて本作の意義を感じています。


この状況に陥っているのは自分だったかもしれない(写真:WOWOW)

青木:初期の摩子のように「貧困を他人事だと思っている人たち」にも、ぜひこのドラマを見てもらいたいですね。そういう人たちが「この状況に陥っているのは自分だったかもしれない」「ゆくゆくこの状況に陥るのは自分かもしれない」と実感するきっかけになればいいですね。そして貧困を今の日本社会が抱える問題として捉えると同時に、「人との繋がり」についてじっくり考えることにも繋げてもらいたい。

高羽:ニュースやドキュメンタリーよりも視聴者を引き付けやすいというアドバンテージでは、ドラマのタイトルにも出ていますよね。

青木:タイトルについても制作サイドでかなり議論したのですが、やはり、とてもキャッチーな響きのある「東京貧困女子。」をメインタイトルとし、サブタイトルには原書の帯にあった「貧困なんて他人事だと思ってた!」を据えました。

このサブタイトルの言葉どおり、貧困を他人事だと思っている人は、おそらく無数にいます。もちろん貧困は女性だけの問題ではないのですが、一人でも多くの人に届くようにするためには、あえてキャッチーなタイトルとするのが得策だと判断しました。

高羽:特に「女子」と入れる点については、かなり慎重に検討しましたよね。はたして「女子」とひとくくりにしていいものだろうか。貧困のために性産業に入った当事者のエピソードが、「女子」という言葉があるために、かえって性的搾取の対象となることに繋がりはしないだろか。かなり逡巡しましたが、それでも「女子」としたのは、日本の社会構造は、まだまだ女性にとって不利にできていると感じているからです。

少しでも「当事者意識」をもってもらえたら

青木:タイトルは「きっかけづくり」なんですよね。視聴者を引き付けられれば何でもいい――というのは少し言い過ぎかもしれませんが、問題は、いかにタイトルでスルーされず中身にまでリードできるか。「女子」と謳ったこのドラマを見て「これは特殊事情を抱えた一部の『かわいそうな女の子たち』の話ではない」と気づく入り口に立ってもらうことが大事なんだと。

高羽:実は、男性もまた、いつ貧困を生む社会構造の犠牲になるかわからない。女性も、男性も、明日の自分かもしれないと実感したら、そこで自己保身に走るのではなく、さらに一歩踏み込んで考えてみていただきたいですね。

青木:本当にそう思います。「ひょっとしたら、自分の身近な場所にも似たような状況に陥っている人がいるかもしれない」「いま困っている人たちに、自分から手を差し伸べられるかもしれない」「もし自分自身が困ったら、誰かから手を差し伸べてもらえるかもしれない」などとさまざまに考えてみる。

こうした意識が生まれることが、やがては社会をよりよくする一歩、二歩に繋がっていくんだと思います。「知らないこと」について考えることはできません。とにかく本作をきっかけに、「実はこんなことになっている」という現実を知っていただければと思います。


貧困は個人の問題じゃない(写真:WOWOW)

高羽:「貧困は個人の問題じゃない」――これは粼田のセリフなのですが、個人の問題じゃないのなら、自分たちが「当事者」としてコミットして社会を変えていくことはできると信じたいですね。そんな方向に、このドラマを見た人たち、昨日までは「貧困なんて他人事だと思っていた」人たちの明日からの意識や行動が、少しでも転換するきっかけになれたらと願っています。

この記事の前編:趣里の迫真演技が伝える「貧困に喘ぐ女性の現実」

(青木 達也 : 監督)
(高羽 彩 : 脚本家)