平手打ち騒動の前には伏線があった(写真:REX/アフロ)

2022年に開催されたアカデミー賞授賞式の舞台でクリス・ロックに平手打ちをした直後、ウィル・スミスは「俺の妻の名前を口にするな」と、2度も叫んだ。それからまもなく主演男優賞を受賞すると、涙を流しながら、「愛は狂ったことをさせるものだ」と言った。

そもそもスミスが怒ったのは、プレゼンターを務めたロックが、彼の妻ジェイダ・ピンケット・スミスをジョークの髪型をネタにしたからだ。最初はスミスも笑ったが、横でピンケット・スミスが顔をしかめているのに気づくと、突然立ち上がり、舞台に上がってロックに暴力を振るった。

「あの行動は妻を守るためで、愛の証し」

世間には(少なくともアメリカでは)まるで受け入れられなかったものの、それが彼の言い訳だった。

回顧録で暴露された真実

しかし、事件から1年半が経つ今、その“筋書き”は真実でなかったことがわかった。その真実を明かしたのはピンケット・スミス。しかも、彼女は、自分がそこに巻き込まれたことが心外だったようなのだ。

アメリカ時間17日に発売された回顧録『Worthy』で、ピンケット・スミスは、「ロックがプレゼンターとして舞台に上がってきたときから嫌な予感がした」と、その夜を振り返っている。2016年の授賞式でも、ロックはピンケット・スミスをネタにしたからだ。

それは「#OscarsSoWhite」抗議が盛り上がっていたとき。ピンケット・スミスは早々と授賞式のボイコットを表明し、すでに司会者に決まっていたロックにも降板するべきだとのプレッシャーがかけられたのだが、予定通り舞台に立った彼は、開幕のモノローグで「映画の人でもない彼女はそもそも呼ばれていないんだよ」「ウィルが『コンカッション』で候補入りすると思ったのに漏れたので怒っているんだろう」と彼女を皮肉ったのである。

ピンケット・スミスによると、脱毛症のせいで短くしている髪型を『G.I. ジェーン』になぞらえたロックに顔をしかめたのは、ジョークがくだらなかったことと、「やっぱりこいつはやらずにいられないのか」とあきれたからだった。

だが、彼女が座っていた位置からはっきり見えなかったため、スミスが本当にロックを殴ったのだとは知らず、広報担当者から「ロックは被害届を出さない」と言われると、「どういうこと?」と驚いたのだという。その事実は、彼女を不快にさせた。「黒人男性ふたりが白人の舞台であんな形で喧嘩するなんて。そして黒人の男がまたもや黒人の女性を白人の舞台で侮辱するなんて」と、ピンケット・スミスは書いている。

さらに彼女は、その時点でスミスと7年も別居していたというのだ。「なぜウィルが(ロックのジョークに)あんなに怒ったのか、よくわかりませんでした。私たちはもう長く別々に暮らしていて、私はあそこ(授賞式)に、妻としてではなく、家族としていたのです」と回顧録に書くピンケット・スミスは、「New York Times」のインタビューでも、そのときあらためて「今、私は彼の妻なのだと思いました。その贈り物を彼にあげないと。一緒にここを乗り越えていかないといけないと」と思ったのだと語った。

ピンケット・スミスはロックに誘われていた?

彼女はまた、スミスとロックは彼女自身がふたりを知らなかった1980年代から微妙な関係にあったこと、スミスと離婚の危機にあるというゴシップが出た時、ロックからデートに誘われて断ったことも明かしている。あの事件に至るまでにはこうした伏線があったのである。

もうひとつ、彼女の“不倫”の問題も大きい。ピンケット・スミスは、数年前、結婚関係を“お休み”していた時期に20歳以上下のオーガスト・アルシーナと交際していたことを明かしている。

アルシーナはスミス夫妻の長男ジェイデン・スミスの友人。ピンケット・スミスは、母、娘ウィローと一緒に主宰するトーク番組「Red Table Talk」でこの話題を取り上げただけでなく、不倫された当事者であるスミスもその場に呼んだ。今年前半にNetflixでライブ配信されたコメディショー「クリス・ロックの勝手に激オコ」でも、ロックはこのことをさんざん揶揄したが、この状況を奇妙だととらえた人は少なくなかった。ピンケット・スミスも、それを自覚している。

「あれが誤解を呼んでしまったのだと私は信じます。かわいそうなウィルは不倫をした妻に呼ばれて『Red Table Talk』に出演させられるハメになった、とみんな思ったのでしょう。彼女のパワーを見なさいよ、顔をしかめただけで舞台に上がらせて誰かを平手打ちすることができるんだ、と思われてしまったのかもしれません」と、ピンケット・スミスは回顧録のプロモーションのために出演した全米放送のテレビ番組で語った。

「New York Times」に対しても、彼女は「表情だけでウィル・スミスを狂気に陥れるようなパワーが私にあると世間が思うなんて、ちょっと笑ってしまいます。そんなふうに彼をコントロールできるなら、この30年の私の人生は全然違っていましたよ」と述べている。

回顧録やインタビューでは、平手打ち事件以外にも、スミスとの関係についてのプライベートなことが赤裸々に語られている。にもかかわらず、ピンケット・スミスに離婚の意思はないようで、「(平手打ちの後)初めて、別れても彼の妻として嵐の中を支えていこうと思いました。こんなふうに思ったことはしばらくぶりです」と彼女は言う。

妻がそんなふうに思っていたのだと知ったスミスは、「目が覚めた」「人生の半分以上をひとりの人と一緒に過ごすと、隠れたニュアンスに鈍感になってしまうものだ」など、反省の念を示すメールを「New York Times」に送った。

「夫」「妻」とは呼び合わないふたりが公にそんなやりとりをする様子は、外から見てなんとも奇妙だ。ソーシャルメディアには、スミスの反応について「気持ち悪い」「みじめな男の象徴」、ピンケット・スミスについて「男の人生を破壊するナルシシスト」「彼女もウィルの暴力について謝らないんだ」などという辛辣なコメントが並んでいる。

理想の夫婦イメージを壊した茶番劇?

「夫(まだ結婚しているのだから)がオスカーであんな振る舞いをしたことを恥じているのだろうが、テレビ番組に出てもう夫婦じゃなかったと言うのは正直ではない。なぜ離婚しないのかの理由もない。そこは私の知ったことじゃないが、彼女は有名だから出版社はこの本を出し、人はそれを買って(私は買わないが)彼女は金儲けをするのだ」

「このふたりは今や、本業よりもスクリーンの外のドラマで注目されている。リアリティ番組を見ているよう。もともとそんなに興味がなかったが、個人的にもうこの”番組”はたくさん」などといったコメントは、多くの賛同を得ている。

それはこのふたりどちらのキャリアにとっても決してよいことではないだろう。そう遠くない昔、スミスは熱烈な愛妻家、ピンケット・スミスはハリウッドのトップスターに選ばれた幸せな女性として、世界から羨ましがられていたものだ。

彼らは自らの手でその幻想を壊してしまった。だが、ふたりに離婚をするつもりはないという。この不思議なカップルはここからどう進んでいくのか。意図せずして、ふたりは今、キャリアと人生の分岐点に立っている。

(猿渡 由紀 : L.A.在住映画ジャーナリスト)