結婚前に抱いた理想像が結婚生活を苦しいものにしてしまう(写真:zak/PIXTA)

「現代人には、大人になるための『間』がない」。そう指摘するのが、韓国の精神科医であるキム・ヘナム氏です。昔は若い人はさまざまな大人にまじり、大人になるためにはどうしたらいいかを学んだり、メンターに教えてもらったりしていました。しかし、現代ではそんな余裕はなくなっています。ではどうしたら幸せな人生になれるのか。今回は「結婚」をテーマにキム氏が解説します。

※本稿はキム氏の著書『人間として最良のこと as a person』から一部抜粋・再構成したものです。

夫婦の摩擦のはじまりは些細なズレから

「わたしにとって損な結婚なのでは?」

結婚は明らかに商売や取引ではありません。それなのに、結婚を前にした人たちは、学歴や職業、年収などを天秤にかけます。結婚情報サービスや仲介業者たちは、そもそも天秤が片側に傾きすぎた出会いは紹介しません。

このような選び方に眉をひそめる人も多いのですが、いざ自分のこととなると気にしないでいられる人はほとんどいないものです。どんな配偶者を迎えたのかが、社会的な地位と生活水準を表す現代では、相手が持つ表面的な条件を気にするしかないのです。

そしてなによりも、幼いころから慣れ親しんだ生き方を変えるのは簡単ではありません。結婚することになれば、ご飯の食べ方、睡眠の習慣など、日常の細かい部分でも衝突するようになります。

ところが、ふたりの価値観と生活スタイルが違いすぎると、最初から不必要な摩擦が生じるものです。

こうした葛藤を減らす方法が、まさに経済的・文化的な背景が似ている人を選ぶことなのです。背景が似ている人を選ぶことで、不要な誤解やコミュニケーションの問題を少しでも減らそうとします。

ふたりの激しい格差のせいで、若き日の純粋な恋愛が破局に至るまでを繊細に描いた『レースを編む女』という映画があります。

学校の休みに海辺の村を訪れたひとりの男子大学生は、村の若い女性に出会います。彼は彼女の澄んだ瞳に心の安らぎを見つけ、清らかな魂を持つ彼女は疲れ果てた彼の魂を包み込み、ふたりは恋に落ちます。

どうすることもできない隙間が徐々に広がっていく

しかし新学期が始まりふたりが一緒に都会に戻ると、どうすることもできない隙間が徐々に広がっていきます。

青年は勉強しなければならない立場でありながらも、都会の生活に不慣れな田舎の娘の面倒もみなければならず、疲れ果ててしまいます。さらに友人たちと集まると、まともに会話を聞き取れない彼女のせいで、集まりは気まずい雰囲気で終わってしまうことがしばしばでした。

お互いに困った立場に置かれることが続くと、青年は苦悩しはじめます。彼女のことを愛してはいるけれど、彼女とあらゆることをともにする自信がなくなった彼は、ついに彼女と別れます。

一方、田舎の家に戻ってきた彼女は、太っていて醜いから振られたのだと思い、拒食症になってしまいました。

精神科病院に入院した彼女が白いレースを編んでいる姿を映して、映画は終わります。

ふたりの恋愛はうまくいっていたのに、越えるべき山が高すぎたため、愛はその山を越えられないまま力尽きてしまいます。

木が2本並ぶと、それぞれは別の根でありながら、場所争いをした末に互いの枝を絡み合わせ、最後は1本の木になります。こうなると、互いの根や性質、つまり互いに違う点を認め合いながら、1本だったときよりも強く、美しく育っていきます。

このように2本の木が育っていく過程でひとつになることを「連理木(れんりぼく)」と呼びますが、人もこれと変わりがありません。

ふたりが実際にぶつかる障害を乗り越える準備ができているならば、愛は多くのことに打ち勝ちます。お互いの違う点を認め合い、尊重していくうちに、愛はさらに広がり、新たな世界を発見していくようになります。

しかしここで、ふたりの考え方やライフスタイルの違いを、愛が冷めたせいだとか愛していないからだと考えたり、相手を自分の世界にやって来たよそ者だと考えたりすると、愛は違いを乗り越えられないまま消え失せてしまいます。

愛が勝つか負けるかは、それぞれの愛の限界を認め合い、互いの違いを乗り越えて距離を狭めるためにどれほど努力できるかにかかっています。

文化的・教育的な違いを愛が克服できるのか?

人はだれもが自分の習慣や考え方を頑固に変えたがらないものです。

もし「わたしが損をしそう」とか「僕が苦しくなる」という気がしているときは、本当は「身に染みついた文化的・教育的な違いを、愛が克服できるだろうか?」と自問しているのです。そして、その問いに対する答えは、あなただけが知っています。

映画『情愛』に登場する、愛する人とは結婚をせずに恋愛だけしたいというヨンヒ(オム・ジョンファ)は、恋人の甘い愛の言葉にこう答えます。

「うそでもうれしいわ。一生こんなふうにデートしながら、そんな甘い言葉をたくさん聞いて暮らせればいいのに」

ヨンヒは結婚の本質のひとつをすでに知っている賢い女性です。なぜならば結婚生活は、愛と結婚に対する幻想を壊す序曲として始まるからです。

新婚の甘さとときめきは、すぐに日常のなかに埋もれ、繰り返されるせわしない日常に経済の論理が入り込んでくると、結婚は「生存と生活をともにする家族」へと変貌を遂げます。

些細な日常までもともにするなかで、徐々にそれぞれの本当の姿が表れてきます。間もなく、失望と絶望、驚きと喜びが生まれ、変化に富んだ結婚生活、「血迷ったこと」が始まるのです。

夫は、スマートでミステリアスな雰囲気だった妻がいまや目ヤニをつけてぼさぼさの頭で過ごすようになったことに驚き、妻は妻で洗顔やシャワーを嫌がり不潔でいるようになった夫に驚きます。

互いの欠点に気づき「すっかりだまされた!」

また、結婚前は愛のために命さえ差し出しそうだった夫が、指一本動かそうとしなくなった姿を目にして、妻は不満を爆発させます。

もはやロマンチックな結婚の夢は消え失せ、恋愛していたころに気づかなかったか、気にしていなかった相手の欠点が目につき、結婚に対して疑いを抱くようになります。結婚前にすでにお互いのすべてを知っていると自負していた恋人たちが、結婚した後になって「すっかりだまされた!」と叫ぶなんて、どうしたことなのでしょう?

恋愛はすべてを共有するわけではありません。

互いの小さな習慣や日常の細かい部分、マイナスの通帳、暗い家族史など、きわめて個人的な部分は各自の領域として隠せます。そして、愛の感情と夢、表に現れた日常だけを共有するのです。

恋愛は、相手に見せたい部分だけを見せようと努めます。しかし、結婚はそういうものではありません。

お互いを遮っていたカーテンを開け放つのです。まるで華やかな舞台の裏に小物や装置が雑然と散らばっているように、結婚とともに開いたカーテンは、自分がいままで考え予測してきた相手と実際の人物とは、まったく違うということを確認させてくれます。

そのため新婚のころには激しい夫婦喧嘩が起こりやすいのです。しかし、これは細かな部分でまだ合わないふたつの歯車が、噛みあって回りながら立てる音だと考えることができます。

摩擦を繰り返していくうちに、ふたつの歯車は滑らかに噛みあって回りはじめます。しかし、これを我慢できずに「だまされた。こうだとわかっていたら、結婚しなかったのに」と、激しい怒りが込み上げてくるようになったら、一度考えてみてください。

お互いを理想化しないのが夫婦円満の秘訣

相手を理想化しすぎたのではないか、または、童話のなかの王子様やマンガの女主人公を望んでいたのではないか、と。


もうひとつ、結婚生活をもう少し円満に送るには、お互いにうまくだまされてあげることも必要です。

夫が王子のふりをするとき、妻が少女マンガの女主人公のふりをするときはだまされてあげること。

相手の欠点と失敗をよくわかっているけれど、わざと気づいていないふりをしてあげること。

これも結婚生活の大切な技術であることを覚えておいてください。束縛するようでいて束縛しないこと、自由にさせないようでいて自由にさせることは、お互いに傷つきあうのを減らし、お互いの存在に感謝できる方法です。

(キム・ヘナム : 精神分析医)