現実世界をコンピューター上に再現するデジタルツインは、いまや製造業や工業、航空宇宙分野の要となっている。都市や港、発電所がすでに複製されているのだ。

「人間の脳を“デジタルツイン”としてコピーする:進化する神経疾患の治療と、見えてきた倫理的な課題」の写真・リンク付きの記事はこちら

米航空宇宙局(NASA)の研究者ジョン・ヴィッカーズが2010年に発表したテクノロジーロードマップのなかで、デジタルツインという言葉が初めて用いられた。業界アナリストによると、デジタルツインの市場価値は26年までに50兆ドル(約6兆1,145億円)になると推測される。

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このアイデアが生物学に応用されるまで、そう時間はかからなかった。ゼネラル・エレクトリックの一部門であるGEデジタルの当時の最高経営責任者(CEO)だったビル・ルーは、16年の時点で次のように予言している。

「わたしたちは生まれながらにしてデジタルツインをもつことになるだろう。そして体に取り付けたセンサーが取得したデータがデジタルツインに送られ、がんなどの病気やその他の症状を事前に知ることができる時代が訪れる」

デジタルツインは患者に合わせた治療法を知らせ、病気の発症を予測できる可能性を秘めている。さらに、患者がリスクを伴うことなく臨床試験を実施することも可能になるかもしれない。

症状の数値化を可能にする

こうしたプロジェクトの開発は、いまのところほとんど初期段階にある。欧州、英国、米国の研究者が参加する「Echoes」という研究プログラムでは、心臓のデジタル上への複製に取り組んでおり、ドイツの医療機器メーカーのシーメンスヘルスケアも同様の技術の開発に着手している。フランスのソフトウェア企業のダッソー・システムズは米食品医薬品局(FDA)と提携しており、共同研究による「リビングハート」というプロジェクトが承認されている。

またオーストリア企業のGolemは、ひとり暮らしの社会的弱者の人々のデジタルツインを開発している。このデジタルツインは常に健康を観察し、もし患者が病気にかかり助けが必要になった場合は介護者に救急通報を送るアイデアだという。

こうした研究がすすむなか、研究者たちは脳のデジタルな複製という非常に高い目標を掲げて挑戦している。欧州連合(EU)が資金提供している「Neurotwin」というプロジェクトは、患者それぞれの脳全体のコンピューター化されたモデルの構築を計画しているのだ。

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Neurotwinの開発チームは、このモデルを用いて、てんかんやアルツハイマーといった神経疾患の治療における神経刺激治療の効果を予測できるようになると期待している。

具体的には23年に臨床試験を開始し、アルツハイマー患者約60人のデジタルツインを作成し、それぞれの患者に最適化された脳神経の刺激治療を実施する予定だという。

これと同じ手順で、治療による改善が見受けられない局所てんかん患者を対象とした2度目の臨床試験も同じ年に計画されている。この臨床試験は、こうした神経疾患の患者の治療成果を向上できるか判断するための概念実証試験だ。

もしこれが成功すれば、開発チームはこの技術を応用して多発性硬化症や脳卒中のリハビリ、うつ病、サイケデリクス(幻覚剤)の効果など、脳のほかの特徴についても研究を進める予定だという。

無限にできる臨床試験

てんかん患者の3分の1には薬物療法は効果がないとされている。ただし、脳に電流を流すような非侵襲的(生体を傷つけない)な手法なら、痛みを伴わずに発作の頻度と強さを緩和できるようだ。

しかし、この技術はまだ新しいことから、実装するまでには洗練させる必要がある。そんなときこそ、デジタル上で複製された脳の有用性を証明できるわけだ。

こうした脳の“アバター”は基本的にコンピューター上で動作する数式モデルなのだと、Neurotwinのプロジェクトコーディネーターであり、てんかんなどの神経疾患に対する非侵襲的治療法を開発しているスペインのヘルステックスタートアップNeuroelectricsの共同創業者ジュリオ・ルフィーニは言う。

Neurotwinの研究チームはてんかん患者のデジタルツインを作成するために、約30分のMRIデータと約10分の脳波計のデータを取り込み、脳の電気活動をとらえるコンピューターモデルを生成している。これを基に頭皮や頭蓋骨、脳脊髄液、灰白質などの脳の主要組織を実物同様に再現しているのだ。

デジタルツインには「ニューラルマスモデル」のネットワークが組み込まれる予定だと、ルフィーニはいう。これは患者の「コネクトーム(脳の神経回路の地図)」を使って互いに接続された多数のニューロンの挙動の平均値を算出してモデル化したものだと、ルフィーニは説明する。

てんかんの場合はコネクトームの一部が過剰に興奮し、これに対して脳卒中の場合はコネクトームが改ざんされる可能性がある。しかし、デジタルツインが一度つくられると、研究チームはそれを使って実際の患者の脳への刺激を最適化できるという。「必要なものが見つかるまでコンピューター上で無限にシミュレーションできるからです。馴染みのある例えでいうと、天気予報の計算モデルのようなものですね」と、ルフィーニは説明する。

例えば、てんかん患者の治療法を改善するために、その人は毎日20分間ヘッドキャップをかぶり、経頭蓋電気刺激を脳に与えることになる。しかし、ルフィーニと彼のチームはデジタルツインを使うことで、刺激用電極の位置や流す電流のレベルを最適化できるわけだ。

複製された“臓器”は誰のもの?

臓器をコンピューター上で複製するとなると、倫理的な問題が絡んでくる。

例えば、2週間後に心臓発作を起こすと予測された場合、患者にはそれを知る(もしくは知らずにいる)権利はあるのだろうか。また、患者が死んだあとのデジタルツインはどうなるのか。法的権利や倫理的権利はあるのだろうか。

一方で、デジタルツインは新しい治療法を開発するための刺激的で画期的な道を拓いてくれるだろうと、フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルクの倫理学者マティアス・ブラウンはいう。「しかし、同時に課題も浮き彫りになっています」と、医療におけるデジタルツインの使用に関わる倫理について論文を書いているブラウンは指摘する。

一例として挙げられるのは、誰がデジタルツインを所有すべきか、ということだ。所有者は開発した企業なのだろうか?

「それとも患者の健康保険やその他の文脈での利用に関して、特定の情報や予測の利用を拒否する権利があるのでしょうか? 患者の自律性やプライバシーを守るためには、自分のデジタルツインがどう利用されるかを制御できることが重要なのです」と、ブラウンは語る。こうした権利を失うことを「デジタルスレイブ(デジタルな奴隷)」とブラウンは呼んでいる。

NeuroelectricsのCEOのアナ・マイクスは、デジタルツインによって構築される極めて個人的な情報の取り扱いという問題にすでに取り組んでいるという。「この種のパーソナライズされた情報を扱う場合、知識としてもっていたほうがいいこともあります。例えば、デジタルツインのデータの所有権は誰にあるのか。そしてそのデータを何に使うのかといったことです」

Neurotwinの倫理的な要素と哲学的な要素を分析するために、数名の研究者がこのプロジェクトに参加している。スウェーデンのウプサラ大学の神経倫理学者マニュエル・ゲレーロも、そのうちのひとりだ。欧州を拠点に置くNeurotwinによって収集されたデータは、EUの一般データ保護規則(GDPR)に基づいて保護される。つまり、データを利用する場合は所有者の同意が必要になるのだと、ゲレーロは説明する。

一方でゲレーロと彼のチームは、製造業のためにつくられたデジタルツインという言葉が、生きた脳や心臓といった複雑で動的な器官の複製の表現に適しているのかを探っている。デジタルツインの医療への利用は社会に誤解を生むのか、それとも期待を高めることになるのだろうか。「脳は製造業でつくられるほかの複製物よりはるかに複雑なので、脳をデジタルに複製するという概念は神経科学界で議論されていることなのです」と、ゲレーロは語る。

脳の複製は、心臓や腎臓の複製よりも複雑さは桁違いで、倫理観も難解な可能性がある。「わたしたちはかなり高度な脳の計算モデルをつくっています。このデジタルツインが臨床試験を実施するためのバーチャルな“双子”なのか、それとも感覚のある存在なのかがある段階で曖昧になってくると思います」と、Neuroelectricsのルフィーニは指摘する。

倫理学者のブラウンは、こうした厄介な質問を直視する時期だと言う。「これらはいま、わたしたちが直面しなければならない最も重要な課題だと考えています」とブラウンは指摘する。そして、「『新しい技術を開発したあとに倫理的な問題は考えよう』となった場合にどうなるか、わかっていますよね」と、倫理や道徳的な概念を後回しにした結果がもたらす危険性を警告している。

しかし、デジタルツインの生成がうまくいけば、患者の症状改善や治療が難しい脳疾患に関する知見の両方を劇的に改善できると、Neurotwinの開発チームはいう。「わたしたちは、脳疾患に苦しむ人々をまったく異なる視点から支援すべく取り組んでいます」と、Neuroelectricsのマイクスは説明する。「わたしたちはこれを新しいカテゴリーの治療法と考え、物理と数学の力を使って脳を解読しようとしているのです」

(WIRED US/Translation by Naoya Raita)

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