「ワクチン開発立役者」カリコ氏が逆境に勝てた訳
カタリン・カリコ氏(写真:© 2021 Bloomberg Finance LP)
ファイザー製やモデルナ製の新型コロナウイルスのワクチンには、遺伝物質の「メッセンジャーRNA(mRNA)」の技術が使われています。今回のワクチンに欠かせない技術を開発したとして、アメリカの権威ある医学賞「ラスカー賞」にドイツのビオンテックで上級副社長を務めるカタリン・カリコ氏らが選ばれています。
40年にわたりmRNAの研究をしてきたカリコ氏はハンガリー出身のアメリカ移民。研究成果はなかなか認めれられず、その人生は苦難の連続でした。「『ワクチン開発立役者』カリコ氏の壮絶な研究人生」に引き続き、ジャーナリストの増田ユリヤ氏が上梓した『世界を救うmRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ』より一部抜粋・再構成してお届けします。
mRNAの研究で新しいタンパク質の生成に成功
そもそもカリコ氏がmRNAに興味をもったきっかけは、ハンガリー時代にさかのぼる。博士課程の担当教官から、RNAの存在と量などを明らかにするためのシーケンシング(遺伝子の正確な配列を調べること)を依頼するために、アメリカ・ニュージャージー州にある研究室に生体サンプルを送ってくれと頼まれたことだった。カリコ氏はこの種のRNAが薬として使用できるかもしれない、という可能性にひかれたのだ。
カリコ氏はペンシルベニア大学のバーナサン氏のチームで、mRNAを細胞に挿入して新しいタンパク質を生成させようとしていた。実験のひとつは、タンパク質分解酵素のウロキナーゼを作らせようとしたこと。もし、成功すれば、放射性物質である新しいタンパク質は受容体に引き寄せられる。
放射性物質の有無を測定することで、特定のmRNAから狙ったタンパク質を作り、そのタンパク質が機能を有するか評価できるのだ。
「ほとんどの人はわれわれを馬鹿にした」(バーナサン氏)
ある日、長い廊下の端においてあるドットマトリックスのプリンターをふたりの科学者が食い入るように見つめていた。放射線が測定できるガンマカウンターの結果が、プリンターから吐き出される。
結果は……その細胞が作るはずのない、新しいタンパク質が作られていた。つまり、mRNAを使えば、いかなるタンパク質をも作らせることができる、ということを意味していたのだ。「神になった気分だった」カリコ氏はそのときのことを思い返す。
「mRNAを使って、心臓バイパス手術のために血管を強くすることができるかもしれない」「もしかしたら、人間の寿命を延ばすことだって可能になるかもしれない」
興奮したふたりは、そんなことを語り合った。つまりこれが、ワクチン開発の肝となる、mRNAに特定のタンパク質を作る指令を出させる、という最初の発見だったのだ。「ケイト(カリコ氏)は本当に信じられないほどすばらしいんだ」とバーナサン氏は言う。
「いつも驚くほど探求心がいっぱいで、ものすごい読書家。つねに最新の技術や最新の発表を読み込んでいて、その内容は専門分野だけでなく他の分野にも及んでいた。古いものから、前日に『Science』誌に発表されたものまで、自分が得た知識や情報を組み合わせて『これをやってみませんか?』とか『この方法はどうですか?』と提案してくるんだよ」
「彼女の研究方法は、小さな解決法の『パッチワーク』のようだった。それが縫い合わされると、何か美しくて温かいものができるのではないか。それが彼女のmRNAだったんだ。決してあきらめずに、日々新しい情報を仕入れて挑戦し続けていた。そんな科学者はそうそういるものではないでしょう」
バーナサン氏は、カリコ氏のことをそう評価する。このとき、実験の成功を祝ったのか、という質問に対して、カリコ氏はこのように答えている。
「学者の中には、自分の研究(実験)がいつか成功する日を夢見て、その日が来たらお祝いをするために冷蔵庫にシャンパンをしまっておく人がいるんですよね。そうしている人がいることは知っていますが、私はそんなことはしませんでした」
「それよりも、この発見(mRNAに特定のタンパク質を作る指令を与えること)はとても重要なことで、『これさえあれば、私は何でもできるのではないか。これは必ず誰かの何かの役に立つはずだ』と思ったのです」
研究費不足でチームは解体
しかしその後、研究費不足でチームは解体され、バーナサン氏は、大学を辞めてバイオテク企業に転職していった。「やっていることがあまりに斬新すぎて、お金をもらえなかった」とカリコ氏は振り返る。mRNAを使って囊胞性線維症や脳卒中を治療したいと考えたが、研究のための助成金を得ることはできなかったのだ。
非常勤の立場にあったカリコ氏は、これで所属する研究室も金銭的援助も失ってしまった。もし、ペンシルベニア大学に残りたければ、別の研究室を探さなければならなかった。
「彼ら(大学側)は、私が辞めていくだろうと思っていたはずよ」(カリコ氏)
たとえ博士号保持者とはいえ、大学は非常勤レベルの人間を長居させてくれるところではない。ところが、カリコ氏の仕事ぶりを見ていた研修医のランガー氏が、脳神経外科のトップに掛け合って、カリコ氏の研究にチャンスを与えてくれるよう頼んでくれたのだ。「彼に救われたの」とカリコ氏は言う。
しかし、ランガー氏の受け止め方は違う。
「カリコ先生が私を救ってくれたんです」
「多くの科学者が陥る考え方から、自分を救ってくれたのがカリコ先生でした。彼女と一緒に働いていて、本当の科学的理解というのは、何かを教えてくれる実験をデザインすることで、たとえその結果が聞きたくないものであったとしても、必要なものであることを教えてくれたんです」
「大事なデータは、対照群から得られることが多い。それは比較のために使用するダミーを含む実験です。科学者がデータを見るときの傾向として、自分の考えを立証してくれるデータばかりを探してしまう傾向がある。しかし、最高の科学者は自分の理論が間違っていることを立証しようとするんです。ケイト(カリコ氏)の天才的なところは、失敗を受け入れることを厭わず、何度でもトライする。人が、愚かすぎて聞かなかった質問に答えようとすることなんです」(ランガー氏)
逆境に立ち向かい続けた研究者としての信念
何とか大学に残れたものの、研究を続けていくのは容易ではなかった。当時、mRNAを使えばタンパク質を作らせることができるということはわかっていたが大きな欠点は、体内に注入すると激しい炎症反応を引き起こすことだった。しかし、カリコ氏はこの問題を克服できると信じていた。
だが、彼女に同調するものはひとりもいなかった。
「毎晩、毎晩、仕事をしていたわ。助成金! 助成金! 助成金!って」
「でも、返事はいつも、ノー、ノー、ノー」
「ある年の大みそか、一晩中申請書づくりの作業をしていたことがあって。締切が1月6日だったから、せっかく遊びに来ていた姉にも『ごめんなさい、このお金がどうしても必要なの』と謝ってね。この申請は、6案件まで受け付けてくれるもので7案件が提出された。その中で唯一落とされたのが、私のものだった。あとから知ったことだったけれど」
「でも、助成金の申請書を書くのは、イヤじゃなかったのよ」
と彼女は言う。多くの研究者は研究の妨げになるからと、書類作成などに手間のかかる助成金の申請を嫌った。しかし、カリコ氏は、申請書を書く過程を「自分の考えに磨きをかけるいい機会」と捉えていたのだ。
「申請書を書くのが好きだったの。そのためには、すべての工程と研究を見直さなければならないから。実験についても見直せるいいチャンスと思っていたわ」
誰かひとりでも研究に協力してほしい。彼女は、誰彼かまわず声をかけた。
「例えば、科学技術の会議に出席すると、隣に座った人に『何を研究しているんですか?』ってたずねるの。そしてこう言うのよ。『あら、もしかしたらこのRNA技術が使えるかもしれないわ。(RNAを)作ってあげるわよ』ってね。その研究内容が病気に関することであろうと、ハゲのことであろうと、何でもね(笑)」
キャンパス内でも、いろいろな人に会って援助を求めた。
「いろいろな講義に出て、隣に座った人に声をかけました。興味をもってくれる人もいて、具体的に会う日を決めようとすると、あとになって適当な言い訳をして断ってくる。カリコとはどんな人物かをやはり多少なりとも調べますよね。そこで学内での地位もない、研究費もない、学術出版もない、ということを知るからなんです」
「RNAハスラー」とまで呼ばれるように
くじけたり、傷ついたりしなかったのか。
「確かにそのときは傷ついたけれど、気にしないことにしました。そのことで自分がつくられていくわけではないですから」
「不安定な状況でいることは、悪いことばかりではない。その人の性格にもよりますが、人によってはつねに緊張状態を強いられるかもしれないし、あるいはそのことによって勇気づけられるかもしれない。私の場合は後者です。もし、安定した常勤の立場だったら、そこまで自分を追い込んで研究に没頭できなかったかもしれないですよね」
それでも、キャンパス内で会う人会う人に、自分がつくった「分子」を押し付けるようにして渡していった―その分子は、冷凍庫にしまい込まれて忘れ去られていったのだが――。この熱心さゆえ、のちにペンシルベニア大学内でカリコ氏は、RNAをごり押しする人、張り切っている人というので、「RNAハスラー」とまで呼ばれるようになった。当時、カリコ氏の教え子だったというワイルコーネル医科大学助教のデビッド・スケールズ氏は、こう振り返る。
「カリコ先生は、RNAの可能性について、とてつもない情熱をもっていた。彼女はRNAの伝道師であり、通訳者でもあった。私自身、いろいろな可能性について考えさせられた」
「ただ、あまりに理論だけが先行しすぎて、誰もこんなことをやっていなかったので、ついていけなかった部分もあったのだろう」(スケールズ氏)
彼女自身、「私はセールスウーマンとしては最低」だと認めているが、RNAに関する自分の研究を説明するときに、彼女の頭の中は1分間に100マイルも進んでしまうという。あまりに速すぎて他の人が話に追いついていけない状況になってしまうのだ。
1995年、カリコ氏はペンシルベニア大学から降格を言い渡される。「成果を出すことができず、社会的意義のある研究とも思えない」というのがその理由だ。研究室のリーダーを降ろされることになったカリコ氏。未来を期待する科学者にとって、大きな後退だ。
「普通は、この時点で、人はバイバイと言って大学を離れるのよ。それだけひどいことだから」(カリコ氏)
「研究は私の趣味。他にお金はまったく使わなかった」
ちょうどこの時、彼女にがんが見つかり、ハンガリーに戻っていた夫がビザの問題で出国できないというトラブルも重なった。
「どこか別のところに行こうか、何か違うことをしようか、とも考えたわ。自分には何か足りないのではないか、賢くないんじゃないか、と思ったの。いろいろ想像してみたんだけれど、結論はこうだった。『すべてはここにある。もっといい実験をすればいいのよ』」
カリコ氏は降格を受け入れ、大学にとどまることを選んだ。彼女が初めてペンシルベニア大学に来たとき、彼女の研究室は病棟の向かい側に建っていた。カリコ氏はいつもそこにいる人々に思いを馳せていた。
「同僚に対して、いつもこう話していたの。『私たちの科学をあそこにいる患者たちに届けなければならない』ってね。窓の外に見える病棟の患者さんたちを指さしながら『絶対にあそこに届けなくちゃ』と」
「研究は私の趣味。他にお金はまったく使わなかった。収入が減っても、私と家族の質素な生活を続けるには十分だったし、私自身は毎日楽しかった。仕事が娯楽だったのよ」