未来を作る礎の銅と銀!

最後の最後までわからない競い合いと、どうなるかわからない未来への頑張りが生んだメダルでした。スポーツクライミング女子複合、日本から出場したのはこのスポーツの国内第一人者である野口啓代さんと、野口さんとともにこのスポーツを盛り立ててきた野中生萌さん。このふたりが東京五輪に出場し、そしてメダルを獲ってくれたことは、これまでの奮闘が報われ、未来につながっていくような気がする感動的なものでした。


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「スポーツクライミング」というものがあって、それがどういうものなのか、そのほとんどを教えてくれたのは野口さんの活躍でした。もちろんフリークライミングなど下地となる文化はありつつ、1990年代にかけての競技化以降に活躍した日本の先人たちもいるわけですが、スポーツクライミングを広く世間に広める役割を担ったのはやはり野口さんだったように思います。

2000年代にはすでに世界で活躍する選手となり、2010年代はじめには「情熱大陸」などで採り上げられるような存在となっていた野口さん。それでもスポーツクライミングというものが認知されるにはまだまだ遠く、印象に残るのはバラエティ番組での「コンビニで一歩も足を地面に着かずに買い物する」などのチャレンジ企画のほう。「すごい選手」というよりは「すごい人」という扱いでした。

そうした競技黎明期において、こういうものがあるんです、楽しいことがあるんです、というのを広めていく存在というのは、まさに「起業」のようなものです。自分自身が選手であり、広報マンであり、営業マンであり、解説者である。魅力を伝え、それで生きられるような道を模索し、夢を見させないといけない。「スタートアップ」のような仕事は、楽しいけれど大変な時間だったと思います。

そこに訪れた五輪という大きなチャンス。2016年に正式に追加種目としてスポーツクライミングの採用が決定したのちは「メダル候補」という重責も加わりました。自分のために頑張るということはもちろん、この競技の未来を作る使命のようなものを、さらに背負ってもらう形となりました。この時代の第一人者として、未来の人たちの期待までも背負ってきました。「このチャンスをつかんで、このスポーツを広めてくれよ」という。



6日の決勝、野口さんと野中さんはメダルを狙える位置につけています。決勝出場の8選手が単純に予選通りの結果になれば、日本勢のメダル獲得はありそうな状況。大本命と言えるスロベニアのヤンヤ・ガンブレットを追いかけるのは大変そうですが、ひとつ、ふたつ順位をあげればダブル表彰台というのも視界に入っています。

第一種目のスピード、日本勢は勝負の準々決勝を突破し、「1〜4位」以内を確保します。3種目の順位の掛け算で最終順位を決める複合種目において、スピードの準々決勝は大きく結果を左右する一戦です。勝てば「1〜4位」になり、負ければその時点で「5〜8位」が決まってしまう勝負の7秒。まずここで勝ったのはいい滑り出しでした。

↓日本勢同士による3位決定戦は、スピードで日本記録を持つ野中さんが勝利!


第二種目のボルダリングは日本勢、特に野口さんが得意とする種目。しかし、設定された課題が非常に難しく、各選手が一様に苦しみます。第1課題は野口さんがゾーン獲得(※中間地点到達でのポイント)のみで、野中さんはゾーン獲得ならずという状況。第2課題も野口さん・野中さんともにゾーン獲得のみで完登はなりません。

そんななかチカラを見せたのは優勝候補のガンブレット。ただひとり第1課題、第2課題を完登して第3課題を待たずにこの種目の1位を決めます。ガンブレットは苦手のスピードでも5位に入っており、この時点で「5位×1位=5ポイント」。リードも世界ランク1位のチカラを持っており、早くも金メダルが濃厚という状態になりました。

日本勢は何とかメダル圏内に滑り込めるかという第3課題でしたが、野口さんはゾーン獲得ならず、野中さんもゾーン獲得まで。ゾーン獲得数・トライ数の差などによって野口さんはボルダリングで4位、野中さんは3位とします。ひとつも完登できず、ゾーンも取りこぼすという展開は苛立ちも募る内容でしたが、辛うじて踏みとどまったというところ。



そして最後のリード。野口さんは4番目に登場します。今大会で現役引退を表明している野口さんにとって、競技としてのぼるのはこれが最後という節目のクライミング。3人目までの選手が高度20+(※20段階目の高さまでのぼり、次のホールドにトライしたの意)以下での落下となるなか、野口さんは高度29+を獲得。この時点での暫定トップとします。どこまでのぼればメダルなのかはわからない状況ですが、行けるところまで行って、天命を待ちます。

5人目のガンブレットは高度37+までのぼり野口さんの上へ。とは言え、ガンブレットはほぼ金確定の状況なので、直接のライバルではありません。「さすがヤンヤ・ガンブレット」と思うのみ。6人目の野中さんは高度21まで到達。掛け算による順位付けなので最後までどうなるかはわかりませんが、上から5番目以内に入ることは確実とし、そのあとの選手の状況を見てもメダルが見えてきました。つづく7人目のジョシカ・ピルツはトップを目指してのぼりますが高度34+で落下して暫定2位となります。この時点で野中さんが総合2位、野口さんが総合3位というメダル圏内に入って最後の8人目徐采鉉を迎えます。ただし、野中さんは「3位×3位×4位or5位=36ポイントor45ポイント」ということで、徐采鉉の結果によらずガンブレット以外を上回ることが確定し、銀メダルが決まりました。よし、まずひとつ。

ただ、野口さんのメダルの行方は最後まで揺れています。野口さんは「4位×4位×3位or4位=48ポイントor64ポイント」という状況ですが、先ほどのぼったジェシカ・ピルツは「6位×5位×2位or3位=60ポイントor90ポイント」という状況で二者は競り合っています。さらに徐采鉉もここまで「8位×7位」ですのでリードを1位とすれば56ポイントでメダル圏内に飛び込みます。

具体的に言えば、「最後の徐采鉉がリードで1位になる」または「最後の徐采鉉が野口さんを抜いて、ピルツより下で落ちて3位になる」という状況だと野口さんはメダルを失います。「徐采鉉が2位、しかダメなんですか?」という状況です。頭のなかで掛け算を巡らせながら、落ちて欲しいような、落ちて欲しくないような、揺れ動く心境で見守ります。順調にのぼる徐采鉉は野口さんの高度29+をまず突破。そこから時間を使いながらじわじわとのぼり、ピルツが到達した高度34+をわずか一手ぶんだけ越えた高度35+で落下。「ここしかなかった」という結果で、野口さんの銅メダルが決定しました!

↓最後の徐采鉉まで誰がメダルか決まらない熱戦でした!

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成績的には余裕で金となったガンブレットも、そして最後まで競り合ったなかでメダルとなった野口さんも野中さんも、目には涙が浮かんでいます。それはこの日の戦い自体もさることながら、この舞台を目指した日々に背負ってきたたくさんのものから解き放たれた涙だったように思います。ひとつの競技を背負い、未来の期待を背負ってこの舞台に臨む。日本では野口さんや野中さんがそういう立場であったように、世界においてはガンブレットがそういう立場だったのだなと改めて思います。「この時代を担う者」として、この競技の素晴らしさを示さなければならないという重圧があったのだなと思います。

最後は全員が抱き合うような美しい幕切れ。出来上がったシステムのなかで勝ち負けと損得を取り合うのではなく、このスポーツそのものを盛り立てる「仲間」たちの競演だったのだと示す姿でした。みんなで頑張り、みんなで素晴らしい競い合いを生み出した。そのなかで開催国の代表が2つもメダルを獲ってくれたのは、本当にありがたいことでした。未来につながる礎をいただきました。

競技後のインタビュー、銅メダルの野口さんは「心が折れそう」になりながらも、これが最後と思って諦めずにのぼったと振り返ります。銀メダルの野中さんは「故障の痛みを無視してテクニックを出した」と言います。そしてふたりともに「一緒に表彰台にのぼれてよかった」と。そして、表彰式後のインタビューでは野口さんから野中さんに「私が引退しても任せられる」とパリ五輪への激励を送り、野中さんは野口さんの不在を埋められるか心配しつつも「胸を張って日本を引っ張っていく」と誓いました。スポーツクライミングを支えてきた人たちによる、自分だけではなく、みんなのことを思っての引き継ぎ劇でした。

頑張ってきた人が報われたこと、素晴らしい試合が生み出されたこと、これからさらにこの競技を広めていくのに役立つメダルが日本に残ったこと、とても良かったなと思います。日本におけるスポーツクライミングは素晴らしい礎を手にしたなと思います。すでにたくさんの若い選手が現れ、第一人者たちを越えていこうかという活躍を見せていますが、そういう人たちにとっても素晴らしい五輪になったと思います。パリでもメダルが期待され、注目され、支援が集まる、そういう好循環を偉大な先輩が作ってくれたのですから。

国内代表争いでは、日本側の規定の解釈に誤りがあり、混乱も生まれました。その際、野中さんは自分が代表になったにもかかわらず、ほかの選手の手前素直に喜ぶこともできない複雑な心境と、混乱への憤りを示していました。ただ、やはり、なるべくしてこうなったなと思います。未来の期待を背負う大事な舞台、託せるのは、担えるのは、このふたりだっただろうと。いろいろありましたが、みんなが納得できる素晴らしい結果だったのではないでしょうか。いいものを見させていただき、ありがとうございます!

↓第一人者が有終の銅を獲り、銀にバトンを引き継ぐ!美しいリレー!


↓「先の展開が見えないなかで頑張るしかない」この試合は、まさに競技人生そのもののようでした!


掛け算で決まる仕組み、理不尽で面白かったです!

最後の最後までどうなるかまったくわからなくて!

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パリ五輪、そしてロス五輪でも見られるように、この競技の発展を祈ります!