2019年10月13日。

 

漫画家の吾妻ひでおさんが亡くなった。享年69。まだお若いのに残念だと言うべきか、もうお疲れになっただろうから、ゆっくり休んでいただきたいと言うべきか……。

 

彼のことを思いながら、私は今まで何度か手にした『失踪日記』(イースト・プレス・刊)を再読した。しないではいられなかったのだ。

 

吾妻ひでおの運命の変転

吾妻ひでおは、1969年、『月刊漫画王』の「リングクレイジー」でデビューした。その後、50年の間、何度か中断しながらも、とにかくひたすら漫画を描き続けた。いや、描こうとしていた。

 

ジャンルは驚くほど幅広く、SF世界を扱ったものもあれば、ナンセンス、ロリコン、ハレンチコメディなど、マニアックな作品を次々と世に送り出した。どちらかといえば、万人受けする作風ではなかったがファンは多く、締め切りにつぐ締め切りをこなす毎日であった。

 

しかし、創作の疲れもあったのか、やがてアルコールに依存するようになった。家族の助けもあってどうにかこなしていたものの、次第に仕事は低迷し失踪事件を起こすまでになる。1989年のことだ。

 

 

死ぬ決心をしたものの

連載を落としてしまった吾妻ひでおは、一旦、仕事を中断し休養期間に入る。けれども、漫画を描かない吾妻ひでおに休息のときは来なかった。

 

朝、仕事場に向かうまではいいとして、結局、お酒を飲んで寝てしまう。夕方、家に帰るとやはりお酒を飲んで寝る。眠れなくてさらに飲む。そんなことを繰り返しているうち、鬱と不安に取り憑かれるようになり、もう死ぬしかないというところまで追いつめられた。

 

あるとき、首吊り自殺する決心をかためた。死に場所を求めて、山中に向かうものの、結局、またお酒を飲んで眠ってしまう。このあたりの描写は、深刻でありながら、笑いを誘う何かで満ちている。これが吾妻ワールドなのだろうか。

 

 

失踪の日々

そして、そのまま吾妻ひでおは失踪する。家庭が嫌だったわけはない。漫画家という仕事を憎んでもいなかった。自分でもよくわからぬままに、とにかく、すべてから逃げ出しホームレス生活に入る。

 

やまほど締め切りを抱え、売れっ子だった毎日も今や昔。忘れ去られた漫画家として、山や公園に寝泊まりし、ゴミをあさり、生きていく日々を過ごすようになった。

 

 

再び失踪するものの

失踪生活は2度にわたった。1回目は警察官によって保護され、家に帰る。しかし、それから数年後、2回目の失踪をする。

 

不思議なのは、失踪生活をしながらもホームレス仲間の斡旋により、日雇いの仕事をして稼ぐようになることだ。それだけではない。たまたま会社で漫画を募集していたことを知り、四コマ漫画を投稿して採用されたりしている。漫画の締め切りが辛くて、逃げ出したはずが、やはり漫画を描かなければ生きていけなかったということか。

 

 

失踪日記は3部構成

『失踪日記』には二度にわたる失踪の日々とアル中との戦いが描かれている。三部構成になっており、最後にとり・みきとの対談がある。

 

まず、最初の「夜を歩く」の部は、最初の失踪について詳細な記録が描かれる。といっても、何もかもすべてをむき出しに描いてあるわけではない。

 

このまんがは人生をポジティブに見つめ、なるべくリアリズムを排除して描いています

(『失踪日記』より抜粋)

できごとをそのまま描くのでは、作品にならないことを吾妻ひでおは知っているのだ。

 

 

ホームレスという労働者

第2部は「街を歩く」。一度目の失踪からなんとか立ち直り、仕事に復帰していた彼だったが、またも原稿を落としてしまう。逃げ出すしかない。その理由は

 

頭から何やら湧いてきたせいだ

(『失踪日記』より抜粋)

 

二度目の失踪ともなると、変な話だが、ある意味余裕もできるのだろう。吾妻の描写は秀逸である。ふと出会った奇妙な人物を「芸術の人」と表現したり、食べ物あさりのノウハウなど笑いに彩られている。

 

さらに、ホームレスは閑であるという。そこで、閑をもてあました彼はちょっと働いてみたりもする。この間の事情は実に不思議だが、確かにそういうことってあるのだろう。

 

 

アル中の日々

失踪は2回で終わったが、家庭に安住したかというと、そうではない。アルコール中毒により、強制入院にまで追い込まれる。入院前の生活は悲惨である。読んでいてつらい。

 

昼ごろ二日酔いで起きると、気分が悪く頭痛もする。それをなんとかしようと、また飲む。震える手を隠すように飲む。そして、急に元気を取り戻して公園で飲み、市民ホールで飲み、喫茶店のトイレで飲んで、帰宅して、寝酒としてまた飲む。結局、眠れないので、また飲み、さらに飲み、寝たままもどし、そして、ぼろぼろの二日酔いで目覚める。そのくり返し……。

 

たまりかねた家族は病院に入院させるしか道はなかった。病院で出会う患者達の描写もすごみがある。

 

 

さようなら、吾妻ひでお

『失踪日記』はすべて実話だ。しかし、失踪してホームレスになり、アル中患者になった自分を客観的に見つめる冴え渡ったクールさに満ちている。

 

どこかでさめた視点があるからこそ、単なる「アル中男の記」に終わらなかったのだろう。外で寝ているとき凍死寸前となり、寒さで関節の筋肉が萎縮してものすごく痛むといった、経験したものにしかわからない辛さを実感させながらも、どこかで突き抜けたおかしさもある。

 

何よりも驚くのは、絵のクリアさである。文章でいえば、主語と述語がしっかり描かれているような端正な文体を感じさせるできばえだ。さすが吾妻ひでおと思いつつ、だからこそ、彼は苦しんだのかもしれないとも思う。

 

もっと長生きをして、枯れた彼の漫画を読みたかったが、それは無理な注文だ。せめて『失踪日記』を読み、彼の物語と絵の才能を堪能したい。

 

どうしてもお別れを言いたい方は、11月30日に、ファン葬があるという。場所は東京の築地本願寺第二伝道会館、瑞鳳の間。吾妻ひでおは自分のために集まったファンをどんな目で見つめるのだろう。

 

 

【書籍紹介】

失踪日記

著者:吾妻ひでお
発行:イースト・プレス

突然の失踪から自殺未遂・路上生活・肉体労働──『アル中病棟』に至るまで。著者自身が体験した波乱万丈の日々を、著者自身が綴った、今だから笑える赤裸々なノンフィクション。

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