そもそも男女ではコミュニケーションの「スタイル」に違いがあるという。いったいどんな違いがあるのか(写真:kikuo/PIXTA)

順天堂大学医学部の入試で、女子のコミュニケーション能力が高いという理由から、面接で不利になる男子の点数を補正した、と12月10日に会見を開いた問題で、多くのメディア報道の見出しに「コミュ力」という言葉が躍った。

約4年前、この「コミュ力は鍛えられる」の連載を始めた当初、「コミュ力とは何だ」「なんでも略せばいいもんではない」というお声をいただいたことを思い出し、筆者は妙な感慨を覚えた。「コミュ力」という言葉もずいぶん市民権を得たものだなという思いと、順天堂大学側の説明の不可解さへの釈然としない気持ちが入り混じる一件だった。

「コミュ力」は男女どちらが高い?

というわけで、筆者も「コミュ力」研究家を名乗る立場上、この問題に切り込まざるをえないだろう。「はたして女子のコミュ力は男子より高いのか」。結論から言ってしまえば、「決してそうは言い切れない」ということになる。実はこのお題、古くから欧米の研究でもさかんに議論がされており、諸説入り混じっているのが実情なのだ。


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これまで多くの研究者が、女子のほうが男子よりも優れた言語能力を持っているという説を唱えてきており、例えば、ノースウェスタン大学の研究では9〜15歳までの男女の脳の動きを分析。言語処理に関する脳の部位は女子のほうが活発に働いているなどとして、生物学的な違いが能力の差に結びついていると結論づけている。

ただ、この男女の脳に違いがあるという考え方も賛否両論あり、違うという研究者もいれば、あまり変わらないという研究者もいて、実は確定的な結論は出ていない。たとえ違っていても、それがどういった行動などにどういう違いを及ぼすのかといったことも明らかにはなっていないのである。

そもそも「コミュ力」というものが、読む、書く、話すを包含する極めて幅広いものだけに、全体として女子のほうが高い、などと言い切るのはやはり暴論なのである。一方で、男女のコミュニケーションについては、どちらかが優れていて、どちらかが劣るというよりは、その「スタイル」が違うという考え方は衆目が一致するところだ。

例えば、先日、NHKの人気番組『チコちゃんに叱られる!』で「なぜ、オジサンはオヤジギャグが好きなのか」というテーマが取り上げられた。答えは連想記憶力が上がっていくと同時に、感情をコントロールする脳の前頭葉の機能が衰え、理性のブレーキが利かなくなるからだ、というものだった。一方で女性は言葉を聞いてもその語感よりも意味にフォーカスするため、おばさんギャグはあまり一般的でないのだという。

そもそも、男性は面白いことを言って、注目を集めたいという欲求がある、という説もある。「ウケを狙うのはそれ自体、女性の関心を引きつける示威行動」というわけだ。面白い男性はモテるが、面白い女性はそれほどモテない。

ユーモアはインテリジェンスの一種であり、それを見せつけることによって、女性にアピールすることができるが、その逆はあまりないということになるらしい。男性の行動の多くがメスを引きつけ、生殖活動を行うというオスとしての本能に基づくものという一面は否定できないだろう。

かように男女のコミュニケーションのスタイルは大きく異なる。もちろん、すべての人に当てはまるわけではないが、その傾向の違いは非常に顕著だ。こうした男女のコミュニケーションスタイルの違いが、人との結びつき方に影響を与えているということを、拙著『世界一孤独な日本のオジサン』の中で触れ、その特徴的な差異について細かく分析した。

「感情」との向き合い方が男女で違う

「男性は」「女性は」というように、一般化することには異論もあるが、こうした違いがそれぞれの強味にもなり、弱みにもなることは事実だ。例えば、「感情」との向き合い方。女性同士の会話を聞いてみると、「悲しい」「うれしいね」など、自分が感じること、相手の発言に対する感情など、「共感ワード」のキャッチボールが頻繁に繰り返される。

一方の男性はこのように、「感情」を口にすることが少ないと言われる。周囲の人に聞くと、「感情を見せるべきではないという意識が働く」「男は泣いてはいけない、怖がってはいけないといった暗黙の了解がある」「感情をさらけ出すことは、裸になるような恥ずかしさがある」「弱いところを見せたくない」という。

「男なんだから泣くな」「男は度胸」という言葉にも表れるように、感情を表に出すこと自体が「女々しい」、男ならちょっとのことで感情的になっていけない、という社会通念もある。だから、「怒りや興奮、誇り」といった「男らしい感情」はまだ許されても、「うれしい」「悲しい」といった「女らしい感情」はあまり示してはならない、という自己抑制が働く。

また、男性のほうが、「人の表情やしぐさなどから、感情を読み取ることが難しい」というデータもある。感情に『鈍感でいられる』ことは戦いなどでは強みとなる。相手の痛みや恐怖を感じ取っていては、負けてしまうからだ。

企業や組織のリーダーシップには感情をコントロールし、多少のことでは動じない冷静さが要求され、感情を制御する能力は人を支配しようとするときなどには役に立つ。一方で、人と心を通わせたいと思うのであれば、胸襟を開き、感情を共有しあうコミュニケーションのほうがはるかに近道だ。

女性は相手の表情やしぐさの変化に気づき、感情を読み取ることや言葉の行間を読むことに長けていると言われる。しかし、例えば、プレゼンの場で、聴衆の表情や会場の空気を読みすぎて、萎縮してしまうこともある。実際に、弊社で行った20〜50代の男女を対象にしたコミュニケーションに関する調査では、20代女性のコミュニケーションに対する自信のなさが顕著に表れていた。

1990年代に4年間、ベストセラーリストに名を連ねた、アメリカのジョージタウン大学のデボラ・タネン教授の著作『You just don’t understand』(邦題:『わかりあえない理由』)によれば、「女性はラポール(共感)トーク、つまり、社会的所属と感情的つながりを重視するコミュニケーションスタイル、一方の男性はレポート(報告)トーク、つまり、感情を交えることなく、情報を交換することに主眼が置かれている」という。

女性がただ共感してもらいたくて悩みを相談しているだけなのに、問題解決をコミュニケーションの目的としている男性は、つい、「答え」を示そうとして、女性から反感を買うというのはよく聞く話だ。

コミュニケーション自体が目的である女性と、コミュニケーションは何らかの目的を達成するための手段であると考える男性という違いもある。喫茶店やちょっと高級なレストランのランチタイムに人を観察すると面白い。

そもそも、男性同士が圧倒的に少なく、いるとしても大体、仕事の話をしている場合がほとんど。延々と向き合って「おしゃべり」しているのは大体、女性だ。「喋(しゃべ)る」とは口数多く話すことを意味し、口へんに木の葉の象形文字がくっついたこの漢字は、葉っぱのように薄っぺらい話を延々と話す、ということに由来するらしい。

もう1つの特徴として、女性は延々と向かい合って話を続けられるが、男性は相手との間に何か介在するものが必要な場合が多い。女性がお互いの目を見ながら、向き合うface to faceのコミュニケーションであるのに対し、男性はテレビでスポーツを見たり、ゲームを一緒にするといったように、互いに肩を並べて、shoulder to shoulderのコミュニケーションをとると言われる。

なぜ「孤独」になっていく男性が多いのか

イギリス・オックスフォード大学のロビン・ダンバー教授は、高校から大学に進んだ学生を追跡調査し、「女性は、電話で話すことなどを通じて長距離の友情関係を維持することができるが、男性は一緒に何かをすることがなければ、関係を継続することが難しい」と結論づけた。ダンバー教授の言葉を借りれば、「(男性の友人関係は)去る者は日日に疎し」。つながりを作り、維持するためのハードルが極めて高く、30代以降、友人を作るのが難しいと感じる男性は少なくない。

アメリカの心理学者トーマス・ジョイナーは著書『Lonely at the top』(頂上で孤独)で、男性がなぜ年を経るにつれ孤独になっていくのかを詳細に分析しているが、その中で「男性の甘え」について言及している。男性は成功と権力を追求する過程で、友人や家族を当たり前の存在とみなす傾向があるとし、女性に比べ関係性を構築する努力を怠っている、と指摘する。

男の子同士の交流は、例えば、スポーツや興味がある「モノ」を通じて成立しているため、それほど「人」に対する気遣いをする必要がなく、関係維持に対してもそれほどの熱意を注ぐことがない。一方、女性は小さい頃から複雑な人間関係を読み解き、お互いの表情や感情を気遣いながら、「共感関係」を構築し、維持する訓練をされ、努力をしている。結果的に、男女の間で対人関係の構築力に大きな差ができる、というのだ。

ニューヨーク大学のウェイ教授(心理学)は、少年期から青年期にかけてのアメリカ人を追跡調査し、思春期にその友人関係が大きく変質することを突き止めた。

幼少期から少年時代にかけては、女の子と同様に同性の友人たちと深く緊密な関係を築いていたのに、青年になるにつれて、そうした結びつきをあえて遠ざけるようになってくる。心の奥底では近しい関係性を継続したいと思っているが、「男同士で群れることは男らしくない、ホモセクシュアル的である」という社会通念や価値観に押しつぶされてしまう、とウェイ氏は分析している。

こうした、コミュニケーションのジェンダーギャップの事例は山とあるわけだが、あくまでも違いであって、優劣とはいいがたい。さまざまな社会的制約、因習、固定観念がその違いを助長するのであって、男女ともにその制約条件を取り払うことで、コミュ力は大いに改善されるということでもある。せっかくなので、「健康総合大学」を名乗る順天堂大学として、医学的・科学的見地からのコミュニケーション研究の殿堂となり、日本人のコミュ力向上に寄与していただくという汚名返上策はいかがだろうか。