福浦和也

 10月25日におこなわれるプロ野球ドラフト会議。第100回記念大会となった今夏の甲子園大会を盛り上げた大阪桐蔭高校・根尾昂投手や金足農業高校・吉田輝星投手など話題の選手が、どの球団に1位指名されるのかが注目されている。

 ドラフト会議は1965年から53年で57回(1966年の1次、2次の分離ドラフトや2005年から2007年の高校生と大学・社会人の分離ドラフトでは1年で2度)開催されてきた。

 そして、会議自体をボイコットした1978年の巨人以外は、毎年12球団が指名をおこなったため、これまで683人のドラフト1位が誕生したことになる。

 しかし、輝かしいドラフト1位がいれば、その陰に隠れた「ドラフト最下位指名」の男たちも683人いるのだ。

 これまで「最下位指名」を受けて入団拒否をしたのが97人、ドラフト資格がなかったなどで指名取消になったのが2人、プロに入団したのは584人(1度入団拒否をし、翌年以降の指名で入団したものなどは含まない)だ。

 入団した選手584人のその後を見ると、184人が一軍での出場なしのままプロ球界を去っている。割合にして、31.5%にあたる。ドラフト1位の場合は入団683人中1軍未出場が35人と、全体の5.1%のみ。

「最下位指名」の選手たちは一か八かのプロ野球人生を歩んでいる。そのなかでも、成功を摑んだ選手を紹介する。

●島谷金二
 1968年ドラフト9位(四国電力→中日・三塁手)

 社会人時代の二塁手から三塁手に転向し、プロ1年めからレギュラーに定着。ベストナイン2回、ダイヤモンドグラブ賞4回を獲得。通算1514安打。中日入団前に3度のドラフト指名を拒否しており、9位指名は中日にとっても入団してくるかどうか一か八かだった。

●大木勝年
 1970年ドラフト16位(早稲田大学→ヤクルト・投手)

 早大では4年からの活躍だったので、近年ではほとんど見ることがない「16位指名」で入団。現役生活は20試合登板、1勝とほとんど活躍できなかった。しかし、引退後フロント入りし、2010年にはヤクルトの常務取締役に昇格した。

工藤公康
 1981年ドラフト6位(名古屋電気高校→西武・投手)

 47歳まで現役を続けた大投手も、実は最下位指名。しかし、その経緯は社会人野球への就職を発表し、プロ拒絶の姿勢を取っていたところ、西武が強行指名した。高校時代の素質はかなりの注目株だった。通算224勝は「最下位指名」投手では最多。

●佐々木誠
 1983年ドラフト6位(水島工業高校→南海・外野手)

 高校時代の投手から外野手に転向して入団。当時の南海には「ミスターブレーブス」こと長池徳士ら名コーチがおり、素質が開花。1992年には首位打者と盗塁王を獲得し、全盛期には「MLBに最も近い選手」とまで言われた。その後、西武、阪神と渡り歩き通算1599安打。

福良淳一
 1984年ドラフト6位(大分鉄道管理局→阪急・二塁手)

 今季までオリックス監督を務めた。プロ入り当初は当時阪急監督だった上田利治氏の厳しい指導に音を上げたが、2年めの1986年にはレギュラーに定着。清原和博と新人王を争った。その後、守備と堅実な打撃が評価され1億円プレーヤーに登りつめた。

●福浦和也
 1993年ドラフト7位(習志野高校→ロッテ・一塁手)

 ドラフト会議では全体70選手中70番めの指名と本当の「最下位指名」に。高校時代には注目の投手だったが、最後の夏に3回戦であっさり敗退したため、この評価だったのかもしれない。プロ入り後、「1年は投手をやらせてくれ」と懇願するも芽がなく、打者に転向。2001年に首位打者を獲得。今年9月22日には「最下位指名」では初の2000本安打を達成。

●宮崎敏郎
 2012年ドラフト6位(セガサミー→DeNA・三塁手)

 ドラフト時は同じくDeNAに進んだ社会人時代の同僚・赤堀大智(4位指名)よりも評価が低かった。しかし、身長172センチと小柄ながらパワーのある打撃を発揮。昨年首位打者を獲得し、今シーズンも打率.318、28本塁打とDeNAの主軸打者を務めている。

 ほかにも、鉄道文化人としても活躍している屋鋪要(横浜大洋6位指名)、伊東勤と名捕手の座を争った田村藤夫(日本ハム6位指名)、2015年に打点王に輝き優勝に貢献した畠山和洋(ヤクルト5位指名)、来季も楽天の監督を務める平石洋介(楽天7位指名)なども「最下位指名」だ。

 今年のドラフトにも「後列」から同期を追い抜く原石は現われるのだろうか。