今も残る昭和〜学生服看板がある風景

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はじめに、今回の地震で被災された方々へ、心からお見舞いを申し上げます。

甘酸っぱい青春の香り…あぁ、学生服


今でこそブレザーが主流のようだが、昭和40年代までは学生服といえば、黒の詰襟、セーラー服と決まっていた。
かくいう僕も6年間に渡って着たわけだが、詰襟が窮屈で首がすれてどうにもなじめなかった。襟の内側に付ける白いカラーを外すと、これがちょっとばかしツッパリのように見えて、服装検査でよく注意された。
僕が高校生の頃の昭和50年(1975年)前後は、「役者やのォ〜」の決まり文句を流行らした、どおくまんのギャグ漫画『嗚呼!! 花の応援団』(1976年)が売れていた時期であり、曲では宇崎竜童の「港のヨーコ・ヨコハマ ヨコスカ 」(1975年)が大ヒットしていた。
ツッパリ達は学ランの裏地に虎や龍、花札をあしらった派手な刺繍をほどこしたり、ズボンの裾をマンボズボンのように絞ったりしていた(スカマンと呼んだ)。髪型も蝿のスベリ台のようなリーゼントだった。
一方で、制服の裾をラッパズボンにする奴もいた。これは中村雅俊主演のTVドラマ『俺たちの旅』(1975〜1976年日本テレビ放映)の影響。

島根県(2006.10撮影)



マンボだろうがラッパだろうがまったく興味もなく、騒いでいる連中を横目に僕は過ごしていた。遅刻しそうなときにはそれこそパジャマの上に学生服を着ていった。その上、毎日同じものを着ていても平気という無頓着な性格で、洗濯もせずに同じシャツを1ヶ月くらい着ていた。
このだらしなさは今だに変わらず、不惑の齢を過ぎても「また、同じ服着ているの!」と相変わらずカミさんに注意されている(笑)。

愛媛県(2006.5撮影)

さて、そんな学生服だが、琺瑯看板の世界では35ブランドくらいはあるようで、デザインの違いを入れれば現在90アイテムを発見している。
尾崎商事?の「菅公」と明石被服興業?の「富士ヨット」が二大ブランドだが、菅公は桜田淳子、富士ヨットは山口百恵をCMに起用した。森昌子を入れて花の中三トリオとか高一トリオとか騒がれていた時期だ。
同じ年齢の僕は、そんな華やかな別世界にいるタレントたちとは全く対照的だった。好きな女生徒に声をかけることもできず、太宰治の文庫本なんぞを学生服のポケットにしのばせ、うつむきながら学校に行き、帰ってくるという、けっこう暗い日々を過ごしていた。
…今から思えば、これも甘酸っぱい青春の一頁だった(笑)。


愛知県(2011.2撮影)


学生服の歴史と岡山県児島地区


現代に通じる学生服の起源は東京帝国大学が1886年(明治19年)に定めた制服とされている。それ以後、中学、高校、大学で急速に広まっていく。戦後、GHQはさまざまな教育改革を行ったが、学生や生徒の服装についてまでは介入しなかったために、詰襟学生服は戦後も日本の学校教育の中に生き延びることになり、現代へと変遷している。
主要生産地は岡山県倉敷市児島地区。学生服メーカーが集中し、国内生産量の7割を占める。全国で詰襟学生服の採用率は2000年代中盤、高校で約2割、中学校で約7割といわれている。
現在国内にある標準型学生服メーカーは、トンボ(旧テイコク)、尾崎商事(カンコー)、明石被服興業(富士ヨット)、瀧本(スクールタイガー)の大手4社とカネマツ等いくつかの中小企業である。


熊本県(2009.8撮影)

私のサイト「琺瑯看板探険隊が行く」と相互リンクしている「お散歩Photo Album」の安部さんの研究成果では、一般的学生服メーカー・ブランド(現存・過去)は乃木服、大臣印、忠臣服、大楠公、東郷印、大西郷印、カブト印、鳩サクラ、太陽櫻、サクラ日本、旭ツバメ、日の出桜、アサヒデフネ、日章、宝富士、平和富士、鳩五輪、ニッショウ、まるいし、ヒシビ、つちや、マルトク、オノト、丸尾(まるお)、級友印、勉強印、ホームランボーイ、銀時計印、ダイヤ、幸福印、名誉印、ほまれ印、ブルドック、ワニ錨などがあったと分かっており、ホーロー看板として現存しているものも多い。

さまざまな学生服看板

岡山県アパレル工業組合のサイトによると、戦前から学生服の生産が急ピッチで進み、1934(昭和9年)〜1937(昭和12年)に児島で生産された学生服は、75万着を達成している。昭和30年頃には全国シェアの7割を締め、1963年(昭和38)には、1006万着を達成し、史上最高を記録している。

岐阜県(2007.2撮影/2008年消失確認)


全国に貼られた菅公学生服


僕が琺瑯看板の存在を意識したのは、菅公学生服の菱形看板だ。
昭和46年(1971)頃、父親の実家がある秋田県に帰省したとき、日本海を走る北陸本線の車窓から、妹と一緒に次々と現れる菅公の看板を数えあったことが最初だ。
記憶の断片を紐解くと、60いくつまで数えてあまりの多さに途中で止めたことを覚えている。当時は琺瑯看板の全盛時で、おそらく無数の看板屋敷があったはずだ。車窓から流れる田園風景に絶妙にマッチする看板屋敷が日本の鉄道風景として溶け込んでいたのだろう。

群馬県(2008.12撮影)

2005年から始めたホーローの旅で気づいたことは、菅公の看板が日本中に残っていたことだ。おそらく金鳥看板についで多いのではないだろうか。
菅公学生服の尾崎商事?は、1854年(安政元年)、初代尾崎邦蔵が倉敷市児島田の口に綿糸の卸業を創業。大正時代から学生服の大量生産を始めた。
戦後は子供の数が増えたこともあって学生服の需要が増加し、業績を拡大した。「カンコー(菅公)学生服」は、学問の神様として親しまれている菅原道真公にちなんで名付けられた。姉妹品には「ボリショイ菅公」のブランド名でも学生服を作っている。
1970年代になるとテレビCMを積極的に展開し、桜田淳子らその時代の人気アイドルをCMキャラクターとして起用した。同社サイトの「過去のCM一覧」を見ると、1970年代はフォーリーブス、桜田淳子、香坂みゆき、80年代は太川陽介、早見優、岡田有希子、酒井法子など当時のトップアイドルを起用している。

石川県(2006.5撮影)

発見した「菅公学生服」の看板は4種類。長方形のヨコ型タイプは昭和20年代から30年代にかけての初期のタイプと推測される。ポピュラーな黄色と赤の菱形タイプは昭和30年代後半から。鉄道沿線や通学路、バス路線など全国的に貼られ、金鳥の看板と並んで最もポピュラーな琺瑯看板である。姉妹品として、同じデザインを使った「官公シャツ」もある。

千葉県(2008.8撮影)

また、姉妹品の「ボリショイ菅公学生服」は、昭和33年(1958年)にロシア国立サーカス団のボリショイサーカス日本初公演が始まり、人気にあやかって名付けられたとされる。 この学生服は昭和35年にヒットする。それから推察すると、看板の作成年代は昭和30年代前半かと思われる。

茨城県(2006.7撮影)

これまでの発見アイテム数は5種類。菱形タイプは菅公学生服のスタイルを踏襲しているが、面白いのは三角形タイプ。鉄板の切り取りにより無駄を省くことを考慮してか、逆三角形のものもある。
発見した看板の分布を探ると、菱形とヨコ型看板は関東から東北エリア、三角形看板は関東エリアを中心に貼られたようだ。 


それにしても、岡山県の学生服メーカーが、琺瑯看板を使った広告戦略で全国を席巻している様は驚きである。全国津々浦々にまで貼られた菅公学生服の看板は、学生服=菅公の代名詞としてすりこまれ、いつまでの人々の記憶に残るに違いない。
今後も菅公看板の追跡調査を行っていきたいと思う。未発見の都道府県もあり、地図を塗り替える作業にぜひ情報をお寄せいただきたい。




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