元アイドルが自身の体験をつづります(写真は筆者、撮影:佐野 円香)

メディア出演、ライブ、握手会――。

華やかな舞台に立ち、世間からの注目を浴びるアイドル。それに憧れる女性は少なくない。ただ、決して広くはない門をくぐり、夢をかなえてアイドルとなっても、一生を通じて芸能界に生き残れるほど大成功するのは、ほんの一握り。大半がほどなく表舞台から姿を消す。

そんな彼女たちは「アイドルを終えたその後の人生」で、いかにして一般社会に戻り、別の職業に就き、どのような悩みとともに生き、どんな恋をしているのだろうか。彼女たちのさまざまなセカンドキャリアを追った『アイドル、やめました。AKB48のセカンドキャリア』の著者で元アイドルの大木亜希子さんが自身の体験をつづる。

SDN48として紅白歌合戦に出場

2011年12月31日。22時30分。

私は、さっきまで自分が出演していた『NHK紅白歌合戦』の続きを観ていた。埼玉県の実家で、年越しそばを食べながら、ジャージ姿でダラダラとしながら。

その年、日本レコード大賞を受賞したAKB48の『フライングゲット』という曲がある。その曲を含む紅白特別メドレーの終盤から、私が所属していたSDN48はステージ裏から登場し、AKB48と合流して踊った。

紅組5番目の出演で、SKE48、NMB48といったほかの姉妹グループも含め総勢210人で歌って踊る光景は、われながら圧巻だったと思う。

パフォーマンスの途中、私は緊張がピークに達して簡単な歌詞が飛んだ。だが、マイクを持たない「口ずさみ要員」であったためバレなかった。

出番後は、ほかのアーティストの迷惑にならぬよう、機材を運ぶための“巨大業務用エレベーター”に速やかに乗り込む。

なにしろ48グループは、200人を超える大所帯だから、特別な移動手段が必要なわけである。

廊下では、当時流行した曲『マル・マル・モリ・モリ!』のステージに登場したばかりの芦田愛菜ちゃんが、大人に大切そうにされながら通過した。そして、北島三郎さんがスタッフの方々と小走りに去った。あまりにも芸能界が凝縮されていて目眩いがしたが、私は脇目も振らず団体行動に集中する。

そして無事にNHKホールの出入口に到着し、ロケバスに乗った。そこでようやく皆、浮足立ったり、過呼吸気味になったり、興奮した症状が出始めた。

帰路。帰宅するため1人で電車に乗り換え時計を見ると、まだ22時にもなっていない。 これで、実家で年を越せることは確定した。ゆっくりとくつろぐ時間すらある。

「これで私は紅白出場歌手……」

と、座席で念仏のように唱えてみたが実感は湧かない。

なぜならば、終演後に実家の母にメールで確認したところ、テレビ画面に私は一切映っていなかったという知らせを受けていたからだ。

しかし、確かに私は今日あの場で踊っていたようである。アイドルグループの一員として。

SDN48の2期生としてアイドル活動を開始

私は2010年から2012年まで約2年半、SDN48というアイドルグループで活動した。

それ以前に10代前半から女優として活動し、運よくドラマや映画で大役を演じたこともあった。

だが、実力が追いつかず人間関係で悩み、19歳の頃には芸能界をやめようと思った。ところが、最後まで芸能界に未練は残った。

20歳のとき、「これが最後」という気持ちでSDNのオーディションを受けたところ合格。このグループは、本家AKB48よりも「ちょっと大人のお姉さん」をコンセプトに作られた、成人女性のみで構成されたグループだった。

加入が決まり、先輩であるSDN48の1期生公演を観るためAKB48劇場へ初出勤した日のこと。

私は、秋葉原駅から劇場までの簡単な道のりで迷子になってしまった。

そこで、道端でティッシュを配る「武将メイド喫茶」の女性に道を尋ねる。すると、彼女は親切に道順を教えてくれたあと、「行ってらっしゃいませ、ご主人様。ご武運を!」と、笑顔で付け加えてくれた。

「ご武運を!」

メイド喫茶の彼女が何気なく放ったその言葉は、まさにその後の私の人生を予感させるものであった。

こうして、私はSDN48の2期生としてアイドル活動に励むようになった。当時の私の愛称は、「アーコ」。キャッチフレーズは、「遅れてきた学級委員長こと、アーコこと、亜希子です」だった。あえて、真面目な優等生キャラのポジションを確保した。

色気がない自分の顔立ちでは、主戦場のセクシー路線にいくことは難しいことを理解していたからだ。

それならば、どのようにしてグループ内に居場所を作るべきか考えて出た結論が、「真面目キャラ」でいくことだった。

アイドル界を牽引する集団の“姉妹ユニット”ということもあり、当時から同グループはメンバーもスタッフもつねにフル稼働であった。

ミュージックビデオの撮影中、スタジオの隣で衣装部のミシンが同時にかけられ、本番の直前に衣装が完成することも日常茶飯事。ダンスの振り付けがライブ当日に大幅に変更されることもしばしばあった。毎回どのようなハプニングやアクシデントが起きるのか、予想できない。そんな忙(せわ)しない日々のなかで、私たちはメンバー同士で競い合い高め合っていた。

しかし、グループが躍進する一方で、私は「卒業後はどのようなキャリアを歩めばいいのか」という不安につねにかられていた。

それには理由があって、まずライバルが多すぎる。SDN48は当時、1期生と2期生合わせて37名の女性が在籍していた(※のちに活動を辞退する者や、3期生メンバーが加入したことにより、グループ内の人数は不定期に変動を続け、卒業時には39名の女性が在籍していた)。この中で、自分が抜きん出た存在になるのは難しいだろうなと予感した。

人気を追い越される瞬間も多々あった

また、アイドルという職業は、ビジュアルや体型、ステージ上のセンス、華やかさ、どれか1つでも秀でていたら必ず売れる――といった確証など“ない”ことにも気がついていた。正直に言えば、「私のほうがかわいい」と思えるようなメンバーに、人気を追い越される瞬間も多々あった。

「あいつより うまいはずだが なぜ売れぬ」

とは、往年の大女優、故・森光子さんが不遇の時代に作ったとされる一句だが、

「あいつより 可愛いはずだが なぜ売れぬ」

そんな気持ちが私のなかにたまり、病んでしまう瞬間も常々あった。

握手会では私目当てに来てくれるファンが極端に少ないレーンの隣で、ほかのメンバーが大盛況という状況でも、平然としていなければならない。

“恨めしい気持ち”を少しでもおくびに出してしまえば、ファンからは引かれてしまうからだ。

だから私は、「別に焦っていません」と言わんばかりに飄々とした姿を演じて振る舞った。

こうした「やせ我慢」が続くなか、日々どこに向かい努力すべきなのかわからないまま過ごしていた。そしてそれは、ほかのメンバーにも言える話だったのかもしれない。

ある朝、メンバー数人でグラビア撮影のためにスタンバイしていたときのこと。そのうちの1人がポツリと「アタシの人生、これからどうなるんだろうなぁ」とつぶやいた。

誰かに聞かれているとも思わずに、つい口を衝いて出た言葉のようである。

一流の女優や歌手、タレントとして独り立ちすることがそれぞれの最終目標であることは、うそ偽りない事実であろう。しかし、そうしたゴールに到達するための「正攻法の地図」がどこにあるのかわからない。彼女が言いたかったのはきっとそういうことで、私はその思いが痛いほどよく理解できた。

それでもXデーはやってくる。2012年、3月31日をもってSDN48は“一斉に卒業”した。

最後のコンサート会場として用意してもらったのは、3カ月前の紅白歌合戦の現場と同じNHKホールだった。そこで全力でパフォーマンスを行った翌日からは、私は“1人のタレント”という立ち位置になった。

しばらくは気を取り直し地下アイドル業も続けてみたが、それにも限界がある。ファンも応援に駆けつけてくれて活動は楽しかったが、20代半ばに差しかかり、いよいよ「本気でなりたい何か」を考えねばならなくなった。

毎日がしんどかった元アイドルという呪縛

しかし依然として私は過去の栄光にすがりつき、昼は地下アイドル、そして、夜は「仕事につながるかもしれない」という思いから、業界の食事会に顔を出す生活を続けていた。

「君は、どんな仕事をしているの?」

当時、食事の席で初めて会う人からこんな質問をされたときは、

「元48グループのアイドルです」

と、答えてしまう自分がいた。

それはすでに“過去の職業”であるというのに、今の自分に自信がないからこそ、そう言っていたのである。

元アイドルという呪縛を、自分自身で勝手にかけていたのだ。誰も悪くないのに、なぜか毎日が非常にしんどかった。

その時期、顔を隠すようにして清掃員の単発アルバイトにも勤しんだ。単純に、芸能活動だけでは生活費が足りなかったからである。

くしくも熱心なSDN48ファンの方と、清掃先のオフィスなどですれ違うこともあったが、清掃員の格好をする私に、向こうはまったく気がついていない。こちらは握手会で何度も会っているため、彼の顔がハッキリとわかるというのに。

それは致し方ないことだが、アイドルの現場では応援してくれる方でも、時と場合によってはこんなにも様子が変わるのか、と人生の無常を感じてしまった。

そのとき、ふと思った。

私はこのまま何者にもなれず、中途半端なまま、名刺の渡し方も知らずに死んでいくのだろうか。

なぜか、猛烈に焦った。

そして得体の知れない恐怖とともに、「なにかしなければ」「このままでは終われない」という強い衝動が身体の中を駆け巡った。

その時期、自分のSNS上でなんとなく現在の心境を書きつづるうちに、残ってくれたファンから「アーコの文章は面白い」と言ってもらえることがあった。そこで私はその言葉を信じ、ある日、わらにもすがる思いでWEBメディアのライター募集に応募してみた。

その企業で正式に正社員採用してもらえたのは、新卒の人たちより少し出遅れた25歳のとき。私は芸能事務所を退社し、「普通のライター」としてセカンドキャリアを歩み始めることに決めた。

入社した会社では、入ったその日からWEB記事をバンバン書かせてもらった。

そこで私は、インターネット上でどのような記事が読まれるのか傾向を学んだり、文章の基礎を学んだり、「ネット記事の書き方」を体得したりすることができた。

いくつかヒット記事も生み出した。さらに執筆業にとどまらず、広告記事の営業担当としても働いた。

懸念していた「名刺の渡し方」も、入社後すぐに体得した。なんてことはなかった。

WordやExcel、PowerPointの使い方も知らない私に、周囲の社員たちは親切にしてくれたと思う。だが、会社員になってからも私は、社内の打ち上げでは率先してカラオケでAKB48グループの曲を歌い、誰からも頼まれていないのに“妙なサービス精神”を見せてしまうことがあった。

元アイドル。

その印籠を自分からチラつかせることで、「私って実はこんな経験があるの」と、周囲にアピールしたかったのだと思う。

今考えれば、そんな小せぇ自分がイヤになる。だが当時は、あのような形でしか、意地を見せることができなかった。

元アイドル経験が人生を生きるうえでの糧に

しかしその後、心境に変化が訪れた。

1人の社会人としてあらゆる経験を積み、失敗を重ねるうちに、そんな「小さなプライド」などどうでもよくなったのである。

それくらい「1人の人間」として、日々が充実し始めたのだ。そして、いつの頃からか、私はアイドル業と会社員業を「掛け算」できるようになった。

例えば、アイドルの現場では個性的かつ、上下関係がハッキリとしているメンバーと意見交換をしなければいけなかった。先輩とも上手にディスカッションしなければ、公演のパフォーマンスにも影響が出て、番組収録でもトークが回らなくなるからだ。


そうした点で、図らずも「プレゼン能力」が磨かれたようで、私は会社員になり2年目の頃から、大手企業から1人で広告案件を獲得できるようになった。

また、「ライブ当日に振付が変わる」という修羅場も経験していたことから、実生活においても臨機応変スキルが身に付いていた。それにより得意先からの急な相談やトラブルにもすぐ応えられるようになった。これまでずっと“特殊な組織”に身を置いていた私にとって、それは「普通の社会」との意外な共通点だった。

その瞬間、初めて過去の栄光にすがることなく、「今の自分として」一筋の光が見えた気がした。

私はずっと、アイドル時代の経験をどのようにして成仏させたらよいのかわからなかった。“元アイドル”という大きな十字架を背負うことが、誇りであると同時に大きなコンプレックスだった。だが、皮肉なことに当時の経験がすべて「これからの人生を生きるうえでの糧」になっていた。