韮崎高校・羽中田昌。背後のDFは、のちの日本代表、清水東の堀池巧

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全国高校サッカー選手権。明日の決勝戦に進出する2校が決まった。今回で97回めを迎えるこの大会は、昨年、100回めを迎えた夏の甲子園大会と並ぶ、高校スポーツの花形である。

この長い歴史のなかで、途中出場でわずか25分だけのプレーだったにもかかわらず、国立競技場が揺れるほどの大歓声を呼び起こし、全国のサッカーファンに忘れられない強烈な印象を残した選手がいる。

将来の日本代表を背負うといわれた逸材だったが、高校卒業以降、日本代表どころか、いっさい表舞台でプレーすることはなかった。

この「消えた天才」に何が起こったのか?

6万人が待ちわびた天才MF

その瞬間、6万人を超える観衆は、ただ1人の選手の登場を待ちわびていた。

1983年1月8日、東京・国立競技場。第61回全国高校サッカー選手権決勝。山梨県代表・韮崎高校対静岡県代表・清水東高校。

Jリーグが発足する10年前。ワールドカップへの出場がまだ夢のまた夢だった時代。日本のサッカーで、唯一高校サッカーだけが人気を集めるコンテンツだった。そのなかで、この2校は、帝京、古河第一、武南などと共に、高校サッカー界では突出した存在だった。

清水東は、1980、81年にインターハイ2連覇、81年度の全国高校選手権準優勝、韮崎は、全国高校選手権で、79年度準優勝、80年度3位、81年度準優勝と、これまでの3年間で常に日本一を争ってきた。だが、両校とも、いまだ全国高校選手権優勝という栄冠は手にしておらず、お互い初のタイトルをかけての一戦だったのだ。

後半10分過ぎ、清水東が3点をリードしている場面、いよいよその選手が登場する。

観客が待ちわびた選手の名は、羽中田昌(はちゅうだ まさし)。韮崎のミッドフィルダーだ。

韮崎高校・羽中田昌。背後のDFは、のちの日本代表、清水東の堀池巧

1年生のときから、強豪・韮崎の主力として活躍し、3年生でチームの核となっていた羽中田が、なぜこれだけリードされる展開になるまで、ベンチに温存されていたのか? そこには、羽中田の人生につきまとう、人間の努力や意志の力ではどうすることもできない、運命のいたずらとしか思えないものが作用していた。

15歳でU19日本代表の合宿に招集される

羽中田は、1964年、東京オリンピックが開催された年に、山梨県甲府市で生まれた。

10年後、彼が小学校4年生になった1974年、西ドイツで開催されたサッカーワールドカップの決勝(西ドイツ対オランダ戦)が、初めて日本でライブ中継される。

日本時間0時過ぎに始まった中継を、7歳年上の兄に起こされて観戦した羽中田少年は、オランダのエース、クライフの超人的なプレーに魅了される。この大会でオランダ代表が披露したトータルフットボールは、サッカー史に革命を起こした。その指揮者としてピッチに君臨するクライフは、遠く離れた日本に暮らす少年の脳裏に、サッカーという競技の面白さを刻み付けた。

この日以来、サッカーにのめり込んだ羽中田は、試合に出れば、5~6点とるのが当たり前の選手となり、小学校5年、6年時には、全国サッカー少年団大会に出場し、連続して大会優秀選手に選ばれた。

全国サッカー少年団大会にて。前列左から2番めが6年生の羽中田。身長は140cmに満たなかった

日本サッカー協会が主催して、全国の優秀な小学生を集めた合宿では、当時、清水サッカー少年団の代表を務め、「サッカー王国・清水」の礎を気づいた堀田哲爾から、「今、日本で一番うまい選手だ」と評されるまでになる。

中学1年時には、この年に発足した、ジュニア、ユース世代の強化を目的としたナショナルトレーニングセンターの第1期生に選ばれ、中学卒業時には、U19ワールドカップを目指して、17、18歳の選手たちが集められた日本ユース代表合宿に、15歳で参加している。

高校入学時には、将来、日本サッカーを背負う選手になると嘱望される選手となっていたのだ。

一度は高校サッカーをあきらめた

韮崎高校入学後は、後に日本ユース代表となるフォワード・保坂孝と共に、1年時に全国3位、2年時に全国2位となるチームの中核を担うのだが、この間、万全な状態でプレーできたことは一度もなかった。

1年のインターハイでは貧血を患い、高校選手権では、直前の練習試合で足首を負傷し、痛み止めの注射をうちながらプレーした(大会後の検査で骨折していたことがわかる)。2年のときは、高校選手権の県予選突破後の練習で、右足の付け根に痛みを感じて病院に行くと、股関節の剥離骨折だと診断される。本大会では、再び痛み止めの注射をうってプレーしていた。

1981年1月の選手権決勝、武南戦。このとき羽中田は痛み止めを打ってプレーしていた

2年時の高校選手権が終わると新チームが始動する。羽中田は、それまでの得点を期待されるフォワードから、ゲームをコントロールするミッドフィルダーにコンバートされることになった。

「1年のときは銅メダル、2年では銀メダル、来年は絶対金メダルだなと、チームメイトたちと言い合ってました。1月の高校選手権が終わり、すぐに山梨県の新人戦が始まりました。この新チームで、初めてミッドフィルダーをやり、ゲームメーカーを任されたんです。

このときのチームは強かった。失点0、すべて3点差以上で優勝。選手権で準優勝して注目されていたこともあり、この新人戦では、競技場の観客席に人が入りきれず、ピッチの芝生の上にまで観客が溢れていました。その中での圧勝でしたから、自分たちも、このチームなら全国でも勝てると手応えを感じていました。やっていて面白かったし、楽しかったですね」

羽中田がゲームコンダクターにコンバートされたことで、チームは一段階レベルアップして、より魅力的なサッカーを披露するようになった。今度こそ日本一になれる。チームメイトも羽中田自身も手応えを感じた矢先、予想もしない不幸が羽中田を襲う。

「選手権が終わって、パレード、祝勝会が続き、2週間後には新人戦の1回戦が始まりました。ハイテンションのまま、大会を過ごし、優勝してホッとしたところで、風邪をひいてしまったんです。朝、起きたら、目やにがびっしりついて目が開けられない。むりやり目をこじ開けて、無理して練習に向かいました」

グラウンドで練習に参加してる羽中田の顔色を見た横森巧監督が声をかけた。

「保健室にいって、しょんべんを調べてもらえ」

羽中田は、不可解な気持ちをかかえて保健室に向かった。

「保健室で試験紙を渡されて、トイレでおしっこをかけて戻ってきたら、保健の先生から『すぐに病院に行こう』と言われました。甲府の病院に行ったら、急性腎炎と診断されて、即入院です。風邪のウィルスが腎臓に入ったということでした。1週間の入院の後、設備がそろっている山梨病院に転院し、そのまま3ヵ月間入院することになりました。

小さい頃からずっと身体を動かしてきたから、サッカーができず、病室に閉じこもっているのは堪え難かった。情けない。ふがいない。チームに迷惑をかけてしまう。気持ちは塞いでいました」

高校3年生になり、5月に退院するが、運動することは禁じられている。塩分を控えた食事を続け、安静につとめるが、月に1度の検査では数値は上向かず、夏になってもドクターストップはかかったままだ。その間に、チームはインターハイの県予選で敗れてしまう。

「病院には、チームメイトが見舞いにきて励ましてくれたので、『早く治して、チームに復帰しよう』と前向きだったんですが、退院してからは、サッカーができないことがつらく、見るとやりたくなってしまうので、授業が終わると、急いで学校を出て、クラスの友達と帰ってましたね。

夏ぐらいには、もう自分の高校サッカーは終わったんだとあきらめていました。身体を治すことに専念して、大学で改めてサッカーを始めるために、受験勉強をしていました。高校サッカーだけがすべてじゃないと。でも、選手権の予選が始まるとまたやりたくなっていたんです」

そんな気持ちが通じたのか、検査の数値が好転する。チームが高校選手権山梨県予選を突破し、本大会を直前に控えた12月中旬、主治医から「15分限定ならプレーしていい」という許可が出る。

条件付きとはいえ、またサッカーができる喜びは大きい。だが、羽中田の心には葛藤があった。

「僕が10ヵ月休んでいる間、ずっと頑張ってレギュラーの座をつかんだチームメイトが、自分が戻ることによってはじかれてしまう。それが、申し訳なくて、『自分は戻っちゃいけないんじゃないか』という気持ちになったんです。それを、キャプテンの小沢栄一、エースの保坂孝に伝えました。2人は、『何言ってんだよ。俺たちはハチュウをもう一度全国大会の舞台に連れて行くために頑張ったんだよ』と言ってくれたんです。それでふっ切れました」

羽中田は、「もう自分の高校サッカーは終わった」とあきらめていたのに、チームメイトたちは、まったくあきらめずに、彼を全国の舞台に連れて行くために戦っていたのだ。

そして、羽中田にとって3度めの、そして最後の高校選手権が始まる。羽中田のプレー時間は、2回戦、旭高校戦で15分、準決勝の守山高校戦でも15分と限られていたが、韮崎は接戦を制しながら、2年連続で決勝の舞台までたどり着く。

名作サッカー漫画のモデルとなった羽中田

決勝の相手、清水東には、羽中田が入学してから一度も勝てていない。この年も、日本ユース代表FWの青島秀幸を中心に、2年生には「清水三羽烏」と呼ばれ、のちにそろって日本代表入りするDF堀池巧、MF大榎克己、FW長谷川健太がいるタレント軍団だった。韮崎にも、ユース代表FWの保坂孝をはじめ、力のある選手はそろっていたが、清水東の攻勢に押され、前半終了時に3点のビハインドを負う。

そして、後半開始から15分。横森監督は、羽中田を呼ぶ。

「ちょっと早いけど、いけるか?」

主治医に制限されていた残り15分より10分早かったが、羽中田に躊躇はなかった。味方の劣勢に、早くピッチに飛び出したくて焦れていたのだ。

羽中田が交代のためにサイドラインに立った瞬間、満員の国立競技場が爆発した。

解説していたセルジオ越後によれば、この瞬間、国立競技場は6万人の大歓声で揺れたという。

その瞬間を、偶然自宅のテレビで見ていたのが、まだデビュー間もない漫画家・塀内夏子だった。突然聞こえてきた大歓声に、テレビ画面に目を向ける。その大歓声を背に、長めの髪をなびかせながらピッチに駆け込んでいく1人の選手に目が釘付けになった。

「何これ? サッカー? 高校生? ええっ、ものすごい歓声じゃない!」

それまでまったくサッカーに興味がなかった塀内だが、このとき大観衆を沸かせる羽中田を見て、ある思いが芽生える。

「いつか彼をモデルにしたサッカー漫画をやろう」

それは、数年後、名作サッカー漫画『オフサイド』として結実することになる。

羽中田投入から、試合の雰囲気は変わり始めていた。病み上がりとは思えない突破力を見せる羽中田に、清水東のディフェンス陣が手こずっている。他の選手のマークを捨てて、2人、3人がかりで羽中田を止めようとする。のちに、日本代表で長く右サイドバックを務めた堀池巧は振り返る。

「スピード、テクニック、判断力、すべてのレベルが高くて、これを抑えれば大丈夫というタイプではないので、随所にこわさを見せつけられましたね」

羽中田を3人掛かりで止めにいく清水東DF

後半26分、羽中田のパスを起点に、保坂がアシストしたボールをキャプテン小沢栄一が決め、韮崎は1点を返す。ここまで無失点で勝ち上がってきた清水東の大会初失点だった。

この試合中継の解説を担当していたセルジオ越後は、声を張り上げた。

「試合の流れが変わりました。羽中田が変えました。これはちょっと面白くなってきましたよ」

セルジオは、何人ものユース代表がプレーするピッチの中で、最も目を奪われたのは羽中田だったという。

「病み上がりでもこれだけすごいんだから、完治したらどれだけのプレーを見せてくれるのか。わくわくしたよ」

3対1となった直後、センターサークル付近でボールを受けた羽中田は、ぬかるんだピッチをものともせずドリブルで駆け上がる。追いすがる3人のDFを振り切り、ペナルティエリア直前で柔らかくボールを振り抜く。GKの頭上を狙ったループシュートだ。

敵陣を切り裂いてドリブルで駆け上がる羽中田

だが、羽中田が思い描いた軌道より低く上がったボールは、ジャンプして必死に手を伸ばしたGKがキャッチする。大歓声はため息に変わる。

その後、清水東がだめ押しの1点を決め、勝敗は決した。主審がホイッスルを長く吹いた瞬間、6万を超える観衆が魅了された至福の時間は終わり、非情な運命に翻弄された羽中田の高校サッカーも終わった。

過去を振り返って「たら、れば」を語るのは無駄なことだとはわかっている。それでも、考えてしまう。もし、羽中田が病をえることがなく、あの新人戦を圧倒的な強さで制したチームが10ヵ月の時間をかけて精度を上げ、このピッチで清水東と対戦していたら、どれほど面白いゲームが見られたのだろうか……。高校サッカーのレベルを超えたスペクタクルなゲームが繰り広げられたのではないか……。考えても詮無いことではあるが……。

試合終了の瞬間の羽中田

清水東の選手たちが喜びを爆発させるピッチの上にたたずみ、羽中田は考えていた。

「今度、この国立競技場のグラウンドに立つのはいつだろう。そのとき、オレはどんなチームでプレーしているんだろう」

だが、その日は、二度と訪れることはなかった。あまりに過酷な運命が羽中田を待ち受けていたのだ。

自分があきらめなければ夢は逃げない

高校卒業後、将来、ヨーロッパでプロとしてプレーすることを夢見た羽中田は、サッカー推薦による大学進学、サッカー強豪企業からの誘いをすべて辞退し、一般受験での大学進学を目指して浪人することになった。

選手権から8ヵ月後の夏。友人宅から自宅に向かってスクーターを走らせていた。中央本線の跨線橋で下り坂にさしかかった瞬間、「バンッ」と大きな音をたてて前輪がパンクする。羽中田は、空中に投げ出され、激しく叩き付けられた。何が起こったのかわからなかった。

朦朧としていた意識が徐々に戻り、起き上がろうとする。ところが、両脚がまったく動かないのだ。

羽中田は、身体が動かない恐怖に震えながら叫んだ。

「なんでオレばっかりこんなことになるんだ! なんでオレばっかり!」

救急搬送された病院での診断は、脊髄損傷による下半身不随。黄金の脚は二度と蘇ることはなかった。

――あれから35年の月日が流れた。

自分の身に置き換えれば、誰もが人生をあきらめたくなるような不幸に見舞われながら、羽中田は決して絶望することはなかったという。

つらいリハビリを経て、猛勉強の末、山梨県庁に就職。1993年のJリーグ開幕をきっかけにサッカーの指導者を志し、1995年、県庁を退職して、スペイン・バルセロナに留学する。2000年に帰国してからは、メディアでサッカー解説をしながら、暁星高校サッカー部でコーチを務める。2006年には、Jリーグの監督も務められるS級の指導者ライセンスを取得した。

その後、唯一の車イスサッカー監督として、カマタマーレ讃岐、奈良クラブ、東京23FC、ブリオベッカ浦安で指揮を執った。現在は、スカパー!でヨーロッパサッカー中継の解説を務めている。

FCバルセロナの本拠地カンプノウで。後ろは、いつも傍らで支えるパートナー・まゆみ夫人

バルセロナ留学時代。FCバルセロナのFWデコ(左)とクライファート

カマタマーレ讃岐の監督時代

この間も道は決して平坦だったわけではない。何度も壁に阻まれながら、粘り強く突破してきた。普通の人生の何倍もの不幸に襲われながら、なぜ心が折れなかったのか。その理由を、羽中田は短い言葉で語ってくれた。

「だって、自分があきらめなければ夢は逃げませんから」

2015〜17年は、東京23FCの監督を務めた

病も大怪我も羽中田の夢を奪うことはなかった。9歳のとき、ヨハン・クライフが見せてくれた「サッカーを楽しむ」という夢を、羽中田は今も追い続けている。

羽中田昌を知る者は誰もが、その妻・まゆみさんの大ファンだ。羽中田の苦闘をいつもニコニコと笑いながら支えてきたまゆみさん。2人の波瀾万丈の半生を描いた感動作だ。

羽中田昌オフィシャルブログ「ハチュマサ通信」https://www.hachumasa.com