1994年10月27日、「ワイアード(Wired)」誌のデジタル版である「ホットワイアード」(HotWired)が掲載した広告は、のちに史上初のバナー広告として知られることとなる。この広告により、インターネットはそれまでとはまったくの別世界となった。どれだけ多くの人々がオンライン広告を嫌っていようとも、ほとんどのWebサイトのビジネスモデルは依然として広告収入ベースだ。eマーケター(eMarketer)によれば、2017年に米国でバナー広告に支払われる広告費は160億ドル(約1.8兆円)になる見通しだ。こうした広告は、ユーザーをいらだたせる一方で、多くのデジタルパブリッシャーの経営を支えている。バナー広告はいまや時代遅れとされがちだが、20年前にはそれは最先端の手法であり、Web広告産業の原点だった。以下は、インターネット史上初のバナー広告の制作に携わった人々が語った、その誕生の物語だ。文量調整と読みやすさのため、インタビュー内容には編集を加えている。なお、話し手の肩書きは、広告制作当時のものだ。

まったく新しい広告を売る

「最初のバナー広告」という呼称は誤りだ。なぜなら、ホットワイアードは1994年10月、12ブランドの広告を同時に掲載したからだ。そこに名を連ねた広告主は、通信会社のAT&TとMCI(1997年にワールドコムにより買収)、1-800コレクト(1-800-Collect)、自動車ブランドのボルボ(Volvo)、リゾート会社のクラブメッド(Club Med)、携帯電話事業のスプリント(Sprint)、テック企業のIBM、アルコールブランドのジーマ(Zima)など。これらのブランドの一部は、eコマースの先駆けであるオーガニック(Organic)と提携していた。この未知なる領域に足を踏み入れた目的は単純で、現在のデジタルパブリッシャーとなんら変わらない。すなわち、売上のためだ。ジョナサン・ストイアー氏(ホットワイアード創設メンバーで、別名「ネットの帝王」): 私はその場にいた。そのときの話題は、インターネット上の出版事業で、どのように利益を得るかだった。ルイス・ロゼット氏(ワイアード共同創業者): 広告を載せればネット世界から反感を受ける、と皆に言われた。私からすれば、こうした反対意見はバカげていた。営利目的でない人間活動の分野はごくわずかだ。インターネットをその例外とすべき理由などない。だから我々は、「知ったことか」と無視して計画を進め、そして実現させた。アンドリュー・アンカー氏(ホットワイアードCEO): ワイアードは未来の先駆者と評価されていた。広告主に将来の展望を尋ねられた我々は、インターネット広告のアイデアを話した。我々は、広告費のごく一部をサイトに投資してほしい、そうすれば「我々はスマートで、未来志向だ」と豪語できる、と広告主を説得した。ジョナサン・ネルソン氏(オーガニック共同創業者): ホットワイアードは、ワイアード本誌の営業チームを起用した。彼らは主要ブランドを訪ね、「とっておきの物件をご紹介します。場所は World Wide Web です」と説いてまわった。ストイアー氏 : 当時、雑誌版の1ページの広告掲載料は約1万ドル(約100万円[当時])だった。だから、1万ドルでWebサイトの1セクションに広告を1カ月掲載することにした。ブランドは、雑誌のページ単位での商談に慣れていたので、紙媒体に換算して交渉を進めた。ネルソン氏 : デジタルアドの黎明期、掲載料は定額で、広告主から指標について尋ねられることはなかった。アンカー氏 : トラフィックについては一切確約しなかった。これははじまったばかりの事業だと、しつこく説明した。また、初のバナー広告は、実際に広告を見た人だけでなく、メディアの注目も集める、とも話した。実際、ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)、アドエイジ(Ad Age)、アドウィーク(Adweek)に記事が掲載された。スティーブン・コンフォート氏(ワイアード・オンライン・ゼネラルマネージャー): サイトに広告掲載がはじまったとたん、「Webマーケティングの可能性」に関する記事がメディアにあふれ、急速に関心が高まった。

実現までの道のり

現在、デジタルキャンペーンを行う広告主は例外なく、アドサーバー、効果測定ベンダー、広告運用サポートを利用できると期待する。だが1994年当時、これらは存在しなかった。そのためデジタルアド黎明期の広告主は、476*56のバナー広告を掲載する前に、数々の未知の問題を即興で解決しなければならなかった。ブライアン・マカラー氏(インターネット歴史家): 誰もが創意工夫を凝らして乗り切っていたのは記憶にとどめておくべきだ。1994〜1995年は、筋書きがなく、誰もがネット上で新しいことにトライしていた、楽しい時代だった。ネルソン氏 : 帯域制限がダイヤルアップの大きな問題だった。当時の広告は10キロバイトほどしかなかった。カラーにするとダウンロードサイズが大きくなるため、白黒にすることさえあった。ストイアー氏 : 当時Webアナリティクスと呼ばれていたのは、単にサーバー上のログファイルの行数を数えただけの代物だった。クッキーもなく、セッション状態を保存する方法もなかったので、ユーザーがサイト上で複数のページを閲覧したかどうかを知る方法は、ログインさせるか、IPアドレスをユーザーに相当するとみなして確認するしかなかった。アンカー氏 : 我々はサイトのログからPVを計算し、広告主にメールで知らせた。当時は解析パッケージなどなかった。ジム・スペロス氏(AT&T広告・マーケティング部門バイスプレジデント): 当時A/Bテストは存在しなかった。誰が広告を見ているかについては初歩的な情報しかなかったので、ターゲティングも事実上、行われていなかった。アンカー氏 : アドサーバーがなかったので、それぞれのセクションに広告のコードを直接打ち込んだ。ボルボの広告は旅行セクションに。AT&Tの広告はニュースサイトのレビューのセクションに。それぞれの広告は単純にセクションの最上部に掲載し、広告主が週に1回変更できるようにした。ストイアー氏 : 我々はワイアード本誌のデザイナーを呼び、何台かのコンピューター上で掲載する広告を確認して、スクリーン上での広告の相対サイズをチェックした。我々は、広告がページ上部にバナーとして表示され、ユーザーにとって操作しやすくなるように、かつマーケターから苦情が来るほど小さくならないように注意した。オットー・ティモンズ氏(タンジェントデザイン バイスプレジデント): AT&Tの広告をデザインしていたとき、ネット接続が切れた。そこで場所を変えると、今度は私のクルマが故障した。あの1週間はいろいろなハプニングがあった。アンカー氏 : いくつかのブランドは、バナー広告枠を買った当時、まだWebサイトを持っていなかった。彼らからパンフレットや雑誌広告を送ってもらい、そのブランドのランディングページも我々が制作した。

ホットワイアードに掲載されたAT&Tの最初のバナー広告、thefirstbannerad.comより転載

掲載開始

何カ月もの夜を徹した作業の末、1994年10月27日、ホットワイアードのサイトが公開された。最初のバナー広告は、公開と同時に掲載された。イノベーションを成し遂げた功労者たちは、当時ならではのやり方で船出を祝った。ロゼット氏 : ようやくすべての準備が整い、12人のチーム全員がわくわくしながらサーバーのまわりに集まった。エンジニアのブライアン・ベーレンドーフがスイッチを入れ、サイトに最初のトラフィックが記録されると歓声があがった。サイトはしょっぱなからクラッシュしたが、すぐに復旧した。ネルソン氏 : 広告掲載開始の瞬間はよく覚えている。カウントダウンをして、ゼロと唱えた瞬間、広告が表示された。ある意味、拍子抜けではあった。サイトと広告の公開自体は、単にプログラムコードのコマンド文を打ち込むだけだったからだ。ティモンズ氏 : ローンチの時はへとへとだった。みんな夜通し働いて疲れ果てていた。それでも、オンライン広告を見たときはうれしかった。スペロス氏 : 正直に言えば、広告がロードするのを見るのは、ペンキがゆっくりと乾いていくのを眺めるような気分だった。なにせ高速インターネットのない時代だ。イノベーションを示すことができたのは最高だったが、ユーザー体験としては最低だった。ロゼット氏 : ホットワイアードのスタートを祝い、(サンフランシスコの)セカンドストリートとサウスパークストリートの交差点にあった旧本社でパーティーを開いた。4階建のビル全体を会場にし、社員全員、友人、広告主を含めたビジネスパートナーを招待した、大々的なパーティーだった。我々自身の努力と熱意を称えあい、ストレスフルな激務の末にようやく成果を生み出せたことにほっとした。ストイアー氏 : ローンチパーティーではみなジーマを飲んだ。あれは大失敗だった。食事が足らず、ジーマだけは大量にあったのだ。

ホットワイアードに掲載されたZimaの最初のバナー広告、thefirstbannerad.comより転載

ホットワイアードの影響

ホットワイアードのサイト発足当時、独自のバナー広告を開発しているサイトはほかにもあった。ホットワイアード以降にバナー広告をリリースしたパブリッシャーは、効果測定を改善し、価格を引き下げた。だが、後続のサイトにはホットワイアードの影響が見てとれる。ネルソン氏 : 当時の感覚としては、「これこそ我々の成果だ」というだけで、巨大産業の原点になるとは思ってもみなかった。アンディ・バトキン氏(インタラクティブマーケティング CEO): 我々は、ヤフーに掲載するバナー広告の開発中だった。ホットワイアードに60日ほど先を越されたと思う。彼らには先を越されたが、CPMインプレッションモデルを生み出したのは我々だ。ロン・オトレンバ氏(CNETエグゼクティブバイスプレジデント): 我々は、初のバナー広告を1995年6月に掲載した。オーディエンスの閲覧保証つきでバナー広告を販売したのは我々が初めてだ。当時は価格モデルが定まっていなかった。アンカー氏 : CNETが循環バナーとオーディエンス保証を導入し、現在のビジネスモデルに近づいた。彼らのやり方は成果ベースに近かった。オトレンバ氏 : 我々はメディアバイヤーに、広告が人々に届いていることを証明する必要があった。サーバーログをメディアバイヤーに公開し、広告がどれだけ表示されたかを示した。バトキン氏 : 当時のバナーは、いまよりもコンテンツに近かった。人々は、バナーをクリックするとどこに行けるのか興味をもっていた。クリックスルー率は15%に上ったが、まもなく低下しはじめた。スペロス氏 : しばらくすると、人々はバナーをシャットアウトするようになった。背景の壁紙のような扱いになったのだ。バナー広告全般が珍しいものでなくなったせいだろう。ティモンズ氏 : あれは間違いなく、私のキャリアのハイライトのひとつだ。だが20年経ったいま、オンライン広告には大いに改善の余地があると思う。イノベーションが起きてはいるが、全体的にはジャンクメール同然だ。マカラー氏 : 最初期のバナー広告は未来志向で実験的だった。だが、猫も杓子もサイト上部にバナーをつけるようになると、退屈な代物に成り下がり、しばらく停滞に陥った。そして数年後、ドットコムバブルの到来で誰もが一夜にして大金を手にし、もはや誰もイノベーションに挑もうとしなくなった。ロゼット氏 : 後悔があるとすれば、発明の特許申請をしなかったことだ。申請していればいまごろは億万長者になっていただろう。Ross Benes(原文 / 訳:ガリレオ)