94年「銀行支店長射殺事件」で“拳銃を持った老人”はなぜ出頭したのか 実行犯を明かさぬまま逝った男の裏街道人生
第1回【70年代「約3億円詐欺」、90年代「銀行支店長射殺」…戦後日本を犯罪で渡り歩いた男の裏街道人生】を読む
「週刊新潮」がその男を最初に報じたのは、1979年のことだった。当時の日本を席捲していた大学の不正入試・裏口入学疑惑に絡み、渦中の私立高校関係者から2億8000万円ものカネを騙し取った詐欺事件。発生から1年以上経ってもその容疑者が捕まらない――という内容だったが、記事の掲載から数カ月後、ついに1人の男が逮捕された。
近藤忠雄、57歳、前科7犯。この事件で10年超の服役生活を送った近藤は、出所の数年後、日本を震撼させた未解決の企業テロ事件で再び“表舞台”に現れた。「週刊新潮」が2003年まで断続的に報じた近藤の名前を追うと、戦後から令和まで裏街道を歩き続けた男の姿が浮かび上がる。(全2回の第2回)
***
【写真】戦後混乱期は犯罪が多発…10人を毒牙にかけた「昭和最悪の性犯罪者」も
17年前の亡霊
平成6(1994)年9月14日、午前7時過ぎ。名古屋市内のマンション10階で、住友銀行名古屋支店のH支店長(54=当時)が遺体で発見された。誰もが知る大手銀行、その支店長が自宅前の廊下で眉間を撃ち抜かれるという残虐な殺人事件である。

捜査が急展開したのは発生から約2カ月後、同年11月11日のこと。この日、大阪府警に逮捕された近藤忠雄が、支店長射殺に使用された拳銃を所持していたのだ。近藤は73歳になっていた。
〈久方ぶりに事件の主役になった近藤忠雄。相当な曲者のようだ。『M・Y』という名で住銀森川敏雄頭取宅に“名古屋の事件は我々の仕事だ”という脅迫状が届いた直後の11月11日。近藤は大阪の住銀本店に「融資が不調に終われば青酸カリで自決する」と脅迫めいた電話を掛け担当者を訪れたが、むろん銀行側がそんな脅しに乗るわけがない。融資を断られて店を出たところを待ち構えていた大阪府警の捜査員が御用〉(「週刊新潮」1994年12月8日号)
〈で、ズボンのベルトに挟んでいた短銃が発見されると、今度は「これで名古屋支店長を殺したんだ」と進んで自供。驚いたのは捜査員の方で、急遽大阪府警が銃刀法違反容疑で近藤を逮捕。取調べを開始したところ、近藤の持っていた拳銃が米国製38口径『レディスミス』だと判明。畑中前支店長を射殺した拳銃と一致した。“17年前の亡霊”のような近藤の登場に捜査員も唖然となったわけだ〉(同)
明らかに“実行犯”はない
近藤が持っていたレディスミスの線条痕は、支店長射殺の現場に残された銃弾と一致した。だが、近藤が射殺の実行犯である可能性は低かった。捜査関係者の話。
〈「弾は地面から約160センチの高さで水平に発射されているのだが、近藤の身長は160センチ程度。つまり近藤が撃ったとしたら頭の上に拳銃を乗せて構え、眉間を一発で撃ち抜いたことになる。まずそれは不可能だ。マンションへの侵入も、暗証番号を適当に押したらドアが開いた、といっているが、マンションには暗証番号はない。近藤は侵入すらしていないのではないか」〉(「週刊新潮」1994年12月8日号)
近藤が「進んで自供」した理由のヒントは“口の固さ”にあるようだ。A医科大学の公判で「不正入試で集めた金のお相伴に与っただけ」と人を食ったような供述を繰り返し、共犯者をかばい通した“実績”である。出所後に借金が膨れ上がっていたことも“仕事”を引き受ける動機として十分だった。消息筋の話。
〈「犯行直前の9月7日に近藤がわざわざ支店長に面会を要求し、犯行日をA医科大学事件と同日に設定したのも、彼の犯行を印象付けるためだったと思います」〉(同)
近藤はA医科大学事件の時、「原田博公」のほかにも「松永義男」の偽名を使っていた。支店長射殺事件の後、住銀頭取が受け取った脅迫状のイニシャルは「M・Y」である。偶然といえば偶然だが、近藤に目を向けさせる意図を深読みすることもできた。
服役中に発覚した別の襲撃事件
案の定というべきか、近藤はその後の事情聴取で“本当はやっていない”、“競艇場で知り合った4人組の男にたのまれて、銃を調達しただけ”などと繰り返し捜査官を翻弄した。
平成7年11月、実行犯が見つからないまま、近藤は銃刀法違反で懲役7年の判決を受けた。服役後も捜査官の聴取は続けられたが、近藤との接見を続けていた担当弁護士は、相変わらずの様子を証言している。
〈「“言いたくないことは言わんでいいが、いい加減に話したらどうか”と捜査員が尋ねると、“おまわりさん、さっきはしゃべらんでいいと言ったばかりだがね。そんなに態度が変わったら困るがや”と煙に巻いているそうです」〉(「週刊新潮」1997年8月14・21日号)
当時、近藤はA医科大学事件の手記を執筆していたというが、定かではない。一方で1999年には、別の襲撃事件への関与を認めた。1993年2月26日、当時のJRA理事長・渡辺五郎氏が路上で男に襲われ、全治1週間程度のけがを負った事件である。
「自分が関係したことは申し上げるつもり」
男は短銃のようなもので渡辺氏を脅し、その場から連れ去ろうとしていた。裕福な男性を銃で脅して拉致し、カネを奪うという手口は、A医科医大事件などとよく似ている。そこで捜査官が事情を聴くと、近藤は関与を認め、強盗致傷で再逮捕となった。
公判での近藤は相変わらず飄々とした態度を維持したが、支店長射殺事件については気になる証言を残している。
〈近藤被告は弁護士に支店長射殺事件について問われると「殺しの要素が入ったため、私は途中で降りた。実行犯は別にいる」と述べ、「自分が関係したことは申し上げるつもり。めい土に行く前に一つずつ片づけたい」とも語った〉(「毎日新聞」2000年1月26日付)
「週刊新潮」(2003年4月24日号)が掲載した「住銀『名古屋支店長』射殺事件 凶器の拳銃『レディスミス』を渡した男」で、ノンフィクションライターの森功氏は、近藤の周辺でうごめく“闇の紳士”たちを解き明かしている。住友銀行の懸案事項だった「不良債権トラブル」に関係する男たちと近藤は、岐阜刑務所で接点が生じていたという。当時の近藤はA医科大事件で裏社会の有名人となっていた。
〈近藤は、所内で10人ほどの囚人と作業場で袋張りに従事している。大勢で作業する工場では、「あっ、あれが近藤や」といわれたり、「先輩!」と声をかけられたりするので、“人目”に触れない袋張り作業に、自分から頼んで配属してもらったという〉(「週刊新潮」1980年10月2日号)
すべてを語らぬまま獄中で病死
では、近藤は支店長射殺事件の背景をすべて知っているのか。それとも、あくまでもただの「出頭役」なのか。森氏は「最大の鍵を握る近藤忠雄」(「週刊新潮」2003年4月24日号)と綴ったが、近藤が真実を語る機会は永遠に失われてしまった。
2009年4月、近藤が同年1月に獄中死していたことが公表された。享年87。JRA理事長襲撃事件や別の強盗未遂事件で刑期が追加され、同年6月に出所予定だった。出所後にもう一旗揚げる、とも宣言していたという。
〈「自分なりの犯罪哲学を持った人間だった」。愛知県警の元幹部はそう振り返る。元幹部によると、3億円事件(A医科大学事件)で逮捕された際、近藤受刑者は「他の罪名(別件)で逮捕されたら何も言わないが、あんた方が正面から(本件で)逮捕したら。うたおう(自供しよう)」などと言ったという〉(「朝日新聞」2009年9月11日付)
同年9月14日0時、支店長射殺事件は公訴時効を迎えた。15年間の捜査対象者は1700人に上ったが、ついぞ実行犯には手が届かなかった。実行犯の正体、事件の社会的背景や動機――このまま時に流されてしまう謎の数々には、その波間を漂い続けた近藤自身も含めるべきだろう。
***
その男はふらりと広島に現れ、「満州から戻った」と言った――。第1回【70年代「約3億円詐欺」、90年代「銀行支店長射殺」…戦後日本を犯罪で渡り歩いた男の裏街道人生】では、A医科大学詐欺事件に至るまでの前半生などを伝えている。
デイリー新潮編集部
