伊東純也だけじゃない!日本代表で「背番号14」をつけたスター5名
本日は11月14日。14と言えば、日本代表では「イナズマ」の異名がすっかり定着した伊東純也の背番号だ。
前回の最終予選で4試合連続ゴールを決めてブレイクしたスピードスターは、カタールワールドカップでレギュラーとして活躍。
以降も森保一監督率いるチームで欠かせない戦力となっている。
そこで、今回は伊東以外に過去のワールドカップで日本代表の「14番」を背負った偉大な5名の選手を紹介する。
岡野雅行
まずは、日本をワールドカップ初出場に導いたこの男。記念すべき1998年フランス大会の14番だ。
「野人」の愛称で知られた岡野雅行は、伊東と同じく神奈川県の出身。その後は島根の松江日本大学高校(現・立正大淞南)へ進学し、日本大学を3年で中退してプロ入りした異色のキャリアを持つ。
とにかく並外れたスピードを持ち、“キラーパス”が持ち味の中田英寿と抜群の相性を誇った岡野。その中田のミドルシュートから生まれたから「ジョホールバルの歓喜」は、いまだに色あせない日本サッカー最高の瞬間の一つだ。
そんな岡野は2013年に現役を引退し、現在はJ3のガイナーレ鳥取で代表取締役GMを務めている。
三都主アレサンドロ
続いては、スピーディなドリブル突破や抜き切らないクロスが記憶に残る左サイドアタッカー。
三都主アレサンドロは、高知の明徳義塾高校から練習生を経て清水エスパルスの一員に。1年目から頭角を現すと、3年目の1999シーズンには史上最年少の22歳でJリーグMVPに輝いた。
2001年11月に日本への帰化申請が認められると、当時のフィリップ・トルシエ監督はすぐさま代表へ招集。ジーコ監督時代にはサイドバックにコンバートされ、2002年と2006年のワールドカップに出場した。
ちなみに「三都主」という名前は、自身にとって思い出深いブラジル・高知・清水の三つの都市を意味している。
中村憲剛
Jリーグを含め、日本では「背番号14」の代名詞的存在と言えそうな中村憲剛。
2003年に中央大学から川崎フロンターレでプロ入りすると、2年目に運命の背番号「14番」を継承。ポジションもボランチへコンバートされたことで新境地を見出し、リーグ屈指の司令塔としての評価を受けるようになっていった。
2006年にイヴィチャ・オシム監督の日本代表へ招集されると、中村憲剛や遠藤保仁らとともに「人もボールも動くサッカー」を体現する一人に。
オシム氏の後を受け継いだ岡田武史監督のもとで、2010年の南アフリカワールドカップに出場。ラウンド16のパラグアイ戦で途中出場した。
青山敏弘
今シーズン限りで現役引退を発表している稀代のボランチもまた、ワールドカップで14番を背負った一人だ。
青山敏弘は作陽高校から2004年に加入したサンフレッチェ広島で、21年間の現役生活すべてを送ってきた。
特に輝いたのは、森保監督のもとで広島が黄金時代を築いた2012年から2015年にかけて。計3度のJ1優勝を達成するとともに個人としても2015年にJリーグMVPを受賞している。
ワールドカップに出場したのもちょうどその時期。2014年のブラジル大会、アルベルト・ザッケローニ監督によってメンバーに選出され、第3戦のコロンビア戦に先発出場した。
乾貴士
最後は、2018年のロシアワールドカップに出場した乾貴士。
大会直前にヴァイッド・ハリルホジッチ監督が解任されるという未曽有の状況。乾は当時スペイン1部のエイバルで活躍していたが、ハリルホジッチからの評価は決して高くなかった。
そうした状況の中で、西野朗監督のもとメンバー入りしたこともあってか、自身初のワールドカップで攻守に躍動。ラウンド16のベルギー戦では強烈なミドル弾で世界を沸かせてみせた。
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36歳となった乾は現在、J2の清水エスパルスでプレーしており、先日J1昇格を達成。来季は国内最高峰の舞台で元気な姿を見せてくれそうだ。