江戸時代の人々が、日常茶飯事の「濡れ衣」「不当逮捕」から逃れるにはどうすればよかったのか

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江戸時代の裁きの記録で現存しているものは、現在(2020年5月)、たった3点しか確認されていない。

その一つが、長崎歴史文化博物館が収蔵する「長崎奉行所関係資料」に含まれている「犯科帳」だ。3点のうちでもっとも長期間の記録であり、江戸時代全体の法制史がわかるだけでなく、犯罪を通して江戸社会の実情が浮かび上がる貴重な史料である。

じつは、江戸時代の裁きは「濡れ衣」、「不当逮捕」が日常茶飯事であった。人々がこうした冤罪から身を守るためにはどうすればよかったのか。

【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)より抜粋・編集したものです。】

とんだ濡れ衣で

唐人屋敷ができる元禄二(1689)年まで、長崎貿易に従事する唐人は町の中に雑居していた。長崎には崇福寺、興福寺などの「唐寺」が今でも存在する。当時、長崎で死亡した唐人は、このような唐寺の墓地に埋葬されていた。したがって他地域には見られない葬儀が長崎では見られていた。

延享三(1746)年正月一三日、病死した唐人の葬儀が崇福寺であった。そこに参列した唐人がその帰り、油屋町の太左衛門宅に投文をした。それを目撃した同行の唐人番がこの行為を怪しんだ。これにより太左衛門とその下人・利助は手鎖の上で所預となった。唐人番は投げ入れられた書付も取りあげたが、吟味をしても特に問題はなかった。

しかし二人は、出島、唐人屋敷、新地そのほか荷役などの場所に立ち入らないようにという、決まり文句による叱を受けた。許されたのはひと月以上も後の二月二七日のことであった。身の潔白は明らかとなったが、何もしていなかったのだから、精神的には相当苦しんだにちがいない(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(二)四四〜四五頁)。

いったん和談したにもかかわらず

寛延元(1748)年一二月二六日の夜、長崎郊外・長崎村の桜馬場で利左衛門と松次郎の二人が口論になった。この件、いったんは同夜に和談で決着した。

ところがその後、松次郎が同じ桜馬場の弦場という所で変死した。当然、利左衛門が疑われたが、殺人の証拠は見つからなかった。

現代であれば、これでは刑罰を科すことなどはとうていできないに違いない。だが松次郎の変死との関係は明らかでなかったにもかかわらず、利左衛門には「軽キ追放」が命じられた。この理不尽な判決に彼は納得できたのだろうか、本人に聞いてみたいところである。

じつはこのあと利左衛門は長崎に立ち帰ってきて見つかり、この「立ち帰り」の科により、壱岐への流罪に処されている。証拠不十分のまま科された刑を前提にして、さらにその上に重い刑を科されたのである。当事者間で解決していたはずが、思いもよらぬ松次郎の変死から追放となり、利左衛門の人生は狂ってしまったように思われる(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(二)九一頁)。

長崎奉行所、ひいては公儀の判断がすべてであった時代、今日であれば不当逮捕と訴えることもできるだろうが、そんなことはできない時代なのである。人びとにできることと言えば、事件性の高い場面には遭遇しないことを願うことしかなかったろう。この時代には、こうした一面もあったのである。

「疑わしき者はとりあえず捕まえる」…「犯科帳」に記録された「江戸の冤罪事情」