100年前の女性たちの姿に、私たちはなぜここまで共鳴するのか。最終回を迎えてもなお反響を呼び続けるドラマ『虎に翼』の脚本家・吉田恵里香さんと、「ケア」の研究者として、そして視聴者としてこのドラマを追ってきた小川公代さんの「群像」11月号特別対談。その後編を再編集してお届けします。後編の話は、さまざまな反応を呼び起こしたあの場面から始まります。【「前編:その声が誰かの力になる」はこちら】

花束を渡さなかった寅子

小川:今回、吉田さんに事前にどんな本がお好きか聞いたところ、クローンたちが主人公のカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を挙げて下さいました。この作品では、人間のために臓器を提供する運命を背負っているキャシー、ルース、トミーといったクローンたちが人間のような感情を持ち、互いに想いを伝えられなかったり、嫉妬から嫌がらせをしたりする。ルースは親友のキャシーが思いを寄せるトミーとの仲を邪魔するために、トミーと付き合うのですが、最後にはふたりに謝罪をする。

この「許し」というテーマが、『虎に翼』のあちこちに出てきます。穂高先生が退任する際、かつて妊娠した寅子に「もう休んでもいい」と言ったことが許せなくて、寅子はパーティーで穂高先生に花束を渡しません。なぜなら自分を追い込んだのは穂高先生であり、やっぱり許せないという気持ちがあるんですね。寅子、そんなに怒らなくてもいいんじゃない、という視聴者の反応もあったと思います。

吉田:穂高先生は自分のせいだということがぼんやりとしかわかっていないので、不必要なケア、いわゆるおせっかいをしてしまいます。先生が祝賀会の翌日に謝ったのも、自身が寅子と気持ちよく別れるためなんですよね。実はシナリオですと、花束を渡す前に穂高先生が「すまなかった。申し訳なかった、佐田君」と言うシーンがありました。でも花束を渡してしまったら皆の前で許したことになってしまうので、寅子は渡さないし、渡さないことを謝らない。更に演出がもっと攻めた構成にして、穂高先生の謝罪の台詞を切ったんですね。本人は許していないのに、周りから「許し」をお膳立てされて、「あのとき花束を渡したよね」と既成事実をつくられてしまう、みたいなことって実際に多いですよね。でも、寅子は自分で立ち上がって戻ってきたプライドがありましたし、「穂高先生、ここまで来て、あなたは許しを私に強制するんですか」という気持ちもあったのかなと思います。

小川:桂場も、大好きな穂高先生が悩んでいたと知っていたから、なんとかしてあげたいと思ってしまった。『虎に翼』あるあるですよね。おせっかいしすぎて、ケアになっていない。

吉田:ケアが相手軸ではなく自分軸、つまりケアしようとする人の側にあるんですね。桂場はすごくロマンチストなので、花束を渡せば丸く収まって、ボタンのかけ違いを直せると思ってしまう。そこには彼の甘えがあるんです。

小川:ホモソーシャルな世界では、こうやって形を整えればうまくいくこともあるんでしょうね。

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』も最新作『クララとお日さま』も「能力」について書かれた小説です。吉田さんは石ノ森章太郎さんの『サイボーグ009』もお好きだと聞きました。私も大好きな作品です。001から008のサイボーグの技術を集約させたのが009なんですね。『サイボーグ009』と『虎に翼』は、違う能力を持った多様な人たちが出てくるところが共通していますが、意識して描かれたのでしょうか。

吉田:朝ドラは登場人物が多いので、必然的にそうなった部分はありますが、私は自分の作品を描くときに全員がシスヘテロであることはほぼありません。意識というよりも、十人いれば何人かは同性愛者だったり、人種が違ったりすることは当たり前かなと思っています。それを排除してきたエンターテインメントの歴史にイライラしてしまうので、私は絶対に入れようと思って書きました。制作統括の尾崎裕和さんもわかっていらしたと思うので、登場人物の設定については何も言われませんでした。

どの作品でも、本当はあまり人数を気にせず書きたいのですが、セクシャルマイノリティーの登場人物が二人以上になると盛りすぎとか言われてしまうこともあり悩ましいです。それはエンタメが作ってきた呪いですが、先輩方が作った呪いだから私は関係ないと言うのも違うかなと。

小川:元同級生で弁護士になった轟太一が、同性の遠藤時雄と付き合い始めたと知ったとき、寅子が目を丸くして沈黙する場面を書かれていたのも印象的でした。寅子はケアをするし、配慮もある人だけれど、そんな彼女でさえ気まずくなるんですね。

吉田:寅子は自分や大事な人が経験したことしかわからない人で、同性愛者の友だちが今までいなかったんです。すぐに受け入れて順応してしまうと、自分ごとではなくなってしまう人がいるだろうと思い、ああいうリアクションを入れました。差別しているとかではなく、どう反応したらいいのかわからないという感じです。

小川:寅子はコミュニケーション能力が高いな、と感じたのは、そういうとき「さっき、ちょっと間違ったことをしちゃったわよね」と言うからですね。彼女は、何か過ちを犯していることには気づいていて、言語化できなかったことを言語化しないまま謝っているリアルさがありました。

吉田:ああいう場面で100点の答えはないと思うのですが、ただ謝るのは許しを請う行為になってしまう。寅子は責められることも背負って謝ったと思います。

小川:先ほど「わかった側に立つのは危険な状態だ」という話がありましたが、寅子は「スンッ」となることはあっても、わかったふりはしません。私も、自分はシスヘテロであり、当事者ではない立場からどのようにマイノリティーについて書けばよいのか、わかっているという距離感では決して書かないけれども、わかりたい気持ちがあります。どう伝えればよいのか、その方法に関心を持っています。私は他者の気持ちを理解したいから、サイボーグのように改造されて違う立場になる作品に関心があるのだと思います。吉田さんは湯浅政明さんのアニメ『カイバ』もお好きだと伺いました。

吉田:記憶がデータ化された世界の話です。肉体の死が死でなくなり、記憶はデータバンクに移されて、嫌な記憶を削除、新しい肉体の入手、楽しい記憶をダウンロードできる世界が描かれています。寓話的で大好きな作品です。

小川:私も、人の感じ方を想像の世界で探究してきた人間なので、そうした作品に惹かれるのはわかります。

吉田:何をもってその人の「個」とするのか。内面なのか外見なのか。両方だと言う人もいますが、あらゆる可能性のなかで、生まれ持ったもので勝手に個を決められることへの憤りがあるのかもしれません。たとえば、出生時に割り当てられた性とは違う性を生きる人がいます。勝手に性別などで個を決められることへのいらだちがあるのかもしれません。

小川:そこには能力の問題があると思います。009は拉致されて体を改造される。目が覚めるとサイボーグになっていて、次の瞬間に巨大なロボットや戦車に襲われるのですが、全員を一人で倒せるわけではないんですよ。そんなことあり得ませんよね。でも、自己責任の価値観が支配する世界で、個が自律して能力を持っていないとダメという圧力が強まってきているように感じます。

吉田:失敗してはダメ、という世の中ですよね。でも、人は絶対に間違えます。失敗しても誰かがケアしてくれるだろう、という考えはよくないと思いますが、失敗することでもう一度考えたりやり直したりすると、強度が上がったり選択肢が増えたりする。だから、失敗した人に対して、この傷は一生消えないと責め続けることは、人の善性を削っていくと思います。

小川:完璧が求められすぎていて、SNSで失言をするとひどい騒ぎになりますよね。もしかしたら誤解があるかもしれないのに、相手の意図を想像する余地を感じません。

吉田:『虎に翼』にも通じますが、完璧な人しか正義を唱えてはいけない、という考えが一番危ないと思っています。人は間違うし、失敗もするし、ダメなところもあるけれど、それでも人間として権利を主張していいし、自分なりの正しさを唱えていい。制約のなかで得をするのは搾取する人だけだと、たくさんのヒーロー漫画から学んできたじゃないですか。ラストで「真の敵はここにいない、団結だ」と気づく物語を読んできたはずなのに、足の引っ張り合いをしている。

小川:『虎に翼』では多様性が前面に出ていて、こんな人もあんな人も、みんなここにいるんだ、と感じられます。戦争で一度閉じてしまったカフェーが、その後、よねと轟の弁護士事務所になって、いろいろな人の居場所になっていきます。

よねと轟が弁護士事務所を設立する際に、どちらの名前を先にするかをじゃんけんで決めたのが素晴らしいですよね。二人は違うタイプだけれども対等であると認め合っているのが分かる場面だと思いました。

吉田:私は、あそこは元々よねの居場所だから、脚本で「山田轟」の順番にしていたのですが、制作過程で出た意見から、轟のほうが先輩ということで「轟山田」に変わってしまったんです。たしかに轟は弁護士としては先輩だけれど、一緒にやろうと誘ったのはよねです。「弁護士のしきたりではこの順番」と言われましたが『虎に翼』らしくないと思いました。理屈があれば良いのかと思ってあのじゃんけんのシーンを入れました。

小川:よねが勝つところが良いなと思いました。しかも、彼女が口述試験に受からなかったのは、おそらく男装のせいだろうとみんなが知っている。どこか不当な法曹界の仕組みで同じ時に弁護士になれなかっただけなので、やはり二人は対等な関係ですよね。

吉田:セリフだけではなく、実際にじゃんけんするシーンになっていて素晴らしい演出だったと思います。

なぜ恋愛でなくバディなのか

小川:私は『虎に翼』をバディ物だと思っていて、同じように見ている人は多いかなと。

吉田:組み合わせはいっぱい作っていますね。

小川:たとえば、寅子とよねはいがみ合うバディです。

吉田:お互いに好きなんだけど、通ってきた道が違いすぎるんですね。

小川:よねは一度「許さない」と言ってしまった手前、寅子が歩み寄ってきても、にこにこして迎えられず仏頂面をするしかないということなんでしょうか。

吉田:寅子からすると、よねに「許したよ」と言ってほしいのですが、自分も穂高に対してしていないことだから、できないこともわかっている。よねも結局、ツンとしている自分に何度も来てくれる人が好きなんです。無自覚の試し行動と言いますか。

小川:自分を見捨てていく人たちを大勢見て来たよねは、寅子だけは自分を見捨てないでいてくれたという思いがあるんじゃないでしょうか。

吉田:心を開いてくれていると思っていたのに、寅子が妊娠して、自分に何も言わずに弁護士の道を諦めてしまったことが、よねにはすごくショックだったんです。

小川:わかってあげてほしいですけどね。私はどうしても寅子に肩入れしてしまいます。

吉田:寅子派はめずらしいから新鮮です(笑)。寅子には「なりたい理想像」と「よねの前で見せたい自分の姿」があるから、よねに話せなかったんですね。

小川:同じ方向を向いている人でさえ、こんなに感じ方が違ってきてしまう。みんな多様だということをリマインドされる瞬間でした。

吉田:若い時は自分のビジョンや理想像にとらわれがちなので、そこはきちんと描かないといけないと思いました。

小川:だからこそ何年も経ってから、原爆裁判に二人が判事と弁護士という立場で関わることになり、廊下ですれ違って言葉を交わす場面にはぐっときました。これぞバディのショットだと思いました。そういうところの書き方が見事ですよね。

『あぶない刑事』とか『スラムダンク』とか、エンターテインメントには数々の名バディがいますが、なぜ恋愛関係ではなくてバディなのか、という問いかけは、最近改めて重要になってきている気がします。吉田さんが脚本を書かれて、向田邦子賞を受賞されたドラマ『恋せぬふたり』もバディものですね。咲子と羽は恋愛関係ではないけれど、共同生活することで、お互いの相談に乗ったりして寂しくなくて、良い関係をつくっていきます。昔から私たちには、恋愛から始まった共同生活こそ本物という刷り込みがあるので、新しい作品だと感じました。

吉田:結婚することで税金などの面で得がある世の中ではありますが、恋愛から始まるものをみんな無敵だと思い込み過ぎではないでしょうか。孤独や寂しさへの恐怖感も、恋愛や結婚をする理由の一つかなと思っています。だから、恋愛ではない形の選択肢が一つ増えたらいいなと思って書きました。

小川:『虎に翼』で最もラディカルに感じたのは、寅子と佐田優三の友情結婚です。『恋せぬふたり』に通じますよね。私のためにあなたがいて、あなたのために私がいるというケアの相互依存です。私はこの数年間、ケアの倫理について書いてきたので、二人の関係に共感しましたし、私自身が家父長制を内面化していた30年前に優三さんのような人を知りたかったです。

吉田:結果的には二人の間に愛情が生まれるのですが、「ずっと支えてくれた。これが愛だったのね」という始まり方で結婚させたくなかった。優三は彼女のことが大好きで、確実に幸せをもらえるとわかっていたと思います。恋心を隠した彼のエゴやズルさも描いたつもりですが、仲野太賀さんのお芝居が素晴らしいので完璧な人に見えますよね(笑)。

小川:なるほど。この人が好きだから、この人のためになることを一生懸命頑張れるスキルって、恋愛とか友情を超えたもののような気がします。

吉田:優三は寅子の話を聞いて、彼女が笑ったり怒ったりするのを見るのが楽しい。でもそれは寅子にとってもハッピーなことなんですね。恋愛物語はどうしても、惚れさせたほうが勝ち、みたいになってしまいますが、それは搾取されたくない、ケアしたくないという気持ちから来ているのではないかと思います。

小川:大学の同級生の花岡悟と寅子の恋愛模様も、皆さん関心を持って見ていたと思います。花岡は寅子にプロポーズせず九州へ行ってしまいましたが、そこには彼なりの愛情があったと思います。彼は家父長的な家庭で育てられ、その価値観を内面化していた。

吉田:自分をケアして支えてくれる奥さんが欲しかったんでしょうね。花岡も寅子に思いを伝えるか迷ったと思います。もし伝えていたら、寅子が彼についていくかいかないかを決められたわけです。でも、花岡は言わなかった。傷つきたくなくて、対話を生まない選択肢を選んだんですね。

「ケアすること」をとらえなおす

小川:そろそろ質疑応答の時間に移りたいと思います。

参加者:寅子は家父長制を内面化しているというお話がありましたが、寅子は家父長制に抵抗する姿勢を見せる存在だと捉えていたので、ギャップがありました。また、小川さん自身もかつて家父長制を内面化していたというお話もありました。ここでの「家父長制を内面化している」というのはどういう意味なのか、もう少し詳しく教えていただけないでしょうか。

吉田:無意識のうちに、大人になることを、結婚して、子どもを持って、家庭を作って……と人生ゲームのようにクリアしていくことだと捉えていて、「私はミスフィットだけれど世間の当たり前はこうでしょう」と決めつけているという意味かなと思いました。

小川:寅子が仕事で忙しくて、娘の優未の世話を花江がしてくれていた時期は、完全に寅子が夫の立場に立っていて、家のことは花江がやるものだと考えている感じがありましたよね。

吉田:性別ではなくて、どちらの方が忙しいとか、どちらの方が稼いでいるかで、立場が決まってしまうことを書きたいと思っていました。

小川:あのシーンは目から鱗でした。自分が稼いでいると偉くなったような気持ちになってしまう。資本主義社会の刷り込みですよね。でも、花江みたいに手を動かしてケアしている人たちも偉いと思います。そういう人に価値を見出そうとしたのが倫理学者で心理学者のキャロル・ギリガンです。個が自立して稼ぐことに価値が置かれてきた近代社会において、家で行われるケア実践、そして母と娘がしっかり関係性を築いて分離しないことには意味があるのだと説いた。彼女の提唱した「ケアの倫理」はインパクトがあり過ぎて、ものすごいバックラッシュを受けました。

私が『虎に翼』で特に素晴らしいと思ったのが、新潟編です。家父長制を内面化してしまい、批判を浴びて反省した寅子が心機一転、娘と分離するのではなく関係を結び直すことを選びました。あれはギリガンが言う、互いの判断と倫理観で依存し合う関係をつくっていくのが「ケアの倫理」である、という考えにつながるのではと思いました。それには妥協と対話だと、まさに寅子は家庭でそれを実践していますよね。

吉田:娘の表面的な幸せを考えれば花江に預けるべきだと思いますが、かいがいしくケアすることが親子関係にとってベストなのではなく、親子で対話して、サボるところはサボり、話すところは話すというめりはりをつけることが、二人の溝を埋めることにつながるのかなと思って書きました。

小川:ケアの倫理は「個」を主張しないということではないんですよね。セルフケアということでいうと、実は「個」の尊厳をケアすることでもある。吉田さんの小説『にじゅうよんのひとみ』は、まさにセルフケアの物語でした。二十四歳の誕生日を迎えた「ひとみ」が、もうひとりの「ミスフィット」の「ヒトミ」と出会う物語です。「ヒトミ」は赤ん坊として生まれ、一時間に一歳ずつ年を取っていく。「ヒトミ」は、日頃から思ったことが言えない、家父長制的な社会に声を奪われた「ひとみ」の代わりに声を上げます。つまり「ひとみ」の代わりに「ヒトミ」がセルフケアをしてあげるんです。『虎に翼』は、ついつい「スンッ」としてしまうひらがなの「ひとみ」のような女性たちが、勇敢にも「はて?」といえるカタカナの「ヒトミ」に変わっていくために書かれた物語なのかもと思ったりします。

吉田:他者とはいろいろな関係性があるので、極論すると、自分を応援できる人は自分しかいないんですよね。純粋な意味で自分を応援できるのは自分だけだと思っているので、自分で自分を救うしかない。でも、そこに行き着くためには、やっぱり他者との対話が必要なんです。

小川:私は『翔ぶ女たち』という本の中で、作家の野上弥生子について書きました。夏目漱石門下で数少ない女性だった野上弥生子は三淵さんよりだいぶ年上ですが、子どもを育てながら仕事をしました。家父長的なものを上からどんどん押しつけられてくる中、諦めなかった人です。

吉田:生まれた年はだいぶ違うのに、野上さんの方が三淵さんより少し後まで生きたんですよね。『翔ぶ女たち』の中で、野上さんは長く生きたので女学校時代の学びを継続することができた、とありました。何歳になっても新しい分野に果敢に挑戦し、生涯現役で書き続けたのはすごいなと思います。

小川:本日はどうもありがとうございました。お話しできて大変光栄でした。

吉田:とても楽しかったです、皆さんもありがとうございました。

(2024年9月5日、本屋B&Bにて。構成/羽佐田瑶子)

その声が誰かの力になる。吉田恵里香さん×小川公代さん特別対談