コミュニケーションは相互交渉です(写真:ノンタン/PIXTA)

発達神経心理を主に発信を続ける立命館大学教授の川粼聡大教授は、「発達障害特性のある子どもとのコミュニケーションには、大人が陥りがちな落とし穴がある」と指摘します。本稿は川粼氏の新著『発達障害の子どもに伝わることば』から一部抜粋のうえ、注意すべき点をご紹介します。

発達障害だから特別というわけではない

発達障害の人はコミュニケーションがとりづらいのか、(もしそうだとすると)それはいったい誰の問題なのか。

「コミュニケーション」をインターネットで検索すると「社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。」(デジタル大辞泉)といった結果が返ってきます。

つまり、コミュニケーションは相互交渉(相手あってのもの)であって、仮にやりとりがうまくいかない状況があれば、伝える側、受け取る側、コミュニケーションの場面(環境)すべてに改善の余地があるわけです。

コミュニケーションはすべての人にとって楽しいものでないといけないですし、そのとり方や様式は人によって多様であるべきです。ただ、コミュニケーションに求めるものはその人その人によって異なりますし、こちらが押し付けるものではありません。

距離感の近い人もいれば遠い人もいるし、積極的にことばでのやりとりを好む人もいればその逆も。この問題は万人共通で、発達障害だから特別ということではありません。

コミュニケーションは教えるもの?

以前、とある支援学校での自閉症スペクトラム障害への生徒に対する取り組みについて、お話をうかがう機会がありました。生徒たちの将来的な校外での実習に備えて、仕事で実施した内容を上司に報告するスキルを身につけるために、作業学習場面で実施内容を先生に報告するというコミュニケーション行動を取り入れたそうです。

その支援学校の先生は、「すごいね! がんばったね!」と言語賞賛をガンガン取り入れて(ちょっとしつこいくらいに)生徒にフィードバックしていました。そうしたほうが生徒たちが喜んで報告してくれて、行動の定着につながると考えたわけですね。

結果、実際何人かの生徒は目論見通りとなりましたが、何人かは真逆の結果となりました。

この真逆の結果を示した生徒に対してこの先生が素敵だったのは、「こいつは報告できないやつ!」とレッテルを貼るようなことはせずに、「もしかして、私の考え(絵に描いたように褒めた方が本人が喜んで報告する)が当てはまらなかったのかな?」と考えて、「すごいね!」とあからさまに褒めるのをやめて、「わかったよ」とあっさりかつ淡々と報告を受け取り、その後のレクリエーションにするっと移動させるようにしたことです。

すると、その数人の子どもたちはさらっと報告することができるようになったそうです。

誰しも密な関わりが好きなわけではなく、暑苦しいのは嫌いという人も(むしろ)多いわけで、このあたりの好みは障害の有無と関係ないですよね。

コミュニケーションは問答無用に人に合わせるものでも相手を自分に合わせさせるものでもなく、その状況や落としどころを考えて、一緒にすり合わせるものだし、そのプロセスをいかに一緒に納得して構築するかが大事なんです。

「発達障害は○○だから」が独り歩きすると、コミュニケーションの本質を崩しかねません。特性に関係なく、嫌なものは嫌だし、好きなものは好き。診断名にばかりこだわらず、その子ども本人と向き合うことが大事です。

コミュニケーションは誰のため?

もう少しコミュニケーションの根幹について皆さんと一緒に考えていきたいと思います。仮に次のようなシチュエーションに置かれた場合、あなたならどうしますか?

【設定】
あなたはとある放課後等デイサービス(障害のある小中高生が通う福祉施設)に勤務しています。そこで無発語で肢体不自由の生徒(15歳)を担当することになりました。

前提として、その生徒がこちらの言っていることをどれくらい理解できているかわかりません。ただ、接しているうちに「どうも結構わかっていることがあるぞ」「おしゃべりは難しいがスイッチを押すことはできそうだ」とわかってきました。そこで、あなたはVOCA(携帯用会話補助装置)を使って、その生徒がボタンを押して発信できるメッセージを5つ選択することになりました。

さて、あなたなら5つのメッセージに何を選択しますか? メッセージはこちらが自由に選ぶことができます。「おなかすいたよ!」や「遊びに行こうぜ!」といった要求でも、「はい」「いいえ」といった単語でも何でも構いません。

もちろん、詳しい状況や場面によって答えは変わりますし、そもそも「正解」があるものではないと思います。

ともかく、ある若手は「おなかがすいた」「トイレに行きたい」といったものを選んだそうですが、それを上司に見せたときに「このコミュニケーションは(本人にとって)楽しいか?」と言われたそうです。

続いて、「これは本人がとりたいコミュニケーションなのかな? それとも(本人が言ってくれたら)こちらが楽になるコミュニケーションかな?」とも。

いやはや、その通りですよね。もちろん状況によってはこの若手の選択が正しい場合もあります。けれども、この生徒の年齢や状況を鑑みれば、この上司の指摘は適切です。

コミュニケーションの本質

この場合、生徒のいろんな要求が伝わりやすいと助かるのは本人以上に(介助を行う)こちら側であることは明白です。用を足したいといった要求は、いままでも表情や状況から読み取って対応できていたはずです。わざわざ音声出力する必要があるのか、考えるべきですよね。


さらに、これがこの生徒の初めての音声言語を介したコミュニケーションであることの考慮も必要ですよね。「楽しい!」「役に立つ!」がコミュニケーション意欲を高めることになるわけですから、「トイレに行きたい」をその貴重な選択肢に使っていいのでしょうか。上司の指摘を受けて、この若手はがっつり反省することになります。実はこの若手とは私のこと。私の忘れられない失敗の1つです。

発達障害の子どもへのコミュニケーション支援では、支援側が「誰のためのコミュニケーションか」を見誤り、支援側にとってメリットのある反応を成立させることに注目が行きがち(我々のわかる反応を対象に強いる)です。これはそもそもコミュニケーションの本質に反することです。

コミュニケーションはできる限りお互いに楽しいものであり、意味のあるものであり、よりリーズナブル(状況に応じて本人に無理なく簡便)なものであるべきですし、そうでないと続きませんよね。

(川粼 聡大 : 立命館大学教授)