「DA PUMP」脱退から18年。SHINOBUさんの現在をインタビュー

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 1997年にデビューし、メンバーやグループのイメージを新しくしながら、今も人気を維持し続けている「DA PUMP」。デビュー当初は沖縄出身の4人組アイドルとして、「ごきげんだぜっ!〜Nothing But Something〜」「Rhapsody in Blue」「We can’t stop the music」など数々のヒットを飛ばした。そのメンバーの1人だったのがSHINOBU(本名:宮良忍)さん(44)だ。現在は沖縄にある故郷・小浜島で「民宿宮良」を営むSHINOBUさんに会い、現在の仕事や暮らしぶりを聞いた。【前後編の前編。後編から読む

【写真】現在のSHINOBUさんと愛妻、子ども2人の素敵な家族写真

SHINOBUが「民宿」にこだわる理由

「小浜島には2012年に戻ってきたので、この6月に12年目を迎えました。『DA PUMP』を脱退したのは2006年。脱退から小浜島に戻るまでの間は、東京で個人的に曲を作ってライブをして……。まだ東京にいたい気持ちもありました」

 そう本音を明かしたSHINOBUさんが小浜島に戻ったのは「亡くなった母親に呼ばれたから」だという。

「母親は僕の夢を一番応援してくれていたんですけど、僕が16歳で上京する1カ月前に病気で亡くなったんです。両親は僕が小学校1年のときに民宿を始め、母親が中心になって運営し、父親はマリンレジャーのアテンドなどをするかたちでした。

 母親が亡くなった後、父は再婚し、その義理の母が民宿を引き継ぎました。僕は当時まだ『DA PUMP』として活動していたので、たくさんのファンの皆さまが民宿に来てくれました。ですが、義理の母と父親の間でいろいろあり、『民宿宮良』は休業の日が増えていきました。

 それで、いよいよ僕がやらないとダメだな、母親が呼んでるんだな、と思って戻ってきました。僕は5人兄弟の2番目で次男ですけど、年子の兄貴は器械体操選手からブレイクダンスに転向し、東京でスクール開いたりして忙しい生活を送っているので」

「DA PUMP」として活動中も「いずれは小浜島の船の上で三線を弾いて歌ってるだろう」と思っていたSHINOBUさん。「民宿宮良」が提供する海のレジャーで船を操る毎日は、「歌うことはほとんどないけど、当時の思いの通りになったかな?」と笑う。SHINOBUさんは「DA PUMP」のメンバーとして多忙を極めていたときも、数日オフがあれば小浜島へ戻るほど故郷愛、海愛、船愛が強かったのだ。

「今思えば、民宿を継いだ当初は32歳で、若さの勢いでやっていました。採算を度外視して(笑)。それから、1年ごとに新しいお客さんが来て、リピーターさんになってくれて、徐々にドローンでの空撮などのサービスや料金体系を整え、ようやく納得できる形に。今が一番落ち着いて接客できているかな、と思います」

 両親から継いだ「民宿宮良」は、小浜港から車で約5分。オーシャンビューの和洋室もある全4室で、1泊朝食付き8800円(税込み、2泊から)。プライベート感重視の家族経営で、民宿1階の母屋で家族とともに寝起きするSHINOBUさんは、客の朝食の準備や片付け、クルーズのアテンドをする。朝から晩まで“やること”はギッチリだ。

「僕は“民宿の家の子”だったから、民宿運営のだいたいの流れはわかっていました。朝6時に起きて、味噌汁、サラダ、ベーコンエッグ、ウインナー、漬物……などの朝食を嫁と一緒に用意し、8時に提供、お客さんが食事をしている間にその日のアクティビティの準備。お客さんが朝食を終えたら片付け、9時15分に出航して……という流れです。

 お客さんは夕食後、20時から22時半頃までうちのテラスで泡盛を飲みながら、いろんな所から来たゲストさんみんなでひとつのテーブルでおしゃべりする、沖縄ならではの“ゆんたく”を楽しむので、僕がホッとできるのは、15時に海から戻った後に船を洗い、チェックインのお客さんの送迎をして、シャワーを浴びて、お客さんが夕食から帰ってくるまでの30分ぐらい。自分の時間はほぼありません」

 いや〜目が回りそうな忙しさだ。

「DA PUMP」での活動と並ぶほどの達成感

「夜、12時前に布団に入ってからも『オーバーブッキングしていないかな』『あのメッセージへの返事はちゃんとしたかな』などとずっと仕事のことが頭を巡っています(笑)。でも、人が好きだし、話すのも好き、人の喜ぶ顔を見るのが好きだから楽しいですよ。

 そのうえ、去年、念願のクルーザー『AXOPAR(アクソパー)37』を入手したので、毎朝、空を見上げて風向きや風速などをチェックして、ボートカバーを開けながら、今日はあのポイントにゲストさんを連れて行けるな、などと考えるだけでワクワクします。先代の船──僕が20歳の頃に父親と一緒に買った“千里(ちさと)丸”でもシュノーケリングやスキンダイビングを楽しんでいただいていましたが、『AXOPAR37』ではサンセットクルージングも提供できるようになりました。

 子どもの頃から『船になりたい』というのが夢だったほど、僕は船が大好き。『AXOPAR37』の魅力? マニアックすぎて理解してもらえないんじゃないかな(笑)。わかりやすく言うと、スタイリッシュで格好いいですよね! フィンランド製で、『AXOPAR』のオープンタイプは、日本にはまだこの1艘しかないんですよ」

 引き渡しを受けてからまだ1年とはいえ、新品のようにピッカピカ。SHINOBUさんがいかに大切にしているかがよくわかる。2年前、クラウドファンディングを成功させ購入。“SEAEL(シーエル)12”と名付けた。

「『AXOPAR37』は4000万円近くするので、自分1人の力で手に入れるのは難しい。友人や知人、お客さんらが協力してくれて、期限ギリギリで成功しました。周りが『やっぱり無理だよ』と焦っても、僕はきっと成功する! と全然心配していませんでした。それまで10年、民宿経営で手を抜かずにコツコツ積み重ねてきたことが結果に繋がる、と信じていました。クラファンの達成は、僕の人生にとっては、『DA PUMP』で活動できたことと並ぶ大きな出来事でしたね」

 それだけ、「民宿宮良」とSHINOBUさんが周りの人たちに応援されている、ということだ。

「最初はファンの子がいっぱい来てくれました。今はありがたいことに、ほぼ1年中、リピーターの方で予約がいっぱい。繁忙期は5〜10月で、12〜1月は比較的落ち着きますが、冬には冬の楽しみ方があるので、お客さんは1年を通して遊びに来てくれます。

 お客さんはがんばって働いたお金でここまで来てくれるわけだから、今回来てくれたお客さんが『次も来たい』と思ってもらえるかどうか。1日1日が勝負だと、つねに危機感をもってやっています。この感覚は芸能界にいたときに身についたんだと思いますね」

 毎日変わる美しい海の色を見ながら、客の温かい支えを強く感じて、忙しく仕事ができていることが幸せだというSHINOBUさん。

「民宿をやっていなかったら、今ごろ何をやっていたかな、と思いますね」

 後編では東京出身の妻との出会い、年1回上京して音楽活動をする理由、現在も連絡を取っている「DA PUMP」のメンバーなどについて語っている。

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◆取材・文・撮影/中野裕子(ジャーナリスト)