「アイルトン・セナほど人間的な魅力にあふれるドライバーはいない」F1カメラマン・熱田護の心残りは「独占写真のフィルムを盗まれ...」
アイルトン・セナ没後30年 特別企画
F1フォトグラファー・熱田護 インタビュー前編
1994年5月1日、F1レーサーのアイルトン・セナはレース中の事故により34歳でこの世を去った。没後30年の節目に、セナのメモリアル写真集『Ayrton』(5月31日発売)を上梓するF1フォトグラファーの熱田護氏にインタビュー。
熱田氏は「モータースポーツのカメラマンとしてセナを撮ることができた時間は自分の宝物」と語る。F1取材歴500戦を超える日本を代表するカメラマンの目に映った、セナの魅力とは?
熱田護氏が撮影した1991年アメリカGP。アイルトン・セナがアラン・プロストを従えて先頭を走る
熱田護 僕は2輪のカメラマンとしてキャリアをスタートさせました。F1を最初に撮影したのは1987年の日本GP。当時所属していた写真事務所が鈴鹿サーキットから仕事を受けて、同僚のカメラマンとふたりで日本GPを撮影に行きました。
その時にロータス・ホンダをドライブしていたアイルトン・セナを初めて撮影しましたが、とくに感じることはありませんでした。
その後も2輪をメインに活動していたのですが、1991年にF1と2輪のレースを半分ずつ撮影し、1992年からF1に専念して本格的にサーキットを転戦し始めました。
初めての海外レースは1991年シーズンの開幕戦、アリゾナ州フェニックスで開催されたアメリカGP。そこで勝ったのが当時マクラーレン・ホンダに乗っていたセナでした。ポール・トゥ・ウインの圧勝劇だったのですが、セナはパルクフェルメ(車両保管所)でめちゃくちゃ喜んでいました。
当時のセナは、すでに2度チャンピオンを獲得していますし、ビックネームです。それまで取材していた2輪の世界選手権では、チャンピオン経験者は年間タイトル獲得が決まったら大喜びしますが、レースで1回勝ったくらいでは喜びの表情をあらわにしません。
セナはまったく違いました。ビックネームなのに、なぜ開幕戦で優勝したくらいでこんなにも喜んでいるのだろう? そう疑問に感じ、すごく興味が湧きました。
僕は2輪のレースを撮影していた時から、誰か核になる選手を決めてシーズンを追いかけていくスタイルをとっています。そうじゃないと飽きてしまうからです。たとえば、今ではフェルナンド・アロンソやマックス・フェルスタッペンを追いかけながら撮っています。
セナに興味を持ち始め、ガレージの前で何度か撮っていると、カッコいいし、速いし、どんどん勝利を重ねていきます。結局、セナは1991年、ウイリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルと激しいタイトル争いの末、自身3度目のドライバーズタイトルを獲得します。
僕はシーズン後半には「セナを追いかけよう!」と決めました。それから彼が亡くなるまで夢中になってセナの写真を撮り続けました。
セナへの愛を語ったF1フォトグラファーの熱田氏 photo by Igarashi Kazuhiro
でも、ホンダが1992年シーズン限りで撤退したあとは、セナにとって苦しいレースが続きました。1993年のマクラーレン・フォードはすごく遅かった。
今、あらためて調べてみると、ほとんどのレースで予選ではウイリアムズ・ルノーのアラン・プロストがポールポジションをとっていますが、セナは頑張ってもプロストのチームメイトだったデイモン・ヒルのうしろ3番手がやっと。しかも予選タイムはプロストよりも1秒半〜2秒くらい遅かった。
にもかかわらず、セナは1993年に5勝を挙げます。非力なマシンで限界ギリギリに挑んで勝利する、あのころのセナはすごかった。現代のF1でもドライバーたちは一生懸命に戦っていると思いますが、なかなか必死さが伝わってきません。でも当時はコクピットのなかのドライバーたちの気迫が見えたんです。
1993年シーズン、雨がらみのレースやウイリアムズ陣営がミスをした時、セナの走りから何がなんでも勝ってやるという執念を感じました。そういうすごい走りを何度も見せてくれたので、ますますセナに惹かれていきました。
セナは1994年、念願だったウイリアムズに移籍します。3年ぶりのチャンピオン獲得ができるかもしれないと僕もすごく期待が高まりました。
セナがウイリアムズのマシンに乗っているところを少しでも早く撮影したくて、開幕前にポルトガルのエストリル・サーキットで開催されたテストにも取材に行きました。
ところがシーズンが始まると、開幕戦のブラジルGP、日本のTIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)で開催された第2戦パシフィックGPもポールポジションはとったものの、ともにリタイアに終わります。そして第3戦のサンマリノGPを迎えます。
セナはイモラ・サーキットで開催されたサンマリノGPでもポールポジションを獲得し、トップを走ったまま逝ってしまった。その劇的な最期ゆえに、世界中の多くの人の心に今もセナが刻み込まれているのだと思います。
僕自身、セナがひたむきに勝利を追求する姿に心をわしづかみにされました。ブラジルからヨーロッパに出てきて、人種差別に負けず、自分が勝つために必死になって戦っていました。
そんなセナのことを「エゴイストだ」「自分のことしか考えていない」などと当時から悪く言う人は少なからずいました。でも、周囲の空気を気にせず、純粋に勝利を求める姿はカッコいいと僕は感じました。
【カメラマン人生最大の心残り】僕はセナのキャリアの最初から最後までを撮れたわけではありません。わずか3年半くらいしか追いかけることができませんでしたが、モータースポーツのプロカメラマンとしてセナを撮影できた期間は自分の大切な大切な宝物です。
セナの写真に関して、自分のカメラマン人生で最大の心残りがあります。1993年のイギリスGPの決勝前に思いがけない場面に遭遇し、その瞬間を記録することができました。
当時は日曜の午前中にウォームアップ走行が設けられており、そのセッション前に僕はピットロードをプラプラと歩いていました。するとマクラーレンのセナのガレージのなかに小さな男の子と女の子がいたんです。
おそらくセナの親族だと思いますが、子どもがふたりできゃっきゃとはしゃいでいるので、何をしているんだろうなあと見ていました。するとレーシングスーツ姿のセナがやって来て、子どもたちと笑顔で話し始めました。いい雰囲気だなと思ってガレージのなかに入り、シャッターを切りました。
そしたらセナ自ら、いい写真を撮れるようにいろいろとセッティングしてくれたのです。クルマがきちんと映る場所に移動し、自分のヘルメットを女の子にかぶせて、3人のカメラ目線のカットも撮ることができました。
ガレージのなかにカメラマンは僕しかいなかったので独占写真です。ファミリーと接する素顔のセナや、子どもを前にした優しい表情を僕だけが撮れたのです。
ところが撮影したフィルムを当時契約していた出版社の編集者が盗まれてしまい、その作品を世の中に発表できなかった。僕のカメラマン人生で一番残念な出来事です。30年以上も前のことですが、今でも心残りです。
【人間的な魅力にあふれる無二のドライバー】ドライバーの能力だけで言えば、セナはフェルスタッペンに負けているかもしれません。体力的にも当時のライバルだったプロストやマンセルに比べて劣っていたと思います。
でもヘロヘロになってマシンから出られないという姿も絵になりました。時代もあったと思いますが、悲壮感の漂う表情で、ひたむきにマシンを走らせている姿が魅力的に映りました。
2024年はセナがこの世を去ってから30年の節目を迎えるので、メモリアル写真集『Ayrton』を発売することになりました。そのために当時のポジフィルムを見直しましたが、あらためてカッコいいなと思いました。
セナが亡くなったあと、カメラマンとして心から夢中になれるドライバーは出てきていません。
ルックスだけで言えば、キミ・ライコネンやシャルル・ルクレールなど、セナよりもカッコいいドライバーはいます。でも、セナのような速さとひたむきさ、勝利にこだわる執念などを兼ね備え、人間的な魅力にあふれるドライバーはいません。
セナは唯一無二の存在でした。
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【プロフィール】
熱田 護 あつた・まもる
1963年、三重県鈴鹿市生まれ。2輪の世界GPを転戦したのち、1991年よりフリーカメラマンとしてF1の撮影を開始。取材500戦を超える日本を代表するF1カメラマンのひとり。5月31日にアイルトン・セナのメモリアル写真集『Ayrton』(インプレス/36,000円)を発売予定。専用ケース入りの大型写真集で999部の限定販売。