ミステリアスな古代ローマの地下回廊(写真:筆者撮影)

ポルトガルの首都リスボン。大西洋に注ぐテージョ川の河畔に広がる美しい都は、いつも多くの観光客で賑わっている。

実はこの街には、観光客はもちろん市民にすらあまり知られていない「秘密」がある。それは、旧市街の地下に潜む2000年前に建築された古代ローマ時代の地下回廊(クリプトポルティコ)という遺跡の存在だ。

チケットは発売と同時に完売

毎日大勢が行き交う場所なのに、ほとんどの人が足元の遺跡の存在を知らないのは、地下に行くための扉がいつもは閉鎖されているからだ。

だが、地下回廊は年に2回だけ一般公開されている。この知る人ぞ知るツアーは近年、リスボンの密かな人気アトラクションとなっており、チケットは発売と同時に完売してしまう。

今回、世界100カ国以上の現地在住日本人ライターの集まり「海外書き人クラブ」の会員である筆者は、初の日本メディアとして一般客の入場前に内部を案内してもらった。その内部を紹介しよう。


目の前の凱旋門をくぐるとコメルシオ広場、さらにテージョ川へと続く(写真:筆者撮影)※写真はiPhoneの長時間露光で撮影

「ガレリアス・ロマーナス(Galerias Romanas)」と呼ばれるリスボンの地下回廊遺跡への扉が開かれるのは、毎年春の「国際記念物・遺跡の日」と、秋の「ヨーロッパ文化遺産の日」前後の3日間。2023年秋、筆者は一般公開に先駆けて内部を案内してくれるというリスボン美術館のディレクター、 ジョアナ・サウザ・モンテイロさん(52)と待ち合わせた。

入り口は車の走る通りにある「穴」

指定された待ち合わせ場所は、テージョ川に向かって開かれているリスボンきっての観光地、コメルシオ広場から歩いてすぐの交差点。歩行者はもちろん、車、トゥクトゥク(3輪タクシー)、さらにはリスボン名物の黄色い路面電車が、絶え間なく行き交っている。

とはいえ、そこには「地下への入り口」らしきものが見当たらない。「本当にここでいいのかな?」と不安になり始めたところ、道の真ん中に置かれたオレンジ色のカラーコーンが目に入った。道路工事現場などで「立ち入り禁止」を示すあれだ。


車も入り口ギリギリを通り過ぎていく(写真:筆者撮影)

カラーコーン付近でマンホールのような「フタ」を2人の男性が動かしている。どうやらそこが古代ローマ遺跡への入り口らしい。覗き込むと、地下へと階段が続いている。

そのうちにジョアナさんが登場。笑顔のすてきな女性だ。テキパキと地下へと先導してくれるのだが、階段を降り始めると頭のすぐわきを車が走り抜ける。目を丸くする筆者に「一般公開前には、車の通行を禁止するわ」と苦笑い。

それにしても、こんなにぎやかな通りの地下にリスボンで最も古い遺跡の1つが残っているなんて、誰が想像するだろうか。


地下へと案内してくれるリスボン美術館のジョアナさん(写真:筆者撮影)

いよいよ2000年前の回廊へ

急な階段を降りると、ライトで照らされた薄暗いトンネルのような通路に出た。これが2000年前に作られた回廊だという。地上から4.5メートルほど潜ったらしい。アーチ型の天井の回廊の高さは一部を除いて3.5メートル程度。幅は約2.3メートルで、大人2人が横並びで歩くには十分な広さで、圧迫感はない。

回廊の全長は約18メートル。並行に通る3本の回廊と、それらと交差する2本の回廊で構成されている。一般公開時には同時に75人ぐらいが3グループに分かれて見学するそうだ。1日に合計約850人がこの場所を訪れる。

薄暗い地下はひんやりしているのかと思いきや、肌寒かった外に比べてかなり蒸し暑い。ジョアンさんは「湿度が高いのは、いつもはこのあたりまで水があるからよ」と地面から1メートルほどを示した。一般公開日の前にだけ、1週間かけて排水するそうだ。

確かに床は濡れていて、あちこちに排水用のゴムホースが這っている。回廊の奥にはかなりの水が溜まっている。雨が入ってくるのかと尋ねると、「壁面の亀裂から常に地下水が流れ込んできているの」と言う。


天井に走る亀裂。亀裂の状態や入り込む水量に変化がないかは美術館の管理のもと精密にモニタリングされている(写真:筆者撮影)

この亀裂がいつ、どうして入ったのかは不明だが、遺跡として回廊が発見されたときには、すでに浸水していたそうだ。

遺跡が発見されたのは、今から約250年前のこと。

当時のリスボンでは1755年に起きたリスボン大地震の復興作業が続いていた。それまで華麗な交易都市として名を馳せていたリスボンの街は、地震と津波、火災により廃墟と化し、再建には20年を要したそうだ。下町のプラタ通りで再建工事に着手したところ、遺跡が姿を現した。


大地震前のリスボンを再現した模型の写真上で示された遺跡の位置。遺跡近くの王宮は地震で崩壊し、跡地はコメルシオ広場となった(写真:筆者撮影)

古代ローマ時代の回廊が残る理由

「この遺跡が完成したのは、紀元1世紀ごろね。アウグストゥス帝率いる古代ローマ帝国の支配下だった頃よ」とジョアナさん。 

その根拠は、壁の形状と、建築材料にローマンコンクリート(古代コンクリート)が使われていることだ。ローマンコンクリートはこの時代にだけ利用された火山灰を混ぜ合わせた水硬性セメントで、現代のコンクリートは寿命が100年ほどなのに、2000年以上経った今でも構造を保つほど耐久性に優れている。


公衆浴場だと考えられていた頃の遺跡の再構成図(写真:筆者撮影)

いつ、誰がこの地下回廊を作ったのかは比較的早い段階で判明したが、その使い道については長く議論されてきた。

考古学者や歴史家たちの間でも「貯水施設では?」「いや、水道管として建造されたものではないか」と、さまざまな意見が交わされたが、最も有力だったのは公衆浴場である。遺跡内から公衆浴場に祀られることの多いギリシャの医神、アスクレーピオスに捧げた碑文が見つかったからだ。

現在は国の重要文化遺産となっている地下回廊だが、発見から200年近くは文化財として保護されてきたというよりも、人々の生活の一部として親しまれていた。

19世紀頃には、市民が地上から遺跡の天井をぶち抜く穴を開け、井戸として使っていた。また19世紀後半には医神アスクレーピオスの縁からか「病を治す奇跡の水」という噂が流れ、市外からもご利益を求める人々が集まったそうだ。20世紀初頭になると「プラタ通りの水の缶詰(Conservas de Agua da Rua da Prata)」の愛称が付き、貯水槽として利用されたという。

今も地下回廊は利用されていた


完成当初は浸水していなかったと考えられている(写真:筆者撮影)

このように地下回廊は長いこと「水を使う何らかの施設」と捉えられてきた。発見時からずっと水に浸されてきたのだから無理もない。だが、研究が進んだ現在、この地下回廊は水を使うというよりも、むしろ水から守る「地上の建物を支える土台」として建造されたとの考え方が支持されている。

1世紀当時のリスボンは、すでに人口が3万〜4万人ほどの当時としては大都市で、ローマ帝国からは「オリシポ」という名で呼ばれていた。中心地のローマからは遠いものの、テージョ川河畔にあるオリシポは、各地から物資や人々が集まる港町として繁栄したそうだ。

「すべての道はローマに通ず」ということわざがあるように、古代ローマ帝国といえば「ローマ街道」、つまり陸路が有名だが、実は河川も高速道路として重要な役割を果たしていたのである。

しかし、テージョ川河畔の湿った土地は地盤として頼りなく、何を建てるにしても建築物が傾いたり、地盤沈下したりする恐れがあった。そこで古代ローマの建築家たちは、地下にローマンコンクリートの回廊を設けることで、強固で水平な地盤整備を実現したのだ。

地上には巨大な施設が建築されたはずだが、すでにその名残はない。歴史家たちは、港町オリシポの交易をサポートする複数の公共施設があったと推測している。商人たちの集会場(フォーラム)や市場、また公共浴場もあったかもしれない。

そうだとしたら、地下回廊自体は特産品の陶器に入った穀物、オリーブオイル、ガルム(帝国エリート層に珍重された魚醤の一種)などの保管庫としても利用されていたはずだ。


階段を上ると2000年後の都市が広がっている(写真:筆者撮影)

「何がすごいって、この2000年以上前に作られた基盤が、今もリスボンの下町の通りを支えているってことよ!」とジョアナさん。古代ローマ人もまさか何世紀もあとに、この建築物が路面電車や車、また世界中の観光客を支える足場になるとは想像もしなかっただろう。

現存する遺跡の3分の1程度

ジョアナさんは「何層にも重なるリスボンの歴史に魅了される」というが、言葉通り、重なり合う21世紀と1世紀の建築物を階段で行き来できるところも面白い。ちなみに見学可能な部分は、現存する遺跡の3分の1程度と考えられており、現在も発掘は続いている。

一般公開は80年代から始まっているが、人気は高く、販売開始後すぐに完売してしまう。年に2回にとどめているのは、何百年も水に浸っていたローマンコンクリートが湿度の変化にどう反応するか予測不能なため、長期間一般公開するのは難しいからだそうだ。

チケットはリスボン美術館のサイトから購入可能。価格は1人3ユーロ。学生グループは無料だ。競争率は高いが、興味のある人はトライしてみてはどうだろうか。

※リスボン美術館(Museu de Lisboa)のウェブサイトはこちら

(東 リカ(海外書き人クラブ) : ポルトガル在住ライター)