「関ヶ原・山中の戦い」なぜ小早川秀秋は「逡巡して裏切った」汚名を着せられたのか
関ヶ原・山中の戦いの「決戦地」(写真・AC)
小早川秀秋という人物については、実際に会ったことのある藤原惺窩(ふじわらせいか)が「大体、その性格が軽薄で、感情の起伏が激しく、その兄たちに及ばぬこと甚だ遠い」(姜𦫿・朴鐘鳴訳注『看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記』平凡社、1984年)と酷評しているけれども、彼の去就は事前の黒田長政や浅野長政らによる働きかけによって入念に決定されていたことが笠谷和比古氏(『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』講談社学術文庫、2008年)によって指摘されており、また最近は秀秋の軍勢が9月15日の本戦の初期段階から旗幟を鮮明にして行動していたと明らかにされている(白峰旬『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』宮帯出版社、2014年)。
それでも、秀秋がどこに布陣していたのかは不明のようであり、これまでに検討してきた内容から推すと、秀秋の野心の発覚によって「山中」に布陣していた大谷勢を守る必要性が生じていたことから、山中の付近ということになろう(小池絵千花「関ヶ原合戦の布陣地に関する考察」(『地方史研究』第411号〈第71巻第3号〉2021年6月))。
この山中という場所は、現在は旧中山道(旧東山道)沿いの両側に住宅が建ち並んでいる。小池絵千花氏によると、近世初期にあっては「関原村」と「山中村」があり、《当時は藤下の範囲も含めて「山中」と呼称されていた可能性が高い》という(小池絵千花「関ヶ原合戦の布陣地に関する考察」)。
戦における双方の軍勢の人数は「慶長五年十月八日付秋田実季宛最上義光書状」では大坂方が「十二萬ほと」、家康方は「八萬ほと」とされる(秋田家文書「一 最上義光書状(切紙)」(山形県編『山形県史』史料編十五上・古代中世史料一、山形県、1977年))。
「慶長五年八月二十九日付黒河内長三宛保科正光書状」では徳川方について「御味方の人数着到七万の積御座候」とし、大垣城の籠城勢については「大柿(大垣)ニ篭もり候人数弐万余これ有り候由申し候」としていたから、最上義光のいう徳川方の人数はほぼ正確ないっぽう、大坂方の12万人は多過ぎるように思われる(『保科御事歴』巻之二所収「慶長五年八月二十九日付黒河内長三宛保科正光書状」(信濃史料刊行会編『新編信濃史料叢書』第二巻、信濃史料刊行会、1972年))。
近衛前久の書状を読解・分析した藤井讓治氏は、徳川方の福島正則らの軍勢も上方のそれと表記されて4万ばかりとあることのほか、「上方ヨリ出陣の人数五万ばかりのうち四五千も討死した」との表現を見出している(『近世初期政治史研究』岩波書店、2022年)。
だとすれば、家康の本隊の数を算入すれば、双方は数でほぼ互角か、やや徳川方が優勢であったことになり、徳川方が豊臣系大名の力に依存したことは相違ないとしても、辛うじて勝利したということではなく、最初から徳川方が指揮者の能力や戦術、軍勢の人数において優勢であったということになるのではなかろうか。
■過小評価される小早川秀秋
慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原・山中の戦いについて、同日の未明に山中において小早川秀秋勢が大谷吉継勢を撃破し、そのまま午前7時頃から午前11時頃までの間、秀秋勢などが関ヶ原へと向かい、福島正則勢を先手とする家康方と合流する形で大坂方を押し崩すという戦況であったとすると、家康方は圧倒的に優勢であったといえる。
それでは、なぜ従来いわれてきたような、家康方と大坂方がほぼ互角で交戦中、秀秋勢の去就は定まらず、家康からの催促を受けてようやく秀秋勢が大坂方に雪崩れ込み、勝敗が決したという合戦像は必要とされたのであろうか。
これは私見だが、9月15日の未明に山中で秀秋勢が当初から行動し、吉継勢を攻略ないしは圧服していたとしたら、合戦における戦功第一は小早川秀秋となるのではなかろうか。
その初動があれば、視界と天候が不良の中にあっても、家康方は山中における鬨(とき)の声を聞いたであろうし、秀秋勢に脇坂安治ら4名の軍勢も加われば、福島正則勢などが動き出す前に関ヶ原の大坂方は動揺したに相違ない。そこへ正則勢なども突撃すれば、兵粮不足のうえに身体も冷え切っていた大坂方はかなり苦しかったであろう。
すなわち、このような山中での戦闘とそれを主導した小早川秀秋を過小評価しなければならない事情があったのではないかということである。
秀秋はかつて羽柴秀俊として秀吉の養子とされていた人物であり、北政所の出自木下家の一族である。だから、家康方にとって、秀秋勢の加勢は、三成ら大坂方に対する論理的対抗の面でも重要であった。
しかし、合戦の全体像が正確に伝承されることは、たとえ家康の勝利に相違なくとも、そのような家康の政治的正当性の一部をも担う秀秋の存在を際立たせ、また徳川家の劇的勝利というよりは、豊臣一族の戦いの様相を合戦に帯びさせるおそれもあった。
だから、秀秋には合戦の伝承においてぎりぎりまで逡巡した挙げ句に裏切ったという不名誉な位置が与えられ、しかもその秀秋の逡巡を必要とするため、合戦は互角でなければならなかったのではないかと私は考えている。
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以上、野村玄氏の近刊『新説 徳川家康:後半生の戦略と決断』(光文社新書)をもとに再構成しました。一次史料を丹念にたどり、通説や俗説を排して、家康が直面した後半生を描きます。
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