アメリカ司法省から訴えられ、職を失った男性の9年間の闘いとは……(写真:TK/PIXTA)

日本のビジネスパーソンが日本以外の国から訴えられる――。これは中国やロシアでの出来事ではない。

アメリカの司法当局に起訴されながら、9年間にわたって個人で当局と粘り強く交渉し、起訴取り消しを勝ち取った男性がいる。オランダの投資銀行でマネージングディレクターを務めていた本村哲也さん(51)だ。

なぜ彼は起訴されたのか、そしてどうやって起訴を取り消しまでもっていけたのか、話を聞いた。

個人も積極的に起訴するアメリカ

アメリカの司法当局は不正に関わった企業のみならず、従業員個人も積極的に起訴する姿勢を鮮明にしている。企業への責任を問うのと同時に、個人への責任追及を強化することで摘発を当局の有利に進めるためだ。

本村さんは敏腕トレーダーとして名を馳せ、東京支店のマネージャーにまで上りつめ、充実した日々を送っていた。

ところが2012年、本村さんの所属先を含む複数の投資銀行が絡んだ“ある事件”が注目を集める。イギリス・ロンドンの銀行間金利、いわゆるLIBOR(ライボー)を操作したとして、電信詐欺などの容疑でアメリカ、イギリスの両司法当局が捜査に乗り出したのだ。

LIBORはドル、ポンド、円など5つの通貨の銀行間取引金利の平均値を算出したもので、国際的な金利指標だった。世界各国の住宅ローンなどの各種ローン、金融派生商品にも影響を及ぼしていた。

2007〜2008年の金融危機では、各国の金利は上昇傾向にあった。そうしたなかで、LIBOR算出のために各国の銀行が提示する金利が低めに操作されていた疑いが浮上した。


LIBORの問題を取り上げた記事(写真:編集部撮影)

銀行にとって金利が低ければ、債権者への金利支払いは少なくて済む。各国の司法当局は、信用力の低下を覆い隠そうとする行為だったなどと指摘して本格捜査に乗り出した。

本件に関わったとされる投資銀行は、アメリカ司法省との「司法取引」に応じ、多額の罰金を支払った。

司法取引は、有罪を認めて事件についての情報を申告すれば罪刑が軽減されるという制度だ。司法当局からすれば捜査情報が引き出しやすいというメリットがあるが、申告者が自身の刑を軽くしようと組織や同僚を“売る”ケースが目立つ。日本でも「捜査・公判協力型」と呼ばれる司法取引制度が2018年から導入されている。

本村さんは所属する銀行の内部調査を受けた。一貫して容疑について事実無根だと主張し続けた。それには起訴取り下げの確証となった裏付けがあったからだ。

1本の通話記録が証拠に

しかし、アメリカ司法省が被疑事実として示した証拠に、本村さんは驚愕した。それは取引先の担当者との電話の通話記録だった。

内容は取引先と親睦を深めるためのサバイバルゲームに関する、たわいもないやりとりだったが、アメリカ司法省はこれを強引に解釈、被疑事実にあたる証拠だとして、本村さん個人を訴追した。

「アメリカ司法省が依拠していた証拠自体(取引先との電話通話記録)がそもそも無理筋、でっち上げともいえるもの」(本村さん)

その通話記録が以下である。

A:Motomura speaking.
B:Hi boss, sorry, this is Iketani of**(社名)
A:Sure,sure.
B:So Hedge Fund Sales is saying that he wants to go.
A:Hedge Fund Sales wants to go?
B:Yes.
A:Um… oh,the game?
B:Yes.
A:Ahhh…sure,no problem.

このやり取りは、A(本村さん)とB(取引先担当者)の間で交わされたものだ。当初、本村さんは何の話なのかがわからなかった。途中から、取引先の担当者に参加を呼びかけたサバイバルゲームについて相手が話していると認識したことが、見てとれる。

しかし、アメリカ司法省の検察官は、この通話記録の中にある“wants to go”や”the game”という表現を怪しみ、不正操作と関わっているのではないかと考えたようだ。

司法取引に応じた会社側は、最終的に多額の罰金を支払い、早々に事件の幕引きを図った。

「会社側に対する捜査について、できる限り協力し続けていたのに、会社側は当局との司法取引が成立して罰金が決まったら、社員である個人への補償はできないという態度を明確にしてきた」(本村さん)

アメリカ司法省は司法取引を会社側に持ちかけ、その見返りとして、本村さんが“不正に関与した可能性が高い社員である”と当局に証言した可能性があったという。そして会社側はさらなる行動に出る。

本村さんはLIBOR操作に関わったとして、会社から退職勧告を言い渡された。オランダの本店も一目置く敏腕トレーダーは、無実にもかかわらず職を失った。理不尽な現状にただただ呆然としたという。

本村さんは日本での生活に失望し、家族とシンガポールに移住した。日本から抜け出したかったという。

「日本にいるのがやっぱりちょっとしんどくて、逃げたい気持ちもあって。家族も突然異国に行かなければいけないとか、なかなか現地での生活に慣れないとか、本当にいろいろな問題があるなかで、次の仕事、収入源を探さなければいけないという焦りがあった」(本村さん)

そんな矢先、朗報が舞い込む。

シンガポールに拠点を移すものの

シンガポールでファンドを運営している日本人男性から誘われ、役員として参加することになったのだ。収入源をひとまず確保でき、心底安堵したという。

しかし、安定した日々は長くは続かなかった。アメリカ司法省がLIBOR事件に関与したとして、本村さんに「訴追請求」を出したのだ。そこからさらなる悲劇が始まった。

訴追請求を受けたことでシンガポールの会社からも退職勧奨され、またも職を失った本村さんは、家族を連れてふたたび日本に帰国する。定職のないまま、アメリカの捜査の手におびえる日々を過ごすようになった。東京近郊の実家に身を潜めるようにして暮らしていたという。

妻も精神的にまいってしまった。何より幼かった子どもたちにも心配をかけてしまい、本村さんは「心底つらかった」と言う。

2014年4月。本村さんのもとに最悪の知らせが舞い込む。担当弁護士からアメリカ司法省がLIBORの操作について、共謀と電信詐欺の疑いで本村さんを起訴したとする事実を知らされたのだ。

「銀行の内部調査にずっと協力していたので、 自分は大丈夫だと思い続けていたら、最後の最後で自分がやられてしまった。どんでん返しですね」

日本にいる本村さんは「逃亡者」と位置づけられた。日本とアメリカの間には犯罪人引き渡し条約が結ばれている。アメリカの引き渡し要請を日本側が受け入れればアメリカに移送され、裁判で有罪となり収監される可能性もあった。

「本当に理不尽としか言いようがない」と本村さん。

絶望的な状況下でも決してあきらめなかった。“とにかく冤罪であることを証明し訴え続けよう――”。9年にわたる長い闘いが始まり、そして起訴の取り下げを勝ち取った。

個人に対する訴追では司法取引に応じるケースも多いなか、本村さんが闘い続けられたのには理由があった。

彼とともに二人三脚でアメリカ司法省に挑んだのは、国際弁護士としての経験が豊富な入江源太弁護士だ。「本村さんにはアメリカ司法省と闘ううえで、アドバンテージがあった」と話す。

「アメリカ司法省相手に互角に闘うことができたのは、細かいニュアンスの解釈も含めて英語のレベルが相当高かったことがまず挙げられます。それとそれなりの貯金がおありになったのも好材料でした」

そして、何よりほかの訴追されたトレーダーの同僚たちも、一部は有罪評決を受けながらも、自らの潔白を粘り強く証明して評決や起訴の取り消しを勝ち取っていたというのも追い風となった。

強引なやり方にはほころびも

そもそも、このようなケースは多いのだろうか。『国際カルテル 狙われる日本企業』(同時代社)の著者でジャーナリストの有吉功一さんが説明する。

「アメリカでは個人の責任追及は特に強化されているし、司法省は裁判になっても負けをいとわない。裁判をしないなら法執行機関ではなく規制当局にすぎないとの信念から、不正の摘発に邁進する考えを強く持っていると見られる」

ただ、アメリカ司法当局の強引なやり方にはほころびも見られる。国際カルテル事件を数多く担当した経験を持つ、井上朗弁護士が説明する。

「伝統的なやり方としては、あやしい案件で証拠物提出令状を送り付けて、服役をちらつかせ、個人を脅し上げて証拠を自主的に出させる。海外にある証拠も含めて収集していく。『誰々と話をした』といった供述を作り込んでいって、協力してくれたら訴追はしないと脅す。しかし、それが最近ではうまくいっていないようだ」

井上弁護士によれば、アメリカ司法当局では国外の証拠が手に入らなくなっており、さらに自首して証拠を開示する企業も減っている。つまり、自国の法律を外国の企業や個人にも適用する「域外適用」による立件が難しくなっているという。

本村さんの場合、アメリカ司法省が強引に集めた証拠が裁判所に認められず、起訴取り消しを勝ち取ることができたのだ。しかし、ここに来るまでに9年もの歳月を要した。

【2024年7月24日10時00分追記】初出時の内容を一部、削除・修正しました。

(一木 悠造 : フリーライター)