一連のジャニーズ問題にみられる日本的な特徴とは?(撮影:尾形文繫)

10月2日開かれたジャニーズ事務所の記者会見で「指名NG記者」のリストが存在していたことが暴かれ、大きな衝撃が走った。その後、リストに載っていた記者たちがそれぞれに遺憾の意などを表明するに至り、賛否両論、様々な意見が飛び交っている。

一方、騒いでいるのはメディアの中の人が主でもある。これまで一連の経緯を眺めていた一般の多くの人々にとっては、「またか」という感想しかなかったのではないだろうか。

多くの日本人にとって「無関係」でない理由

ジャニーズ事務所の問題がこれほどまでに世間を揺るがし、炎上のネタになるのは、大規模な性加害の隠ぺいやマスコミとの癒着といったスキャンダラスな部分もあるが、私たちにとって無関係ではない“普遍的な問題”が底流にあるからだ。

いわば日本社会の病巣が極端な形で、かつ戯画的に表れているからにほかならない。それは、一言でいえば、「集団の硬直性」と「いびつな通過儀礼」である。

「日本社会の組織的特色は、組織とくに機能集団が運命共同体的性格を帯びることである。官庁、学校、企業などの機能集団は、生活共同体であり、運命共同体である」

――これは1980年代に社会学者の小室直樹がすでに指摘していたことである。続けて小室は、各メンバーは、「新しく生まれたかのごとく」この共同体に加入し、加入後は他の共同体への移動が困難になること、やがて各メンバーの全人格を吸収し尽くし、「独自のサブカルチャー」を発生させると述べている(以上、『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』ダイヤモンド社)。

ジャニーズ事務所の問題がわたしたちの感情を逆なでするのは、このような数多の組織にみられる「運命共同体的性格」の弊害を目の当たりにするからだ。

それは、共同体の外部に対する敏感さが失われ、主要な関心のほとんどが内部に集中するようになる事態を指している。そうして「共同体構造は、天然現象のごとく不動のものにみえてくる。共同体における慣行、規範、前例などは意識的改正の対象とはみなされず、あたかも神聖なるもののごとく無批判の遵守が要求される」のである(同上)。

不祥事が次々と起こっても、内部にばかり目が向いているので、まず共同体が求める要請が絶対視され、いかに火の粉を振り払うかに献身することになるのだ。

ちなみに、機能集団とは、ある目的を追求するために結成・形成された集団・組織のことをいい、血縁や地縁によって自然的に成立する基礎集団とは別物とされている。

神聖なるもののごとく無批判の遵守が要求される

ジャニーズ事務所の問題に引き付けると、事務所創設時からささやかれていたジャニー喜多川氏による性加害から、所属タレント(元含む)の取り扱いに関するメディアコントロールに至るまで、「あたかも神聖なるもののごとく無批判の遵守が要求される」事柄であったといえる。


多くのマスメディアがこれまで「運命共同体」だった経緯も(撮影:東洋経済オンライン編集部)

これは事務所と利害関係にあったマスメディアも同様の面があり、もちろん相互依存的なところはあったにせよ、各マスメディアも「運命共同体」と化していたことが想像に難くない。つまり、有力な芸能事務所によるメディア支配とその恩恵が「天然現象のごとく不動のもの」として各マスメディアは受け入れ、誰も「意識的改正の対象」とはみなされなかったのである。

私たちは大なり小なり似たような事例を身近なところで見聞きしているはずだ。たとえば、自動車保険の不正請求問題などで話題になったビッグモーターも、たまたま白日の下にさらされた一例に過ぎない。組織と名が付くものは、最悪の場合、その内部の構造が神聖不可侵とされる力学の中で、外部から見れば「異常」としか言いようのない態度を貫くおそれがある。

理由は明快で、最終的に国が定めた法律や法執行機関などよりも「内部のルール」が優越するからだ。その優越の具体例のバリエーションに数えることができ、しかも共同体のメンバーを強力に結び付ける”接着剤”の役割を果たしているのが「通過儀礼」と呼ばれるものだ。

「通過儀礼」(イニシエーション)は文化人類学で用いられる概念で、結婚や成人など人生の重要な節目において、身分の移り変わりと新しい役目を得る一連の儀礼行為を指す。

通常、分離→過渡→統合の3つのプロセスを経るもので、分離は、現在の状態から離れることを意味する。過渡は、現在の状態から離れたけれども、新たな状態になっていない「カオスの状態」のこと。最後の統合は、新たな状態となってこちらの世界に戻ってくることを意味し、祝祭という形でもてなされる。

外部専門家による再発防止特別チームによる報告書で、元ジャニーズJr.たちは、性被害後に「性加害を受け入れるのが当たり前で通過儀礼だ」「おめでとう」などと仲間たちから言われたと証言していることは、この犁稽薛瓩意味することについて相当に自覚的であったことを裏付けている(調査報告書(公表版))。

このような性行為や暴力を伴う通過儀礼は、文化人類学的には古来からあるものであり、決して珍しいものではない。驚くべきは、現代の日本社会においてジャニー喜多川氏が作り上げたような、芸能集団に仲間入りするためには性被害を避けては通れないといった悪夢的なシステムを、当事者の多くもその周辺の人々も、マスメディアも野放しにしてきたことである。

ここにおいて当事者たちの論理はとても大事だ。通過儀礼における性被害のコストが祝祭(デビューの機会など)のベネフィットに優るのであれば良いとする現実主義もあるだろうが、どちらかといえば重要なのは、厳しい通過儀礼を経験した同じ仲間だから――という一体感の醸成の方である。これは加害の事実とは別個に考えなければならないメカニズムを持つことに注意が必要だ。加えて「あたかも神聖なるもののごとく無批判の遵守が要求される」暗黙のルールであるため、挫折した者はペナルティを負うことが当然視されやすくなる。

いびつな通過儀礼は、身の回りに多数ある

私たちは以上のような構図にデジャヴ(既視感)に近い感慨を抱くのではないだろうか。いびつな通過儀礼は今なおブラック企業、ブラック校則などではお馴染みのものであるからだ。社長や上司による凄まじいパワハラの洗礼、学校の部活動における理不尽なしごきが同じ仲間という意識を植え付ける、その集団特有の通過儀礼として機能している例は枚挙にいとまがない。それを耐え抜けば「一人前」となるのであり、その真意は「正式なメンバーとして認める」ということなのだ。

機能集団が運命共同体となり、トラウマ(心的外傷)的な経験によって強固に結び付く事態は、あまりに自然に進行する。いわゆる「苦楽を共にする」の「苦」の範疇に、緩やかに整合化されていくのだ。

当然去った者、残った者の差異があり、個々の捉え方も多様である。それを単に外野から叩いても根本的な解決にはならない。叩かれることも状況によっては外傷体験となり得るからだ

私たちは、この稀代の騒動を“悪趣味なエンターテインメント”として消費してしまうのではなく、自らの社会の問題でもあることを真摯に受け止めながら、独善的な思考が暴走しないよう事の行く末を見守っていく必要がありそうだ。

(真鍋 厚 : 評論家、著述家)