なぜ家康は秀吉に突然怒ったのか?写真は家康の人形(写真: FINEDESIGN_R / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第42回は、秀吉に仕える中で、幾度となく難事に直面した家康の対応力を分析する。

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いきなり国替えを言い渡した秀吉

小田原征伐において、徳川家康は豊臣秀吉から先鋒を命じられた。家康の領地が北条領に隣接していたためだが、小田原城が落城すると、状況は一変することになる。

家康は秀吉から関東移封を命じられ、これまで統治してきた領地から離れなければならなくなったのである。『三河物語』によると、秀吉は次のように家康に告げたという。

「国替えをなされるなら、関東に替えられよ。いやだとお考えならそれでよい。どうなりともお考えのままだ」

言葉は柔らかいが、権力者の「いやだったらいいよ」という言葉を鵜呑みにしてはいけないのは、今も昔も同じである。

現に織田信雄は小田原城攻めで軍功を挙げて、秀吉から国替えを持ちかけられると、これを拒絶した。尾張の代わりに、家康が領有していた三河などの5カ国があてがわれることになっていたが、父祖伝来の地である尾張を捨てたくなかったのだろう。しかし、自身の意思を貫いた結果、悲劇を招くことになる。

激怒した秀吉は、信雄に改易という重い処分を下す。信雄は、下野国那須(栃木県那須烏山市)へと流されてしまった。

「対応力」で明暗が分かれた信雄と家康

もっとも信雄が国替えに抵抗を示したのは、自身の尾張への思いにこだわったからだけではない。

事前に尾張で国替えの噂が流れると、清洲城下はパニック状態になり、家財道具を持ち出して逃げようとする織田家家臣や町人が相次いだ。そんな事態を受けて、信雄は城下町に番人を置いて「家財道具を持ち出して逃げる者は磔にせよ」と命じたというから、必死である。

国替えは、主君だけではなく、自分に従う者にも大きな負担となる。そのことを思えば、できれば避けたいと考えるのは自然だろう。

だが、家康は国元の動揺を抑えるのに苦心するのがわかっていても、秀吉の対応を見誤ることはなかった。「けっこうです。国替えします」(『三河物語』)と、秀吉の提案をすぐに受け入れている。

「それぞれの要望など聞いていては、全国支配などできないから、自分の思い通りにする」という秀吉の強い意思を、家康は感じ取っていたのだろう。対応力の差で、信雄と家康で、明暗が分かれることとなった。

家康の対応力については、こんな逸話もある。

ついに天下統一を果たした秀吉は、海の向こうの朝鮮半島へと目を向け始めた。明国を征服するため、経由地となる朝鮮に服属を命じたところ、それが拒絶され、二度にわたる朝鮮出兵へと踏み切ることとなる。

1度目の文禄の役(1592〜1593年)では約16万人、2度目の慶長の役(1597〜1598年)では約14万人の兵が動員されるが、戦は膠着状態に。合戦に決着をつけるべく、秀吉自身が朝鮮へと乗り込もうとしている。『徳川実紀』によると、秀吉は鼻息荒く、こう息巻いたという。

「これでは合戦がいつ終わるかわからない。私が自ら30万の大軍を率いて朝鮮へ渡り、前田利家と蒲生氏郷を左右の大将として、3手に分かれて、朝鮮は言うに及ばず、明国にまで攻め入り、異国の者どもをことごとく、皆殺しにしてくれよう」


朝鮮出兵のために築城された名護屋城。写真は跡地(写真: たき / PIXTA)

そして「日本のことは徳川殿がおられれば安心である」とまで言ったという。家康からすれば、当然、無謀な朝鮮出兵は避けたいところ。願ったりかなったりの秀吉の言葉だったが、ここで迂闊に喜ぶ家康ではない。

家康いきなり怒り出し、難事を切り抜ける

かといって「恐れ多い」と謙遜するのもなんだか嘘くさい。家康は「いきなり怒り出す」という戦法で、この場を切り抜けている。

「今異国で戦が起こって殿下(秀吉)が御渡海されるのに、私1人が諸将の後に残り留まり、むなしく日本を守れというのですか。微勢であっても手勢を引き連れ、殿下(秀吉)の御先陣を務めたい」

怒りの感情は、言葉にリアリティをもたせる。「日本を任せる」という秀吉に「たとえ殿下(秀吉)の仰せであっても引き受けがたい」とまで家康は言い切った。まるで野心などないというポーズを見せたのである。

その後、同席していた浅野長政が、家康に同調して秀吉の渡航に反対。しかし、勢い余ったのか、長政が秀吉に「狐と入れ替わっているのでしょう」と暴言を吐いて、場は騒然……。結局、秀吉は朝鮮に渡ることをあきらめて、もちろん、家康が朝鮮に派遣されることもなかった。

実際に朝鮮に攻め入ることなく、やる気だけは巧妙に打ち出した家康。朝鮮出兵によって豊臣政権が弱体化するなか、家康は兵力を温存することができた。このことが、のちのちに効いてくることになる。

そうこうしている間に、家康は新たに拠点とした江戸の整備を着実に進めた。埋め立てや運河の開削などの大土木事業を適切、かつ迅速に行っている。

急な国替えは、家康の勢いをおそれた秀吉の策略だった……という見方がなされてきたが、その一方で、江戸が水運・海運・陸運の要衝だと見抜いた秀吉が、期待をもって家康に関東を任せた……ともいわれている。

左遷か、栄転か――。読めない秀吉の腹を探ったところで、やるべきことは何も変わらない。状況を受け入れたら、後は動くのみだ。国替えに伴う迅速な引っ越しをみて、秀吉は「いまに始まったことではないが、家康の指図は迅速である」(『徳川実紀』)と感心したという。

秀吉亡き後にどのように振る舞うべきか

結局、明や朝鮮の征服は叶わず、1598年にピリオドが打たれることとなる。その年に、秀吉が病死したため、プロジェクト自体が立ち消えとなった。

秀吉亡きあとの世で、どのように振る舞うべきだろうか――。もはや自分を従わせる相手はいない。家康は豊臣政権内において、これまでとはまたまったく違う「対応力」を見せるのであった。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)

(真山 知幸 : 著述家)