●船上で高速通信が必要となる“意外”なワケ

今からほんの少し前、というとあまりにも茫洋としていて担当編集者さんに「テックメディアなんですから明確にしてください」と叱られてしまうので、2022年12月中旬、筆者は“とあるお仕事的事情”から、オーストラリアのシドニーからメルボルンまで客船「クイーン・エリザベス」に乗船する機会を得ることができました。

「海の上ならさすがに常時接続できるブロードバンドネットワークが使えないから公的私的含めて諸々のしがらみから解放されたでしょう。いやぁ、うらやましいですなあ」とはけっこう多くの人から言われましたが、21世紀の今、そんなことは全くなかったりします。

この記事では、洋上におけるネットワーク接続の現状をレポートするとともに、今回のお仕事的事情の主目的であった「船旅」においてこの2〜3年で急速に進化したデジタル技術の利活用状況についても紹介していきましょう。

今回、洋上ネットワーク利活用の検証する場となった「クイーン・エリザベス」をシドニー湾に臨む。背景右にあるのがSydney Opera Houseで左に見えるのがSydney Harbour Bridgeだ

○「船旅はネットから解放される貴重な機会」は過去のこと

Starlinkのおかげもあって、衛星通信を使ったネットワーク接続の認知がこのところ急速に高まった感があります。

衛星通信を使ったデータ通信というとインマルサットやイリジウムが長らく主流でした。しかし、あまりにも長い期間使われていた影響もあってか、衛星通信を使ったデータ通信は遅い! というイメージがまだまだ強いようです。サイズと利用料金的に最も簡便なハンディルーターの場合、イリジウムでは2,400bps(イリジウムGO!)、インマルサットで384kbps(インマルサットBGAN)にとどまっています。

ただし、最新の衛星通信ではより高速なデータ通信に対応するようになりました(新興の衛星通信のみならずインマルサットやイリジウムでも、衛星の世代交代で高速通信に対応しつつある)。高速データ通信を必要とした大きなきっかけは、船上と陸上をネットワークで結ぶことで安全な航行を可能にする、高度な航行支援技術を実現するためでありました。

○高速データ通信を望む声、その意外な理由

ただ、客船ではこの他にも“意外”な理由から高速データ通信を求める声が増えつつあります。

一昔前、というか、つい数年前までブロードネットワークの利用が困難であった多くの客船では、インターネットをはじめとするネットワーク利用を求める船客の要求に対して「船旅はネットから解放される貴重な機会なんですよー」と答えてきました。

航空機でもメガビットネットワークがほぼ常時接続で使えるようになってしまっていた当時(といってもほんの10年前)、正々堂々と「いやー、ネットが使えなくて」と言い訳できる地球上で唯一の場所は洋上の船だけでしたし、確かにそれは安らぎのひと時でもありました。

しかし、いまや船客から「ネットにつなぎたい」という“圧”がどんどん強くなっています。その理由がSNSなのです。

船上で体験したことをSNSで投稿したい、という要望が客船を運航する船会社に寄せられるようになっています。これはアジアに本拠地を置く“とある”クルーズ運営企業のスタッフから聞いた話ですが、SNSが使えるか否かも、客船を選ぶ重要な理由の一つになっているといいます。

ちなみにそのクルーズ運営企業では、そのような船客のSNS投稿意欲を自社のプロモーションとして積極的に活用しています。客船での体験をSNSで多くの人(その多くは体験した人の知人)が疑似体験することで、「自分もその客船に乗ってみたい」という思いが募るとのこと。

○クイーン・エリザベスの衛星データ通信を使ってみた

筆者が乗船したクイーン・エリザベスを運航するキュナードは、英国でも歴史のある船会社です。そのキュナードで所有する「クイーン・エリザベス」「クイーン・メリー2」「クイーン・ヴィクトリア」でも通信環境の整備が進んでおり、船客に衛星通信を利用したインターネット接続を提供しています。

●客船「クイーン・エリザベス」の通信環境を確認

クイーン・エリザベスでは通信速度が異なる2種類のパッケージを用意しており、それぞれ利用時間に応じて料金が異なるプランを選べます。

今では船でもネットワークの利用場面が拡大している。そのため船内には複数のアクセスポイントが確認できるが、船客は「Cunard_Guest_WIFI」を利用する

アクセスポイントに接続したら船内パンフレットに記載されているQRコード、もしくは、URLからログイン/サインインページにアクセスする

クイーン・エリザベスをはじめとするキュナード所属客船で利用できるインターネット接続サービス「WiFi@SEA」を利用するには、この画面からサインインする必要がある

○速度を抑え価格も安い「ESSENTIAL」、高速で通信できる「PREMIUM」

通信速度を抑える代わりに価格も安価に設定した「ESSENTIAL」というパッケージは、Web検索、Eメールの他に音楽データのストリーミング再生とテキストと静止画をメインとしたSNSの利用に耐えられると説明されています。利用金額は24時間有効のプラン24米ドル、航海全期間有効なプランで1日あたり18米ドルです(2023年1月時点)。

パッケージとプランを選択したらログイン画面からインターネットに接続できる

高速通信を利用できる「PREMIUM」というパッケージでは、「ESSENTIAL」の3倍速いデータ通信が可能で、動画データのストリーミング再生にも耐えられるとしています。利用金額は24時間有効のプランで36米ドル、航海全期間有効なプランで1日あたり24米ドルになります(2023年1月時点)。

なお、ここで価格を米ドルで表記していますが、クイーン・エリザベスの船内では(たとえオーストラリア沿岸の航海であっても)使用する通貨は米ドルとなっています。

これらのインターネット接続パッケージは、手持ちのデジタルデバイスから船内のアクセスポイント「Cunard Guest Wi-Fi」に接続した上で、客室に用意されているパンフレット「Cunard Guest Wi-Fi」に記載されているQRコードからアクセスできるWebサイトにサインインして選択すると、使えるようになります。

パッケージとプランを選択してインターネットに接続できるようになれば、24時間もしくは航海中は容量制限なしで使い続けられます(連続接続も2時間までとなっていて、それを超すとインターネットは切断されます。続けて使う場合は再度ログインをする必要があります)。

なお、利用できる端末は4台まで。加えて「同時に接続できる」のは「1台だけ!」です。

同時に複数台接続しようとすると、あとから接続したときに改めてサインアップが求められます。ここでサインアップすれば複数台でも利用可能ですが、料金もサインアップした分だけ加算されるので注意が必要です。

特に、初回サインアップ時にインターネット接続ができず、サインアップが失敗したかと思ってもう一度サインアップすると2アカウント分サインアップしたことになってしますので特に注意してください(というか筆者自身がやってしまった……)。

ちなみに。

客室……、いやここは船なのでキャビンといいましょう。もしあなたが乗船して、キャビンに着いたら、まずは「自分の部屋」化することが大事。

そのためには、キャビンのクローゼットに自分が持ち込んだ衣服を収めて、デスクには自分のステショナリー(というかデジタルガジェット)を並べます。

●「クイーン・エリザベス」のキャビンを紹介!

わずか二泊三日しかいない旅なのに、わざわざスーツケースから私物を全部取りだすなんで無駄な作業でしょう? と思う人も多いと思いますが、たとえ短い間でも、キャビンを自分の部屋にすると、船旅の楽しさは何倍にも濃くなります。ぜひぜひ皆さんも試していただきたいTipsです。

キャビンデッキの長い廊下を歩いていくと

ようやく自分のキャビンにたどり着く

レター受けの封書を開くとクルーズカードが

クルーズカードをドアのスロットに差し込んで、解錠してキャビンに足を踏み入れる。この瞬間が旅行で最も期待に胸が高まる瞬間の1つだろう

キャビンにはコンパクトなデスクと

リビングセットと

クローゼットが用意されている。今回は2泊しか滞在しないけれど、せっかく自分専用の空間なんだから

スーツケースから持ってきた衣類を全部クローゼットに収納して

ガジェットを並べて「自分の部屋」にしてしまうと、航海がググっと充実すること間違いなし

ちなみにコンセントは各種様式そろっていて変換プラグなしでも問題なし

さて、話を本筋に戻すと、

速度抑えめ価格控えめなので、テキストと静止画、音楽データのストリーミングまでの「ESSENTIAL」

速度速めで価格も高めなので、高速で快適、動画のストリーミング再生にも耐えられる「PREMIUM」

という船内無線LANのすみ分けですが、実際にはどの程度の速度で利用できたのでしょうか。

●船内のインターネット通信、実際の速度は?

キュナードのドキュメントでは、船内のアクセスポイントが対応している無線LAN規格が不明なので、実際に筆者が購入した「PREMIUM」パッケージ(航海中有効のプラン)で各種ベンチマークテストを使って測定してみました。

測定した時間は現地時間4時半ごろと、インターネットに接続しているユーザーが少ない時間ですが、google.comのインターネット速度テストではダウンロードで9.29〜9.85Mbps、アップロードで5.24〜6.52Mbps、レイテンシ46〜67ミリ秒、NetflixのFAST.comではダウンロード19〜25Mbps、アップロード7.9〜8.7Mbps、レイテンシがアンロード済み630〜662ms、ロード済みが1.3sでした。

一般的に動画のストリーミング再生に必要な速度は標準画質で10Mbps、高画質で30Mbpsとされています。この基準でいえばクイーン・エリザベスの「PREMIUM」パッケージで使えるインターネットは、動画ストリーミングの視聴に十分耐えうる速度を出しているといえます。

google.comのインターネット速度テストで測定した結果

NetflixのFAST.comで測定した結果

実際に洋上で接続端末の台数も多いだろう午後に、YouTubeで動画(それも可変画素が多くなる“洋上を帆走するヨット”の動画)を、フルHDで15分間ほどストリーミングしましたが、コマ落ちすることなく、ブロックノイズも出ることなく、きれいな状態で視聴できました。

さらに、FacebookのMessengerによるビデオチャット、LINEによるビデオチャットもそれぞれ数分間ずつ試しましたが、こちらは、どちらも多少のブロックノイズが発生するものの大きく遅延することなく、動画を確認して会話をすることが可能でした。

画質を問わなければ、個人が南半球の洋上を航行する船舶から衛星生中継をすることができるというのですからとんでもない世の中になったものです。

○ネット接続が快適なことで思わぬ福音も……

衛星生中継! ……とまでいかずとも、インターネットに接続できることで「陸と同様に」(これ大事)さまざまなサービスを利用できることも、現代では大変便利です。特に高速なデータ転送が可能なことで、画像を使ったサービスが洋上でも実用レベルで利用できます。

その恩恵を最も強く感じたのが、Googleレンズの翻訳機能でした。英国のキュナードが運航するクイーン・エリザベスの船内は原則英語表示。2017年から日本発着クルーズを実施しているだけあり、日本人船客のサポートも充実していて、船内新聞や案内パンフレット、メイン・ダイニングのメニューなどは日本語も用意されているので不自由はないのですが、それでも船内に掲げられている案内板の多くは英語表記です。

そのようなとき、高速インターネットが利用できると、Googleレンズで取得した画像をほんの数秒で解析して日本語を表示してくれます。これが実に便利でした。

Googleレンズのおかげで、英語が不得手な私でも船内で戸惑うことはほとんどなかった

○無料のイントラネットでもここまで便利

インターネット接続サービスとは別に、船内で閉じているイントラサービスも用意されています。こちらは無料で利用できます。

このイントラサービスでは毎日配られる船内新聞の電子版(その日に予定されているイベントスケジュールが記載されている)や、船内に多数あるレストランやラウンジ、バー、カフェのメニューなどが確認できるだけでなく、レストランの予約や船内で使った有料サービスの利用履歴、船内ショップや客室ミニバーでの購入履歴、さらには、客室番号をアドレスとして指定するメッセージ機能などを備えています。

My Voyageはイントラネットで利用できるデジタルサービスだ

My Voyageではレストランのテーブル予約が可能

船内に設けられたレストランやラウンジ、バー(クイーン・エリザベスには6つのレストラン、12のラウンジやバーがある)などなどパブリック施設の説明が参照できる

レストランやラウンジ、バーではそれぞれのメニューも紹介している

さらには、特別メニューの解説まで。これは、キュナードオリジナルカクテルの由来を紹介したページだ

○COVID-19で進化した海外デジタル環境

さて、この記事の冒頭で“とあるお仕事的事情”とお話ししましたが、実はクイーン・エリザベスの魅力を紹介する“お船のお仕事”の一環として、今回乗船する機会を得ることができました。

魅力を紹介するお仕事ですからクイーン・エリザベスの素敵な姿を多くに人に見てもらいたい。船の魅力的な姿といったら……、入港シーンですね!(個人的な感想です)

港の景観をバックに静々と近づいてくる船影。よし!これを撮影しよう。

とはいえ、実をいうと船が入港するシーンを狙って撮影するのはなにげに難しかったりします。今回、事前におおよその着岸時間は聞いていたもの、それ以前の動静については何も情報を得ていません。

●入港シーンを撮りたい! 午前4時半、シドニーで待機

地元の港(例えば筆者が住んでいる横浜港など)なら、着岸時間からそこに至るまでの行動を逆算で予測することは可能ですが、シドニーは初めての港なので、見栄えのするビュースポットごとに着岸前どのぐらいの時間で通過するか皆目見当がつきません。

○起床は午前3時半! Marin Traffic頼りに撮影スポットで待機

こういうとき役に立つのが、船舶の位置情報をインターネットで提供しているWebサービスです。その有名なものの1つに「Marine Traffic」があります。

今回は、Marin Trafficでクイーン・エリザベスの位置情報(正確にいうとGPSで取得された位置情報や舶用機器で取得した速度や針路のデータをVHFで発信するAIS情報)を把握して、船の位置と船速からシドニー港で有名なビュースポットの1つ、Sydney Opera Houseの前をクイーン・エリザベスが通過する時間を予測して撮影場所に待機してみることにしました。

事前に確認した着岸予定時刻はマルゴーマルマル(午前5時!)。そこから逆算したシドニー湾到達時間はマルヨンサンマル(午前4時半!!)。なので、起床はマルサンサンマル(午前3時半!!!)。ちなみに寝たのはマルヒトサンマル(午前1時半!!!!)。お、お、お、起きられるのでしょうか……。

マルヨンヒトナナ(4時17分)、クイーン・エリザベスはシドニー湾の東方沖合にようやく到達したころだった

このときの船速は10.7ノット。まだ時間に余裕がある

シドニー湾は夜が白み始めていた

撮影ポイントに選んだSydney Opera House対岸の背後にあるハーバーブリッジの上には月が輝いていた

マルゴーフタナナ(5時27分)、ようやくシドニー湾に入ってきた

マルゴーゴーヨン(5時54分)、シドニー湾観光スポットに1つ、Fort Denisonに接近してきた

Marine Trafficの表示通り、Fort Denisonの背後からクイーン・エリザベスが姿を現した

朝日が昇ろうとしているSydney Opera Houseの前をクイーン・エリザベスが静々と入港していく

無事着岸したクイーン・エリザベスを、左舷からSydney Harbour Bridgeをバックに見る。手前はシドニー湾の各所を結ぶ連絡船用ふ頭の1つで、ターミナルハブ的位置づけの「Circular Quay」

●COVID-19対策で広がるキャッシュレス決済の波

さて、個人的にも久方ぶりの海外取材だったわけですが、COVID-19対策の影響もあってか、特にキャッシュレス決済の導入が広く進んでいました。

例えば、今回入港シーン撮影のロケハンのために、シドニー湾の公共交通手段でもある湾内連絡船を利用しましたが、その決済手段として以前から使われていた「Opal Card」(日本でいうところのSUICAなどの交通系ICカードに似た機能を持つ)に加えて、タッチ決済に対応したクレジットカードも利用できるようになっていました。

シドニー湾の周辺は鉄道、バス、船を同じパスで利用できる統合公共交通網が整備されている

連絡船ふ頭の改札。Google“ぽい”デザインのセンサーにカードをかざして入場する。このセンサーにタッチ対応クレジットカードも対応している

○船上でもクレカのタッチ決済が役立った

現地の交通系ICカードを購入すれば楽なのですが、購入するまでがなにげにハードル高いですよね(特に心理面で)。タッチ決済のクレジットカードが使えるおかげで、初めての土地でも公共交通機関を気軽に利用できるのは、旅行者としてとても大きなメリットといえるでしょう。

Opal Cardの販売機もあってこちらもクレジットカード“だけ”が利用可能。ちなみに今回の取材で現金で支払ったことは一度もなかった

特に今回はロケハンということで、複数の連絡船航路を利用しました。従ってチケットを購入する機会も多く、かつ、終着港から船に乗ったまま出発港に戻るときも、いったん下船してチケットを買いなおさなければならないところでしたが、船に乗ったままスタッフが所持しているハンディ端末にクレジットカードをかざすだけで、帰りの便のチケットが決済できてしまうなど、格段に便利になっていたのは助かりました。

船に関心があるならば、歴史的価値のある帆船が係留されているCircular QuayからPyrmont Bayを結ぶ「F4」航路がベスト

F4航路では、Pyrmont BayからCircular Quayに戻る航路で、Sydney Harbour Bridgeの向こうにSydney Opera Houseを望む景観を堪能できる

シドニー湾の入り口にあたるManly Wharfには「F1」航路を利用する

F1航路ではかつてシドニー港を守っていた要塞「Fort Denison」をすぐ近くで観ることができる

その途中にあるBradleys Head Lighthouseの近くには、第一次世界大戦において、インド洋から南太平洋にかけて猛威を振るったドイツの巡洋艦「エムデン」を撃沈した、オーストラリア海軍巡洋艦「シドニー」の前部マストを記念碑として保存しているH.M.A.S. Sydney Memorial Mastがある

ここがシドニー湾の“玄関口”。左が北の岬で文字通りの「North Head」、右の岬に見える灯台が「Hornby Light House」、そしてその間に見えるのが外洋のタスマン海だ

○船でも何かと進化していてなにかと便利!

従来、現代では不可欠となったデジタルデータの利活用において「船では何かと遅れていて何かと不便」という認識が一般的でしたが、それはもう過去のこと。COVID-19という厄介な事情のおかげもあったかもしれませんが、とにかく今は、「船でも何かと進化していてなにかと便利」になっています。

衛星データ通信に関しては、この記事が完成する直前の1月18日にStarlinkの導入を発表しています。洋上におけるインターネット活用については、陸とほぼ同じ環境が実現することになるでしょう。

もし皆さんが海外旅行してみたいと思ったならば、洋上で使えるようになったデジタルガジェットを楽しむために船旅を選んでみるのも興味深い選択といえるでしょう。