東京大学野球部・渡辺向輝「自分で答えを見つけるのが好き」。偉大な父・俊介にピッチングを学ばなかった少年時代
文武両道の裏側 第12回
渡辺向輝(東京大学) 前編
2006年の第1回大会、2009年の第2大会のWBC(ワールド・ベースボール・クラッシック)で、2大会連続で世界一になった野球日本代表。その日本チームを先発や中継ぎ投手として支えたのが、渡辺俊介さん(元千葉ロッテマリーンズ、現・日本製鉄かずさマジック監督)。地を這(は)うとも言われた、独特のアンダースローで一世を風靡した投手だ。
連載企画「文武両道の裏側」第12回では、その大投手を父に持ち、自身もアンダースローのピッチャーとして東京大学野球部でプレーする長男、渡辺向輝(こうき)投手にインタビュー。前編では、野球を始めた幼少期から文武両道に努力した学生時代について語ってもらった。
東京大学1年で野球部に所属する渡辺向輝さん
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野球は自分の意思で始めた
ーー向輝さんの父は、あの渡辺俊介さんですが、野球をしているお父さんの最初の記憶は?
渡辺向輝(以下、同) そうですね......家のなかで、一緒にキャッチボールしている時だと思います。おもちゃのボールを投げて野球したのが、たぶん最初の記憶だと。それと、試合を観に行ったことはあんまりなかったんですけど、記憶に残っているのは自分の祖父母と一緒にデーゲームを観戦したことがあって、その時にけっこういいピッチングしていたのが記憶に残っています。
ーーどんな試合だったんですかね?
打たせて取ってるなというイメージがありました。三振を取るのではなく、早いカウントで、バッターに打たせている印象でした(※)。
※2008年7月20日の千葉ロッテマリーンズ対埼玉西武ライオンズ戦。渡辺俊介投手がライオンズ打線を88球で完封、16対0でマリーンズが勝利した
ーー現役時代の俊介さんは「打たせてアウトを取れている時は調子がいい」とインタビューなどで言っていました。まさにそうしたピッチングを目の当たりにしたんですね。さて向輝さんは現在、東京大学1年生。野球部に所属し、同じアンダースローで投げています。向輝さんにとって、お父さんはどんなピッチャーになりますか?
体格が生まれつき大きいわけではなくても、けっこう強い相手を抑えたりしていたのを覚えています。自分も体格が大きいわけでもないので、理想にしたいなとは思っています。
ーー野球はお父さんから勧められて始めたんですか? それとも自分から「野球をやりたい」と言ったんですか?
自分の意思で小学3年の時に始めました。もともと投げるのが得意で、体が小さかったわりに、体力テストのソフトボール投げで学年2番になったりして。それがあって自分のなかでも野球が向いてるのかなという感じで。
現在は父と同じアンダースローでプレー
ーー小学3年から始めた野球をずっと続けてきていますが、小学校時代の勉強と野球の両立はどのようにしていましたか?
母親がものすごくフォローしてくましたね。平日は週3日塾へ通っていて、夕方の5時15分から始まるんですけど、5時までずっと友達と野球をしたあと、母親が塾の送り迎えをしてくれました。あと少年野球の練習が土日2日間ともあったんで、塾のテストとかぶった時には、テストは受けないで野球を優先したりしました。
ーー週末は野球優先というのは、渡辺家の教育方針的なものがあったんですかね?
そこまではわからないですけど、「勉強だけやって、つまらない人間にならないように」とは両親からよく言われていて、自分でも勉強だけやっているのは気分的にもなんだかなという感じですし、小学生なので遊びたい気持ちが一番だと思うんで、勉強だけにはならないようにしていました。
ーーちなみにいつから塾に通い始めたのですか?
塾は小学4年の途中からです。勉強以外にもいろんな習い事をやっていました。ピアノと水泳と、あと英会話や科学の実験をするようなところにも通いました。
ーー野球もあるし、塾もあるし、習い事もあるし......もう1週間の7日間が全部埋まってしまいそうです。当時はどう思っていましたか?
もう毎日、何かしら予定があったんですけど、勉強の塾以外は自分が楽しんで行っていたので、全然つらくはなかったです。
ーー塾が一番大変だったんですね!
はい! 大変でした(笑)。
ーーとはいえ向輝さんは千葉県に住んでいて、小学4年から塾へ通うということは当然、中学受験を意識していたのかなと想像します。中学受験はどこを受けましたか?
本当は、開成中学へ行きたかったんです。あと渋谷幕張も受けましたね。落ちちゃいましたけど......。それで海城に行きました。
ーーそうなると、実際に進学した海城中学はちょっと不本意だったのでしょうか?
当時はそうだったかもしれないですが、今は海城に入ってよかったなと思っています。やっぱり、場所が東京の真ん中(※新宿区、JR山手線新大久保駅から徒歩5分)にあって、それまでずっと千葉県から出たことがなかったで、東京のいろんなところを見られることもよかったかなと。あとは、やっぱり頭がいい人たちがいっぱいいて、そのなかで部活をやっている人たちもたくさんいたので、勉強と部活の両立を学べたと思うんです。
ーー海城での中学生活では、最初から野球部に入ろうと思っていたんですか?
はい。小学生の時はピッチャーじゃなくて外野手をやっていたんですが、ずっとピッチャーをやりたいと思っていて。海城なら、なんとかピッチャーで試合に出られるかなと思って、中学1年からピッチャーになりました。
海城中学の野球部は当時、全体練習はゆるかったんですけど、自主練は好きにやってよかったんです。グラウンドが広くてゲージも使えるなど、設備がよかったこともあって、けっこう遅くまでよく自主練していました。
オンラインでのインタビューに応える向輝さん
ーー野球漬けの毎日のなか、勉強はどういう感じでしていたんですか? 向輝さんならではの両立の方法はありましたか?
電車での通学時間が片道で1時間ちょっとかかっていたので、その時間だけは行きも帰りも絶対勉強するようにしていました。
ーー具体的にどんな勉強でしたか?
やっぱり部活をやっていない人と比べて時間がどうしても取れなかったので、問題や演習を解くよりは、とにかく教科書を無限に読む、何度も読むということをやっていました。電車の中でずっと、数学だとしても問題は解かないで、教科書をひたすら読みました。
ーー中学時代の成績はどうでしたか?
中学の時はひどかったです。よくなかった。いや、悪かったです(笑)。学年300人中、200番くらいで、個人的にはけっこう勉強してるつもりではあったんですけど、どうしても野球をやりすぎちゃって、試験に間に合わないという感じでした。それでも模試になると中学の時はなぜか点数が取れていました。校内の定期試験では取れなかったんですけど。模試の成績は100番くらいでしたかね。
ーー得意科目と不得意科目は何でしたか?
中学時代は、現代文が案外点を取れたのと、あと数学ですかね。その2つが得意です。英語はあまりできなかったですね。
ーー海城は中高一貫校ですが、高校での野球の目標は何でしたか?
高校に入った時の目標は、とにかく速い球が投げたかったので「140キロ投げてやるぞ!」みたいな感じでしたね。当時はアンダースローではなく、上から投げていました。
ーーその目標はクリアできましたか?
いや結局、最速で137、8キロでしたね。
ーー高校3年生の時、東京都大会前に肩を壊してしまったそうですね。
コロナの影響で休校になって、その休み明けで練習を再開したあとでした。ピッチャーがとにかく少なくて連投が続いたこともあって、それでケガしてしまったのかなと。故障後にアンダースローにフォームを変えました。
ーー野球については、お父さんからアドバイスをもらいますか?
実は上投げの頃はあんまりアドバイスもらわないようにしていたんです。
ーーどうしてですか?
なんて言うんですかね、昔から自分で答えを見つけるのが好きで、ひとりでいろんなものを探しに行ったりしていたタイプなんです。だから投げることに関しても、答えを与えられるんじゃなくて、全部自分でやりたい意識が強かったんです。
でも肩をケガして、アンダースローに変えた夏の大会の時だけはアドバイスをもらいました。投げ方とか抑え方、そういうところをいろいろと教えてもらいました。最後の東京都大会は、初戦で敗れてしまいましたが。
インタビュー後編「父・渡辺俊介と同じサブマリンの東大野球部・向輝。参考にするのは牧田和久と中川颯で『父の投げ方はやりづらい』」>>
写真提供/東京大学野球部
<プロフィール>
渡辺向輝 わたなべ・こうき
2004年、千葉県生まれ。小学3年から野球を始め、海城中学・高校では投手を務めた。2022年、東京大学理科二類に入学し野球部に所属している。父は、千葉ロッテマリーンズなどで活躍した"ミスターサブマリン"の渡辺俊介さん。